第10話

 人の住めるところだった。明かりが点き、水はない。濡れた足跡が乾いた木の床に色濃くつく。部屋の奥を見据える。

 歌声が目の前にある。

 アルスは目を屡瞬しばたたいた。女がいる。瞑目し歌っている。長い金髪について、彼は故郷に置いてきた幼馴染を思い起こした。だが人間とは思われなかった。翼が生えていた。しかし崩れかけた王城でみた幼馴染にも赤い翼が生えていた。けれども目の前の女に生えているのは蝙蝠のような翼であることだった。さらに脚は膝の辺りから鱗に覆われていた。そして健常な人間の足に相当するところには鰭が生えているのだった。

 怪女は骨を抱いていた。服を着たまま白骨化したらしい。人が来ても構うことなく歌い続けている。美声であった。そして薄気味悪くもあった。

「リスティ」

 アルスは怪女の全身をひととおり観察してから、急な焦燥に駆られて顔を背けた。横にいるリスティに意見を求める。

「『葬送曲の歌姫』って昔、絵本で読んだことあるわ」

 彼女は狼狽するでも戦慄するでもなかった。このまま帰るという雰囲気でもなかった。ただ興味を持っていることについてだけは、嫌な予感のごとく彼にも分かった。

「も、戻らないの……?」

「お宝がありそうじゃない?」

「お宝?お宝って?」

 船に絡みついた巨大軟魚をどうにかするのではなかったのか。

「あの骨見て。着てる服」

 アルスはしかし見たくなかった。それはおそらくといわず、確信を持って、人の亡骸といえる。何十年と経っているのだろうけkれども、その何十年か前には生きていたのだろう。表面の色味といい、生々しい傷み具合といい、衣服の汚れ方といい、作り物とは思えなかった。

「きっと船長よ」

「で、でもどうやって……お宝って、本気なの?」

「怖くなっちゃった?先に戻ってる?」

「さすがに置いていけないよ。多分、単独行動しちゃダメな気がする……」

 しかし何も行動することなく、速やかにここを立ち去るのが最も賢明なのだろう。つまりリスティとは反対の意見だった。

「アルスくん」

「何」

 彼女を横目で見遣った。その視線はただ怪女一点に注がれている。もしくは着衣の骸骨に。

「あの骸骨って死後何年くらい経ってると思う?」

「え……?100年は経ってないんじゃないかな……」

「じゃあ、あの人魚姫は何歳くらいに見える?」

「女の人の年齢は当てにいかないのが礼儀だって」

 それが王都なりの行儀であったが、この場に於いては半ば彼なりの冗談でもあった。

「感心したわ」

 歌姫はまったく二人には気付いていない様子だった。けれども終わりのなさそうだった歌は止んでしまった。人の女、それも美しい女の目が開いた。眩いばかりの赤い瞳である。瞳の色……

 この国に於いて最も多いのは左右で色の異なる個体だった。片方を青、片方を琥珀色としていた。アルスもそうだった。現在仮死状態の王子もそうである。そうでなければ左右が青、あるいは琥珀が健常な状態であるとされていた。王都で別れた幼馴染や、すぐ傍にいるリスティもそうだった。だが今、目の前にいる怪美女は赤い目を光らせている。不思議な色味に吸い込まれそうだった。横から割り入った腕に、彼は視界を閉ざされる。

「魔物よ。人の形をしているのなら、目を見ちゃダメよ」

「ごめん」

 怪女の美貌は氷が溶けるように変化していった。よく通った鼻梁は消え、口角は両端に裂けて、耳は三叉槍みたいに急峻を作る。小さな顔は骨を失ったように縮んだ。随分と前に王都の自然公園で釣った川鱸―バスに似ていた。

「『葬送曲の歌姫』はね、昔あった豪華客船の歌謡いの娘なのだそうよ。けれど船は難破。運良く娘はひとり助かったけれど、誰にも見つけてもらうことはできませんでした。やがて海の仲間となって見つけてもらうのを、歌を謡いながら待っている……その歌を、海の親玉が狙っていたとも知らずに……というわけよ」

「それで、親玉を倒すの?」

 アルスは魚女を見た。惻隠の情を催したのである。ここ何十年、何百年と助けを待っているのだ。その必要がなくなったとしても、その意識もないまま。沈没船を舞台にして。

「子供向けの絵本では、倒さない。王子様がやっつけてくれる。すべて。歌謡いの娘のことも助けてくれる。人間に戻る魔法の小瓶を奪ってね」

 結局は創作である。だがそこに情を見出すのが醍醐味である。たとえ王族への信仰先導であっても。あくまでこの怪魚女と無関係な話でも重ねてしまう。

「可哀想な話だけれど、今や彼女は人間の敵よ。歌の届くかぎり、船を惑わすの。あのイカを操ってるのも、もしかしたら、彼女かもね」

 しかしアルスには戦意が湧かないでいた。リスティは関節をほぐしにかかっていた。そして跳びはね、足首の柔軟に励む。彼女はおそらく武闘家であった。

「救えそうなときに救える状態じゃなくなってるっていうのは、どこでも、いつでも、世の常ね」

 怪女が先制していた。鋭い牙を剥いてリスティに襲いかかった。彼女は床を蹴り、壁へ飛びかかる。そして反動を利用して怪女の背へ向かった。足と足で首を挟み、2人は一瞬、宙に浮いていた。両者は旋回する。何もなかった床には忽如として腰丈ほどの岩の針山が現れ、魚女のほうだけがそこへ叩きつけられた。物理的な力だけではないものが加わっている。干物のように細く、骨の浮きでた怪女の身体を貫いた岩の針は瞬時に消えた。輝きを纏った粒子と化していった。海に突き落とされる前にアルスも浴びた覚えのあるものだった。

 怪女はよろよろと立った。だがリスティは体勢を立て直される前に、肋骨の透けて見える胸元へ、波動を纏った掌底を突き入れるのだった。

 アルスは見ているだけだった。床や壁に穴が空き、粉砕される様を呆然と眺めていた。海水が流入してくることはなかった。ここはおそらく、尋常の場ではなかった。

 やがて彼は殴られ、蹴られ、殴られ、叩きつけられる海妖女のある変化に気付いた。リスティが一段と高く跳んだ。振りかぶった拳には魔力玉が溜められていた。

 彼の行動は、武芸や武術を嗜む、あるいは極める者として禁忌であったかもしれない。とどめとばかりの一撃が入る直前で割り込んでいった。リスティは判断が速かった。勢いを落とした。しかし彼女が軌道を逸らせたとしても、完全に力を打ち消すには間に合わなかった。アルスもまた避けることしなかった。直撃は免れた。だが当たった。魔闘武術に秀でた者の、多少手加減された拳が肩へと入った。痺れが起き、まもなく痛みへ変わる。息ができなかった。全身へ戦慄が響いていく。

「アルスくん……!」

 リスティは渋い面をした。

「待って、リスティ」

「魔法の小瓶でも持ってるの?」

 それは嫌味であった。表情で分かった。彼は愛想笑いを浮かべたが引き攣った。

「ないよ。でも、様子がおかしかった」

「試してみる?」

 小瓶を手にしていたのはリスティのほうであった。掌の収まる大きさで、香水瓶のようである。中には何の変哲もなさそうな無色の液体が揺れている。

「何、それ……」

 学者気取りの男と同様に、彼女は怪しげな容器の中身を撒き散らした。

「お宝。恩寵水とかいったかしら。いいわ、どうせ胡散臭かったし」

 彼はすぐに振り返った。怪女は穴だらけの床へ尻をつき、また人の美しい姿へ戻っていた。その見目の麗しさに、この若い煩悩児は騙されたというのか。

 怪美女には蝙蝠の翼も、鰭のある足も鱗もなかった。そこにいるのは多少、市井ならば目を惹く程度の、何の珍しさもない人であった。赤く煌々としていた双眸は、アルスと同様に左右で異なる、しかし珍しさのない色味に変わっていた。

 彼の安堵とは反対に、溜め息が聞こえた。リスティのものだった。

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