第13話


 中に入ると、まず薬品の匂いが鼻腔に沁みた。清潔感のある内装だが、壁も天井も座椅子や生活品すらも眩しいほどの白に統一されているのは、これも景観条例のためなのだろうか。

 他に患者はいなかった。そのまま診察室へ通される。そう広くはなかった。

「あの、セルーティアさん。おじいちゃんか、お父さんは……」

 対峙した少年とも少女とも判じられない人物は、一切表情を変えずにアルスを捉えた。睨んだようにも見えた。しかし怒気を感じられはしない。

「おりません」

「アルスくん?さっきからどうしたの」

 リスティの溜息に彼は戸惑う。

「セルーティア市長に会いたいんです。オレはアルス・セルです。話を通していただけませんんか。王都で治してほしい人がいるんです」

 彼はひとり興奮していた。そう大きくはない診察室にその声がこだまする。そして余韻も消え失せるまで静まり返っていた。

「まずは、セルさんの治療をします。患部を診せてください」

 顔色ひとつ変えず、眼球と唇だけが動いている。

「すみません、市長。あの大変な状況の王都から来たみたいで、やっとロレンツァに着いて少し落ち着いて、今になって気が動転しているのだと思います」

 畏まったリスティの態度によって、アルスはこの人形めいた医者を訝りながらも探るような目を向けた。そして渋りながらも肩を晒す。

「強い衝撃が加わりましたね。魔圧も」

「え、ええ……まあ」

 静寂と医者の冷たい掌と、辺りを漂う酒気の異臭が彼を徐々に落ち着かせる。

「よく来院してくださいました。治癒術は便利ですが結局は魔凪マナを身体に取り込む行為ですから、魔傷害を起こしたり、解毒の際には少なからず身体に負担がかかりますから、来院できない際は薬草や自然治癒をおすすめします。2種類の薬をお出ししますので、塗り薬で魔圧の傷を、貼り薬で打身を治します」

 まるで台詞を読み上げているような淡々とした喋り口であった。その間にも冷たい手は処置を進めている。

「そういえばセルーティア市長。いいえ、先生」

 リスティが腫れ上がった患部から目を離さずに声をかけた。

「はい」

「寄生虫につかれた魚の絵がありましたよね、待合室でしたでしょうか」

「魚の絵……ですか」

 人形のような生気のない人物のしばし考え込むような素振りにリスティはいくらか焦っているようだった。

「魚に、角材みたいなものが生えていて、藻のようなものが茂っている……」

 アルスは無言のうちに紙片を差し出した。セルーティア市長らしき若い風采の人物は虚ろな眸子を紙面に這わせる。

「これはどなたが描かれたものなのですか」

「描いた人は分らないんだけど、くれたのはオレの……―友人」

 しかし友人と断定するのには、まだ迷いがあるのだった。

「待合室に飾ってある絵は僕が描きました」

「盗作?」

 リスティが呟いた。

「いいえ。盗作とは思いません。あれは僕が、大地を読み取ったものを描いたのです」

 突如アルスはこの医者が胡散臭くなった。リスティへ目を向けた。

「読み取ったというと……?」

 彼女も、彼と同じ疑問を抱いたらしい。

「大陸クリスタルの輪郭をたどると……このような形になります。大陸クリスタルはご存知ですか」

 アルスはぎくりとした。

「あたしたちが魔凪の恩恵にあずかれるのは大陸クリスタルのおかげ……と聞いたことはあります」

 リスティが答えたために、彼は安堵した。彼女が口にしたのは王都の中でもよく聞こえる、啓蒙活動である。

「そうです。その大陸クリスタルを読み取ると、このような形をとることができました」

「魚がいるんですか、この地面のずっと下に?」

 アルスは眉を顰める。この医者というのは狂人ではあるまいか。リスティは騙されているのではあるまいか。ロレンツァの医者というのは狂人であるから、この都では健康よりも観光資源、実生活よりも景観条例、医者よりも演奏団などという風潮になっているのではあるまいか。

「魚とは断じられません。ただこのような形になるということです。このような形の何物かが、この地の遥か下を支えているのです」

「これをオレが渡された意味は?大陸のずっと下には魚がいるって?」

「これがセルーティア先生が描いたものでないのなら、同じ考えの人が他にいるってことよね?」

「待合室にあるとかいう絵に、影響を受けた人が描いただけなのかもしれないじゃないか。だとしたら、ただのらくがきを意味もなく……渡されたのか……」

 彼は嫌になってしまった。徒労感に襲われる。だがまだ、セルーティア市長には用があるのだった。

「王子が仮死状態にあるんです。ロレンツァのセルーティア氏なら治せると聞きました。市長のことですよね。その人は誰なんですか。お忙しいのは分ります。でも会わせてください」

「市長は僕です。その件でセルさんにお渡しするものがあります」

 アルスがうんざりしている間に、処置は済んでいた。彼は服装を整えた。気分も変わる。急に緊張感を覚えたのだった。

 セルーティア市長を自称する人物は、己の首から革紐の首飾りを外した。石がついている。

「こちらを」

「何ですか」

「王族クリスタルです。王都の核といってもいいでしょう。これを失えば、王都は機能しなくなります。同時に、王族の中枢としての証です」

 受け取ろうと伸ばした手が止まる。退きかけもした。

「僕は王城が何者かに襲撃されたとき、その場にいました。そしてこちらを持ち帰ってきたのです。狙いはおそらくこちらです。王族の証です。これが城にあることで、王都を壊滅させるわけにはいきません。僕が持っていることで、この強大な魔凪を抑えておりましたが僕は王族ではありません。やがて限界を迎えるでしょう。実際に凶暴な魔物の観測報告がきています。セルさん、お待ちしておりました」

「ロレンツァへ行けというのは、これを受け取るためだったというわけですか。王都が壊滅しなければ、ロレンツァはいいのですか」

「とりあえずは、僕がこの魔凪を匿っておりました。ロレンツァには結界を張って。けれど有事の際は、そういうことになります。王都外市町村より、まずは王都です」

 しかし先程の態度や様子から、「お待ちして」いたようには到底思えなかった。あまりにも冷静なのであった。

「それでいうと、アルスくんは、王族ってこと……?」

「いいえ、セルさんは王族ではありません。ですが、王子の成り代わりの務めにあります」

 リスティの声は冷たかった。アルスは一瞬、息を忘れてしまった。彼女は王城の関係者をよく思っていないようなのだった。

「王子の成り代わり……」

 セルーティア氏は愛想のない目をアルスにくれた。

「話されていませんでしたか。失礼」

「お城の役人なんじゃないの」

「いいえ。この方で間違いありません。王族クリスタルは人工クリスタルや大陸クリスタルとは異質のものです。王族の持ち得る圧倒的な魔力、もしくは魔凪を一切持ち得ない者でなければなりません。セルさんは後者です。王子の成り代わり、つまり王族クリスタルの保持者として適任なのです。ガーゴン大臣から聞いていた方そのとおりです」

 彼はリスティの存在を、そして彼女に並べたてた嘘を、今の今まで忘れていた。途端に、彼女の目が怖くなる。王子の成り代わりの務めにあることについては王都の平民の友人たちにも隠してきたことだった。

「ごめん、リスティ。嘘、ついて……」

 気難しい面もあったが、彼女は信用に足る人物だとアルスは判断していた。悪人ではないだろう。彼は素性を明かした。王都勤めの役人というのは偽りであること、いずれ然るときには王子と成り代わるかもしれない身の上であること、その王子が王城襲撃の日から仮死状態であること。

 こわい表情でリスティは相槌もうたず、返事もせず、頷きもしないで弁解を聞いていた。

「フラッド夫人。これはまだ知られてはならない内容でした。公にしていないのです」

 セルーティア氏は冷淡な眼差しを彼女にくれた。フラッド夫人とは彼女のことらしい。だがアルスのほうが先に反応した。

「えっ」

「知ってしまった以上、行動を共にしていただきたいのです」

 この小柄な若い市長は見るからに融通の利かなそうな人であった。

「情報をその辺で喋られちゃ困るってことですね」

「ご、ごめん、リスティ……」

 彼女は当事者意識が欠けているのか、飄々と肩を竦める。

「セルさんがお話したせいではありません。共に来たようですから、そのときから決められていたことです」

「じゃあ、あたしが巻き込まれにいったようなものね。気にしないで、アルスくん」

「ご夫君との接触も控えられますよう」

「はいはい」

 セルーティア氏に対して威儀を正していた彼女の態度は急に投げやりになっていた。

「いいのかよ。会いに帰ってきたんじゃないのかよ」

「旅人だからね、お互い。方々に現地妻がいることですし」

 自嘲的な気遣いが、アルスを苦しめる。

「出世払いしてもらうからには、地の果てまで取り立てるつもりだったし?でもあなたは大丈夫なの。故郷に残してきた"カノジョ"に悪くない?」

「そんなんじゃないよ。その紙くれた人の婚約者だし……」

 セルーティア氏の目の色がわずかに変わった。だが彼等はそれに気付かなかった。

「複雑な関係なわけね」

 セルーティア氏はそれから2人を表情もなく見遣ってから机の上の伝声機に手をかける。

「ご自宅には帰らないでください。宿泊所はこちらでご用意します」

 アルスにはありがたい話であった。しかし彼は傍で佇むリスティのことを忘れていなかった。

「リスティは?帰る家があるんだろ?相手、家で待ってるんじゃないの」

「寝に帰るだけの家が、ね。どうせまたどこかで酒飲んで遊び歩いてるわ。他の女とね」

 それも彼女なりの気遣いだったのだろうか。だがいずれにしろセルーティア氏には関係のない、配慮する必要のないことらしかった。すでにその口は旅館を手配しているのだった。

「ご夫君には僕からお話しておきます。オーシャンパレス・パギューロというホテルへ向かってください」

「喜びなさいよ、アルスくん。ロレンツァの高級ホテルなんてなかなか泊まれないんだから。お高いのだし。ああ……でも、もう来たことある?」

 彼女は話している途中で改めてアルスの素性を思い出したらしかった。気拙げな様子であった。

「ないよ。これは本当。もうリスティには嘘つかない」

「嘘つく、つかないの話はややこしいわよ、アルスくん」

 怒ってはいないようだった。悪戯っぽい。偽悪的な笑みを浮かべている。

「ごめんて、リスティ。最初は気を遣わせることになるなって思ったんだよ。でもそのうちに、オレって世間知らずだなって気付いて、何不自由なくのうのうと暮らしてたの、悪い生活じゃなかったけど、急に恥ずかしくなっちゃったんだ」

 彼女にはすべてを話す義務を感じた。そしてそれは今であると直感した。

「赦すとか赦さないとかないわ。声かけたのあたしのほうだし。大丈夫よ。むしろあたしでよかったくらいじゃない?こんな身軽な女、そうそういませんからね!」

「もう、本当に……」

 セルーティア氏は旅館の場所と名前を記していた。そしてその紙を渡す。

「場所はこちらです。王族のことですから費用は市で負担します。薬を用意しますので、少々お待ちください。こちらも公費負担です。それから王族クリスタルをお忘れなく」

 先程まで触診していた手で、国を左右するというには小さな石の首飾りを差し出す。アルスは躊躇した。気後れした。逡巡した。王都を出るときに、ガーゴン大臣の発した一言が甦るのだった。しかし今、これを持っていなければならない人間がいる。その役目のある者が。

 王族クリスタルが首へと掛けられる。王子の座を奪ってしまったような嫌な感じがあった。小さな石ころが重い。

「王子の治療を、よろしくお願いします」

「承知しました」

 はたからこのやりとりを見ていたリスティは、旅館までの道中、とても印象深い光景だったというようなことを語った。

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