第12話
船室に戻るとリスティが座っていた。アルスもその傍に腰を下ろした。
「肩、見せて」
彼女はばつが悪そうだった。王城の関係者であることを知られてしまったのとは、また異質の
「え?どうして」
訳が分からず、アルスはそのまま彼女のほうへ身体を向けた。
「蹴っちゃったでしょ」
強烈な足技に当たった箇所を小突かれる。
「痛……ッ」
嘆息が聞こえた。そして彼女は掌に光を集め、その肩へと翳すのだった。鋭く響くような痛みが和らいでいく。アルスは胼胝や
「ロレンツァに着いたら、お医者さんに診てもらって」
「治療してくれたんだ。ありがとう。でも気にしないで。オレが飛び出したのが悪いんだし」
リスティは冷めたような、挑むような、わずかばかり好戦的で意地の悪そうな眼差しをくれた。それだけだった。
ロレンツァに着く頃、空はすでに暗かった。だがこの観光地のあちこちに明かりが灯っていた。視界に不便はないようだった。朝は朝の、夜は夜の美しさが演出されるのだろう。そこは眠らない街らしい。
白と金を基調にした街並みは荘厳な有様を以って、船の行く先に君臨している。瀟洒な音楽が、まだ海に浮かぶしがない貨物船にも届いていた。その演奏者たちは水の都の公務員らしい。王都でいえば医者に相当するほどの社会的地位であるとは。数分前、彼等の耳に音楽が聞こえはじめてきたときに語った言だった。
船がロレンツァの桟橋へと繋がれる。アルスはリスティとの関係に罅を入れる木札を、今度は控えめに、気前はいいが突如気難しくなる連れの目に触れぬよう扱った。
やっとアルスは揺れない地面に足をつくことがきた。だが身体は波の律動を忘れずにいる。陸地の歩き方を思い出しながら進んだ。船着き場の周辺は公園になっていた。楽団がその一角に鎮座し、各々の楽器を優雅に奏でている。彼等彼女等は舞台役者と変わりがなかった。演奏だけをしているのではなかった。観光地の一部になっていた。演出のひとつとして己の役目を果たしていた。
あらゆるものが新鮮に映る。白い建物が等間隔に置かれた外灯によって緋色を帯び、金色の装飾は燃えているようだった。道行く人々も王都より淑やかで垢抜けて見える。アルスは物珍しげに
「医者に診てもらいましょう。やっぱりあたし、治癒術苦手だわ」
転倒しかけたところをリスティが咄嗟に腕を伸ばして引き戻した。
「この時間に?」
「市長サマの診療所は本人不在以外。常時営業中よ」
「それっていいの?」
「市長権限よ。おかげで優秀なお医者さんがあまり育たないのが何点ね。老後は王都のほうが過ごしやすかったりして」
彼女は連れの怪我人をまっすぐ立たせるだけでなく、肩を貸して歩かせた。
「お世話になります」
「あたしの蹴りは重いからね」
口振りは冗談めかしていたが、至近距離から見遣った横顔は、少しもおどけたところがなかった。すぐ傍で大きく揺れる耳飾りはいつの間にか人魚の鱗のものとは換えられている。
「前見なさい。あなたが転ぶとあたしも転ぶから。体重考えて!」
船着き場の公園を抜けると、湿った空気と磯の匂いに包まれた。煉瓦敷きの遊歩道と、区画を分ける水路、その上にある大きく湾曲した橋が特徴的な光景だった。
「ロレンツァは石鹸と香水と花屋が有名なんだけど、この海臭さを消すためよ」
この地域の簡易的な移動手段だけでなく、観光資源も担う平底船―ゴンドラを捕まえるため、遊歩道の下にある停留所へ降りながら彼女は説明した。王都にも、水路は用いないが王都を囲う要塞や王城に直通する大通りの中央部へ簡易的な移動手段があったことをアルスはふと思い出した。だが長らく乗っていなかった。歩いてしまったほうが早い場所にばかり、彼の関心は集まっていた。
リスティは手を上げて渡し船を止めた。革細工のような黒塗りの装甲に鮮やかな紅色で花の模様が描いてある。木靴のようにも見えた。船にはすでに先客が何人かいた。アルスは足を踏み入れたが、揺れに怯み、そのためにまたもや頼れる連れに支えられる。
「迷惑かけてばかりでごめん」
座席に腰を下ろす始末まで彼女がつけた。
「何言ってるの。出世払いを期待しているんだからね」
「偉くならないとな」
一度吐いた嘘の土台が強固なものになってしまう。王子の成り代わりに出世などという概念があるのだろうか。
「あまり大成はしなさそうね」
「えっ!」
「
「今は、ね。城はそのうち復興するし、そのあと、すごいかもよ。嫌だよ、オレ。もう仕事探ししたくない」
アルスは愛想笑いを繕った。王都の市井の若者らしさを装った。彼等彼女等がよく話していることを言ってみたかった。真横で耳にすることはあれど遠い話だった。暇潰しの、趣味のような副業についてもアルスには生活がかかっていないだけ、どこか真剣さが足らなかった。必死さが足らなかった。仕事ではなかった。気分次第のものだった。けれどリスティの前では一般的な若者になれるのである。多少の後ろめたさはあるけれど、彼はそれらしさに酔った。そして船についてもいくらか酔いの兆しが顕れていた。
「ま、お給金よりもやり甲斐とか言ってそうだもんな、アルスくん」
彼は空っぽの笑みを保っていた。騙している。しかしそれは悪事であろうか。露呈してしまえば悪だ。それまでは方便である。
渡し船がロレンツァ西診療所前停留所で停まった。景観条例によって遊歩道の欄干に結いつけられた見事な花の鉢植えが軌条―レールのようだった。ロレンツァにいる人々は人懐こく、気っ風も好いらしい。橋の上の者たちと船の乗客たちは互いに手を振り合っていた。だがそれももう終わりだった。
リスティに介助されながら船から降りる。固められた地に足をつけているというのに、酔いのせいか、束の間の慣れのせいか視界がぐらついた。彼はまた陸上での立ち方を忘れていた。
停留所から遊歩道に上がったとき、診療所の看板を提げた建物から人影が現れた。青い髪を馬の尾にように結った小柄な人物だった。片目を怪我しているのか、布を当てている。外灯の明かりを受けた露出しているほうの瞳は、リスティと同じく夕焼けのような色味をしていた。その者は2人の前を横切り、建物前の欄干に吊られた鉢植に水か何かをくれていた。
「セルーティア市長」
横から発せられた呼びかけにアルスはぎょっとした。辺りを見渡す。探していた人物が近場にいるらしい。だがそこに、セルーティア市長を思しき人物は誰もいなかった。青い髪の小柄な人物以外には、誰も…… 威厳のある知的な老翁が見当たらないのだ。
「はい」
鉢植に何かくれていた人物が反応を示す。
「患者さんなんですけど、診てもらえますか」
「どうぞ」
人形のような人であった。愛想がなかった。しかし王都に於いても、医者で愛嬌のあった者は数少なかった。むしろ愛嬌のある医者こそやめておけ、という風潮すら王都にはあった。
セルーティア市長と呼ばれて返事をした人物は診療所へと踵を返す。リスティもアルスを歩かせた。
「ちょっと待って。あの人が?」
不本意ながら騙していたつもりで、実は騙されているのではあるまいか。彼女が市長と呼んだのは、まだほんの少年少女といった年頃である。
「何?お医者さんが怖いの?ほら、しっかりして」
「ああ、セルーティア市長のお孫さんか」
リスティはただ首を傾げ、もう何も言わずに彼女を歩かせ、診療所に引き摺り入れた。
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