第15話
市長という印象は持てない、若く小柄な後姿を追う。セルーティア氏は何かに吸い寄せられるように、避難用天幕を避けながら城前広場の巨大なオブジェの前で立ち止まった。心霊石と渾名されたその大きな置物は、柘榴みたいな色をした石で、わずかに透過性があった。時折、内部に人が閉じ込められているのが見えるらしい。常に見えるわけではないらしい。条件もあれば、見る人にもよるという噂だった。アルスには見えなかった。
「何か見えますか」
訊ねてみるが、返答はない。セルーティア氏は愛想こそないが慇懃な人物であった。職業柄そうしなければならないこともあったのだろう。だが、今、わんぱくな悪童よろしくオブジェの
「僕はオール・ゼノビウズと申します」
セルーティア氏は台座の上で2人を見下ろした。
「えぇ?」
困惑の声をあげたのは、ロレンツァの市民のひとりであるリスティだ。彼女は市長の奇行に肝を潰したままであった。
「普段は、そうは名乗られていませんよね」
「僕は自分を、オール・セルーティアだと思い込んでいたのかもしれません」
リスティはまたアルスと顔を見合わせた。
「市長……?それはどういう……?」
「僕は忘れていたのです、きっと……僕は、僕を知らないのかもしれないのです」
巨大なオブジェが悪いのだろう。この心霊石が悪いのだ。それに触れてから、セルーティア氏はおかしなことを言うようになった。否、それはこじつけだ。若すぎる市長は、働きすぎたのである。奇妙なことを口にするのはこれ
が初めてではない。
「僕は市長失格なのかも知れません。市民を……騙していた……?」
落ち着き払った自問自答だった。もしくはアルスたちに投げかけていた。だが彼等には答えようがなかった。
「妙なことを考えないでください、市長。王城がこの有様ですから……ロレンツァはフェメスタリアの主要都市のひとつです。そのロレンツァの市長が、この時期に辞任とあっては混迷します。とりあえずのところは……その後ろめたさと戦ってくれませんか」
リスティが言った。アルスは彼女に見惚れてしまった。その機転と高い演技力に。彼女の本心ではなかろう。それは理由もなく彼の理解するところだった。
「……承知しました。それが一市民の声ならば……」
セルーティア市長はあっさりと心霊石から手を離した。そして瓦礫の山と化した城へ向かっていく。
「王子はどちらにいらっしゃるのです」
ここでアルスはある矛盾に気付くのだった。ランタナ師匠は王子を棺桶ごと埋めると言っていた。まるで誰かがそう決めたように。しかしガーゴン大臣は、王子は行方不明だと語ってはいなかったか。つまり城の関係者たちの認識にも大きな隔たりがある。
彼はセルーティア市長の問いに狼狽した。王子がどこに埋められているのか、アルスも知らないのである。
「訊いてきます。王子がどこに埋められているのか……オレの師匠なんですけれど。その前に、2人にはガーゴン大臣に会ってもらいたいんです。多分、南門舞踏館にいると思うんですが……」
セルーティア市長は知り合いの可能性が高いけれども、リスティはそうではなかった。彼女も部外者ではなくなってしまったのだし、城の者に引き合わせ、相応の待遇を迎えるべきだ。
「それでは僕が案内します。セルさんはどうぞ、ここからは別行動で」
「よろしくお願いします」
城前広場と王城正門を繋ぐ階段で3人は別れた。アルスはランタナ師匠に会うため、彼女の鍛錬場がある西翼へ向かった。
師匠はガーゴン大臣以外の誰から王子の処置について指示を得たのか。
鍛錬棟へ通じる階段を上っていたとき、反対側からやって来る者があった。服装からみるに城の関係者らしかった。
「帰っていらっしゃったのですね、アルス様」
彼はその人物の顔を見た。穏やかな人相の、嫋やかな女性だった。しかしアルスは幼馴染やリスティを前にしたときとは異なる威圧感を覚えた。年齢のせいにしても、わずかに年上というふうだった。
「は、はい」
城に勤めている者の数は多い。近くの町の人口より多いかもしれない。すべての顔を覚えているわけではなかった。だが一度見れば忘れることのなさそうな印象のある女だった。それは容貌のみに限ったものではなく。
「鍛錬場からお帰りなんですか」
「ええ。何か?」
「ランタナ師匠を見ませんでしたか」
彼女は腕を組み、宙を見回す。
「見ておりません。ですが・・・・・2日ほど前に伝言を受け取りました。まだお会いしていらっしゃらないのでしょうか。金魚は麦の下に……とのことでしたが」
アルスはふわ、と立ち眩みのような、頭が軽くなるような感覚に襲われた。金魚は麦の下に……
王子の紋章が緋鮒であった。つまり金魚であった。アルスはそれを見せてもらったことがある。小さな口は暗雲を焼き尽くす炎を吹き、小さな鰭はやがて大津波のごとき革命を起こし、小さな尾は世を覆う龍となる……
ランタナ師匠がその意味を語っていた。麦の下。彼女は大酒飲みだった。子供の手前、麦水と呼んでいたけれど、幼いながらにアルスはそれが指すものを知っていた。麦酒。麦酒屋の看板が捨てられている空地を彼は知っていた。そしてそこは、師匠とまったく関わりのない場所ではなかった。
「ペットですか」
「そうです。墓参りがまだなので。ありがとうございます」
彼は焦っていた。踵に
夜だった。視界は悪い。街道の頼りにならない明かりを頼りに、彼は看板を探した。己が推測を疑おうとすることもなかった。
王子の目が覚めたら、まずは何を話そう?
だが王子はそういう性分でもなければ、王子とはそういう仲でもなかったように思う。現状は彼を物思いに耽ることを赦さなかった。
空が遠くで轟く。いやな響きが肌に伝わる。また王城が傾くのだろうか。
アルスは斑模様を透かした天を見上げる。遠くで何かが煌いた。黒い影が星空と雲の浮かぶ空に映し出された。それは飛んでいる。巨大な鳥であった。無邪気な蝶のように翼を
影絵のなかに見えた鋭く長い嘴が開く。外灯よりも明るいものが、鳥の口のなかに溜まっているのだった。やがてそれは光線として吐き出され、アルスの傍の土が吹き飛んだ。彼は脇へとすばやく退く。
暗いなかに、大きな穴が濃い闇を持って空いている。
アルスはここに王子が埋まっているのだと断定していた。疑うこともなければ、信じるなどという曖昧な判断さえ下していなかった。決まりきっていた。王子はここにいるのだ。確信であった。
王都はロレンツァ同様に眠らない大都市である。中心地である。地下街には夜に最も盛り上がるような娯楽があり、仕入れに限りのある飲食店も栄えている。官吏たちや土木作業員たちも夜間に行うしかない業務がたくさんあった。
彼は王都で働く彼等彼女等のことを考えてしまった。ここは空地である。どこかに王子の棺桶が埋まっているが、近場を行き交う者は他にいない。迷いはなかった。場合によっては、仮死状態にとどめをさすことになったとしても、ここを動くべきではなかった。
アルスは短剣を構えた。これはリスティから渡されたものだ。ロレンツァから王都に戻ってくる船内で、セルーティア氏は忠告した。
リスティは気前のいい女であった。アルスは小さな器物を手にしていた。短剣だけでなく、帯魔計という高価な品も彼に貸していた。他人の魔力を蓄えておけるのであった。アルスは魔凪を蓄え、魔力として放出する能に恵まれなかった。
便利なものを手に入れた……と思ったのも束の間のことである。肝心の使い方を彼は知らなかった。元は魔術の使えない人間が持つものではない。貯めておき、いざというときに利用するものであった。魔力を放つという経験のない彼には、その要領がまるきり分からずにいたのだった。
鳥はそういう彼の事情に構いはしない。
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