第11話

「何か事情があるんだよね」

 アルスは身を屈めて目線を合わせようとした。リスティは彼を後ろへ引いた。怪美女は、か細い声で何か喋っているが、聞き取れはしなかった。歌声には張りがあったけれど、喋るときはそうではないのかもしれない。接近を禁じられているため耳をそばだてた。声が小さかったのではない。変わった発音であった。言語が違っていた。

「空気が、悪い……?」

 アルスの後ろで腕を掴んでいるリスティがぼんやりと独り言ちた。何かに取り憑かれたかのような有様が薄気味悪くさえあった。彼は一瞥した。

「―っていうのしか、聞き取れなかった」

「分かるの?」

「学校で習う……けれど、王都ではやらないわね。だって戦前の言葉だもん」

 彼女は気拙きまずさを隠す気もなく目を側めた。

「波導が……つまり魔凪マナが均衡を崩していています」

 それはここにいる誰の声でもなかった。アルスは驚いてしまった。まったく心当たりのないわけではなかった。リスティもこの新たな人物の登場に驚いたようだった。もし怪女が敵であるのなら2人は無防備だった。彼等の視線の先には船で酔い潰れていた学者然とした男がいるのだった。

「どうしてここに……」

「船に絡んでいた異物が取り除かれたので、お迎えにあがりました」

「よくここが分かりましたね」

 アルスは驚きのあまり呑気ですらあった。

「魔法磁針がありますので。こちらは学園都市の―」

 それは失敗だった。耳飾りの長い話を聞かされたばかりだった。学者然とした男は説明をはじめる。

「はい、あの、それで、分かるんですか、さっきの言葉……」

 口が動いていれば満足なようである。学者風の男は話を遮られたことについて気分を害した様子もない。

「魔凪の均衡が崩れているんですよ、大気中の。オルタクリスタルもとい人工クリスタルの調子が昨日からよろしくないと思っていたのですが、王城も昨日の有様でしょう。不穏ですね。おそらく精霊にも何かしらの影響が出るのでしょうな」

 学者らしき男は精霊といった。王族信仰、聖石信仰に並ぶ3つ目の信仰対象だった。

 学者と思しき男は怪女に話しかける。アルスの解さない言語であった。消え入りそうな音吐で彼女は応えていた。学者らしき男は順にアルスとリスティを捉える。

「なんて?」

「私たちが出ていったら、沈めるそうです。この船を」

 アルスとリスティは同時に怪女を見遣った。

「ご自身が人でないことは分かっているそうです」

「沈めるって、どうやって」

「ご自身で。行きましょう、船はもう動きます」

  3人は部屋を出た。光の届かない暗がりから伸びてきた吸盤つきの滑らかな長い触腕が、壁や天井を突き破り、あの怪女のいた部屋に絡みついた。それは抱き締めているようでもあった。その様が、学者と思しき男の灯した明かりによってよく見えた。背筋を羽根で撫でられるような薄ら寒い気味の悪さがあった。

 海面まで戻ると、小舟が出されていた。そこから船へ引き上げられていった。

 リスティはすぐにアルスの肩の負傷について気にしたが、彼女は船員室へ連れていかれた。海から出た途端に耳飾りの不思議な力は消えるらしいのだ。全身ずぶ濡れであったし、そうでなくても肌には生傷が刻まれていた。

 アルスは素性の分からない胡乱な男と共に甲板に戻っていた。

「まだ王都が、王都ではなかった頃、あの港町に奴隷狩りがあったそうなのです」

 船は動いていた。アルスは離れていく水面を望んだ。

「恋人の片方は逃げ延びることができたそうなのですが、もう片方は……残されたあの女性は、恋人のこともあったでしょうけれど、故郷も略奪の限りを尽くされたわけですから、孤独に堪えかねたのでしょう。将来への悲観もあるでしょうし、心の傷もありましょう。海に身を投げるというのもまた不自然な話ではないでしょう。随分と脚色されて、存分に政治的宣伝を狙った絵本にされているようですが、もう少し詳しい伝記にはそうあります。どこまでが本当かは分かりませんが。やはり語り部、口伝くでんには意識的、無意識的な脚色がつきものです。ただ、稀に起こるそうですよ。魔凪に呑まれて人が怪物と化す現象は」

「あの白骨死体が、あのひとの“カレシ”ですか」

「違うと思いますよ。そもそもあの沈没船が時代背景と合いませんし、服装からいっても……もう恋人の相好そうごうも分からなくなっていたのでしょう。自我を失うまでに執念に取り憑かれるとはそういうことです。海から聞こえる歌声にはご注意を。懐かしい女性がいるのなら尚のこと」

 学者風の男は意地悪や悪戯でもするかのような笑みを浮かべた。

「波導って、言ってましたけど……」

「分かりません。けれど昨日は王城が突然崩落しましたし、何か良からぬことが起こりそうな、そんな気はします。私たちは王族なしに生きてはいけません。けれど昨日のあの有様。城は国の象徴ですからね」

 彼は王族信仰者なのであろうか。王族がいなければ生きていけないとはどういう意味なのか。考えたところで、アルスには王族信仰者だからという答えしか出てこなかった。

「王族と海の中で暮らしていたあの女に、一体何の関係が……?」

 王族なしに生きていけない。この言葉にアルスは詳細を求めずにはいられなかった。成り代われと迫られている立場である。あの長い話が急に恋しくなった。

「王族が、精霊と協力関係にあるからですよ~」

 知っていて当然だとでもいうような口振りであった。アルスは知らなかった。成り代わりとして育てられたはずだ。しかし知らない。

「私たちに大陸クリスタルの恩恵、つまり魔凪、先程の人がいう波導というやつは、毒ですからね。均衡を保つためには王族と精霊による調和が要るわけです。薬を飲むときには薄めるでしょう。薬は毒でもありますからね。それと同じです」

 大陸クリスタル。それは大地の深くに埋まっているクリスタルだ。人工クリスタルはそれを模したものだった。聖石信仰者の信仰対象だった。

「王城が崩落した……そして魔凪の乱れ……お察しですね」

「もし王城が崩落していなかったら……、あのひとはずっと歌っていられたんですか」

「分かりません。けれど、私はそう思います。ときに、お連れの方とは長いんですか」

 リスティのことだった。

「いいえ。たまたま、目的地が一緒だったんです。どうかしましたか」

「珍しいものをお持ちだと思って。なかなか手に入るものじゃありませんからね、ユニコーンの泉の水だなんて。いやはや、いやはや。人のことを訊ねておいて、愚身について申し遅れました。テュンバロ工業農業大学で聖石地質学科の教授をやっております、ベラムと申します」

 テュンバロというのは地図で知っていた。ロレンツァの近くにある学園都市だ。

「だから……あの言葉が分かったのですか」

 アルスにとって彼が何を学び何を教えているのかは分らなかった。だが知性に富んだ立場にあることは理解できた。

 ベラムと名乗った男ははたとアルスを見た。それから胡散臭そうな髭面に愛嬌たっぷりの笑みを向ける。

「王都育ちの方ですかな」

 リスティだけでなく、この男にも見抜かれる。アルスはわずかに嫌な気分になった。しかしこの男に対するものではなかった。

「分かるものですか」

「私の小倅も王都育ちですからね。王都では習わないそうですから。あれは統一戦争前の公用語です。とはいえかくいう私も文献を読むのにちぃとばかし勉強しただけなのですけれども」

 彼とはそれからまた二言三言話して別れた。

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