第14話

 充てられた部屋は最上階で、海を臨むこともできれば、美しい街衢がいくを見下ろすこともできた。従業員の気配りも、運ばれてくる料理にも文句のつけようがなかった。しかしアルスは浮かない顔をして旅館の共同休憩所に座していた。一人でいるのが落ち着かない。

「別に騙してたことなら気にしなくていいのに。違う?」

 リスティは給水所に用があるらしかった。紙の容器を片手にして、彼の前を通りかかる。いくらか冗談めいた様子は、彼女なりに気を遣っているらしい。

「やっぱり根に持ってるんだ?」

 アルスは彼女の気遣いに乗ることにして、苦い微笑を繕った。

「ま、出世払いできる仕事ではなさそうね」

「お世話になった分は、できるだけオレ個人の財布から出すよ」

「殊勝なことね。感心、感心」

 彼女は相変わらず飄然としていた。だが彼女は本当に金についてのことをのみ、この少年に案じていたのだろうか。

「君の相手方にも、ちゃんとオレから説明するよ。さすがに悪いからね」

「それじゃあ、あたしもあなたのお相手にちゃんと説明しなきゃあね。連れが浮気相手ばかりにかまけていて寂しかったのってね」

 アルスは素から苦笑しなければならなかった。

「それは要らない。そういうんじゃないよ、本当に。一応、婚約が決まってた人なんだし」

 わずかにリスティの偽悪的な笑みが治まり、同情めいたもに変わる。

「今度ロレンツァに来たとき、ちゃんと観光案内してあげる」

 やっとロレンツァへ戻ってこられたというのに、明日、セルーティア氏とともに今度は王都まで行かねばならない。何故か。王族の関係者に関わってしまったからだ。アルスは早く彼女に己の身の上のみについてでも打ち明けるべきだったのかもしれない。

「出世払いに加算される?」

「もちろん」

「じゃあ、考えておく」

「安いもんよ。ロレンツァ鯛のアクアパッツァとか美味しいんだから。木苺カフェとかね」

 彼女との会話で、いくらか気分が紛れた。延々と駆け巡っていた大臣の言葉と、これからの人生についての空想が掻き消える。

「ありがとう、リスティ。もう寝るよ。おやすみ」



 望まぬもてなしだった。リスティによって叩き起こされることについては、彼はあまり驚きはしなかった。だが寝室を出ると、街並みと同じく白と金を基調にした制服に身を包む群衆が、居間の壁に添わっていた。遮光眼鏡を掛けた顔が一斉に部屋に、居間に踏み入ったアルスを捉える。彼はぎょっとした。王城でもこのような扱いは受けない。

「さすが市長。護衛がすごいですね」

 制服の集団の中に頭ひとつ分ほど小柄なセルーティア氏を見つける。この者が、市長で間違いないのだろう。一晩で納得しかけていたが、すでに疑う余地もなくなった。

「こちらはロレンツァ警備隊です。セルさんをお守りします。王族クリスタルの保持者として、現在のフェメスタリアに於ける王子の役目を担うのは貴方です」

 軽く発した言葉に返ってきたものは重く、彼は黙るほかなかった。

「王子が、目覚めるまで……」

 そしてやっと言葉が出てくる。しかし消え入りそうであった。退屈で平坦な生活が途端に恋しくなる。

「はい」

 セルーティア氏は冷酷だ。この者が王子を目覚めさせるはずなのだ。そういう話だったではないか。突き放したような対応に、アルスは戸惑い、いぶかる。

「セルーティア先生なら、治せるんですよね?」

「実際に診てみないことには断定できかねます」

 鰾膠にべもなかった。根拠がなくてもよい。ただ安心を得られる一言を求めていた。彼は生優しい建前で作られた世間のなかで生きてきた。

「そうですね……そのとおりです」

 眉根を寄せてセルーティア氏のほうへ一歩踏みだそうとするリスティが視界の端に見えた。そのために彼は慌てて同意を示す。

「頭の悪いことを言ってすみません」

 医者というのは王都でいえば、役人よりも民草に寄り添い、役人より社会的地位も高く、羨望の的となる職業であった。医者から高等官吏へ転じる者も少なくない。家柄をみられてしまう役人と違い、知力と技術さえあれば、どのような生まれでも富、名誉、権力を手にすることができる。権威のない王族よりも、身を助ける医者である。王都で育ったアルスは、一夜明けてこの者が医者だと分かると、その肩書きに対して萎縮した。

「いいえ。希望を見出すのは人として当然のことです」

 愛嬌のひとつもなかった。音吐に慈しみもない。

 3人は船を使って王都へ戻った。セルーティア氏が用意した公人用の船だった、港町に着くまで、酔いのためにアルスは寝たまま起きることができず、セルーティア氏は第三職業にあたる大学の助教授として論文を書いていた。リスティはすぐ傍にいる医者の助言を聞きながらアルスの介護士同然になっていた。船は小規模で、ほかに運転士がいるのみだった。

 アルスはロレンツァへ向かったときよりも、早くに港町に着いた気がした。

「あたし、王都につてないんですけど」

 港町ならばあるらしかった。彼女はまた安い訳のある宿を借りる気でいるらしい。

「宿でいうと、王城壊れちゃって、家ない人もいっぱいいるみたいだから……王都で借りられるかな。地下街になくはないんだけど……」

 アルスはリスティを見遣った。王都には地下街があるが、治安がいいとはいえなかった。王都を築いた土木作業員やその家族たちの遺構であるが、今や「お行儀のいい王都民」の影である。

「僕にあります。都立学園の教授の寮がまだ空いていればですが。なければ臨時学生として、学生寮をお使いください」

「王都でも先生をやっているんですか」

 アルスが訊ねた。

「はい」

 依然として愛想のないつらをしてセルーティア氏は答える。患者や学生とは円滑に意思疎通を図れているのだろうか。

「常に仕事をしているんですね。いつ寝ているんです?」

「寝ません。僕に睡眠は必要ありません」

 水の都でリスティは何と言ったであろうか。セルーティア市長の営む診療所は本人不在時以外、開いていると言っていなかったか。

「そういうところに市民は感銘を受けたってわけ!」

 リスティは何かはぐらかす感じだった。これより先を訊ねるのは野暮なのだろう。

 王都に着くころには夜だった。入都手続きについては大した時間を要さなかった。アルスの木札も、セルーティア氏の存在も、リスティを信用に足る存在と見做みなさせた。

 王都はロレンツァのような魅せるための外灯ではなく、実用的な照明によって街衢がいくが浮かびあがっていた。北にいくにつれ土地の高くなっている王都は、平生へいぜいであれば最南端の関門からであっても、天を衝くように聳え立つ城が異様な雰囲気を以って、夜間でも見えるはずなのであった。だが今見えるのは、尖塔を失くした陰惨な瓦礫だ。

 アルスはリスティとセルーティア氏を連れて大通りのほうへ向かうところだった。しかし、セルーティア氏の歩みが大通りの階段をのぼる途中で鈍くなった。王都にある学園で働いているのならば、土地勘はあるはずだ。だが、まるで昨日ロレンツァに到着したアルスと同じ有様だった。

「どうかしたんですか」

 誰か探しているようにも見えれば、道に迷っているようにも見える。頻りに頭を振り、左見右見とみこうみ忙しない。

「こちらの道はあまり使ったことがありませんでした」

 けれども王都立の学園にしろ、王城にしろ、セルーティア氏の知っているという道は遠回りだった。

「じゃあ、今日はこっちから案内します。こっちのほうが近いですし」

 アルスの提案についてセルーティア氏は不本意なわけではなかった。だが城前広場にもうすぐ着くというところで、またもやこの人物は急に足を止めた。リスティがそのことに気付く。

「市長……?」

「何か……何かが……頭のなかに………入ってくるのです。光景が…………言葉が、出かかっているのです。ですが、上手く……」

 彼女は首を傾げた。アルスと顔を見合わせる。体調が悪いということを知的に、高尚に説明するとそうなるのであろうか。

「具合が悪いんですか?そこに診療所が……」

「いいえ。健康状態には問題ありません。ですが、頭のなかに何か入って……情報が、勝手に…………誰ですか?」

 セルーティア氏は混乱しているようには見えなかったが、その口振りからすると十分混乱していた。虚空を見つめ、誰何すいかする。ともに来た2人のことなど忘れたようで、すたすたひとりで緩やかな階段を行ってしまった。

「セルーティアさんって変わり者?」

「あまり関わりがないから……そんな感じしなかったけど。けれど賛否両論ね。人物評としてはありがちな。偏った人間こそ信用できないし」

「働き詰めは身体に悪いってことだ」

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