第9話

「これしか渡せるものがありませんで……売ればそれなりにしましょう。人魚の鱗が使われているそうで、水中でも陸地のごとき働きができる代物なのですが、いかんせん、その鱗の部位や柄、色艶で価値が変わってしまうのです。とはいえ人魚ですから、そう安物ではありませんし、資料としては十分な品質ではあります。といいますのも人魚は王都周辺区域には出没しませんし、この人魚というのもあくまで比喩であり、魚の魔人だとか、イルカやサメの類いだとという説もあります。何せ、目撃情報が曖昧ですし、人というのは語っていくうちに悪気無く、意識さえせず、尾鰭背鰭腹鰭胸鰭をつけたくなるものなのです。人魚に腹鰭や胸鰭があるのかは意見が別れるのですけれども……さらにはこの人魚というのには水の精霊―波龍女を指しているのではないかという説もあるのですが、私は異論を唱えたいところです。何故ならば、波龍女は人の形をしているという伝説があることは認めますけれども、同時に人に近すぎて鱗がないという話ですからね。湖畔姫という別名があるくらいには、棲まう祠も淡水の場所にありますからね。少なくとも、人魚が波龍女であろうがなかろうが、こちらは保存状態も申し分ない人魚の鱗の耳飾りです。しかし……水中で陸上のごとき活動ができるという点について、私は懐疑的ですから、試すことのないよう!実用として使った試しがないのです。処分の憂き目に遭っていたところをもらってきたに過ぎませんからな。息子の嫁にと思ったのですが、よくよく考えれば倅は独り身でしたからな。貴方のような立派な紳士に贈ってこそ価値のあるというもの。見目は美しいことですし、装飾品としての役割は十分に果たせるかと。さらには連れがいらっしゃるとのことですから、人魚といえば悲恋ですけれども、同時に恋物語の代名詞でもございましょう。恋人に贈る装飾品には、人魚の一部など使われていないくせに、人魚の何だのかんだのという名前が付きます。ですから、こちらもそう見劣りするものではないかと。実際にこの光沢のある飾り部分がありますから。この光沢と艶。模様によって価値を落としたがゆえに安価で資料として購入が許可されたそうですが、その正体が人魚にしろ、でないにしろ、生体時代に非常に良好な栄養状態だったといっていいでしょう。さらには―」

「ああ、すみません。ちょっと急いでて」

 止めなければ一生喋っていそうだった。酔い止めの草など要らなかったようである。彼には特効薬があったらしい。青褪めた顔色は好くなり、活き活きとしていた。

「すみません、またあとで聞かせてください」

 学者らしき男を置いて、アルスはリスティの向かっていった船橋へ行こうとした。しかし彼女は戻ってきた。誰かを探しているその双眸の先へ踏み入った。

「ああ、いた。ちょっと海の下に行ってくるわ」

 事も無げに彼女は言う。長く垂れ下がった耳飾りを外すのをアルスは見ていた。そして今そこであったことを話す。

「君のくれた薬草でもらったものだから、君にあげるよ。返すよっていうのかな」

 リスティは首を傾げて、上着を脱ぎながら困惑気味に笑った。

「ちょっとヤだ、アルスくん。どんな経緯があっても、“カノジョ”がいるのに他の女に飾り品なんて贈っちゃダメよ」

 アルスの鼻先を指で小突き、彼女は手摺を飛び越えて海に飛び込んだ。水飛沫が上がるのと、彼が手摺から身を乗り出したのはほぼ同時だった。大変なことが起きた。アルスも横木に片足を掛けた。だが肩を掴まれてしまった。

「待ちなされ、待ちなされ!はやまってはいけません!」

 あの学者風の男だった。彼は草を食んでいるところだった。

「失敗したんですな?悲恋の代名詞のあんなものを渡すなんて、私というやつは!どう責任をとれば……!先程の女史は……」

 彼は頭を抱え、項垂れ、肩を落とす。誤解がある。

「違くて……連れが落ちたんです。ちょっとオレも行ってきます」

「いやはや、いやはや……」

 学者らしき男は粗末な道具袋を出した。そして小瓶を手にする。この中身をアルスは浴びなければならなかった。煌めいた砂金のようでもあれば、実体のない光の粒子のようでもあった。

「なんですか!」

「粉末状にしたオルタクリスタルです。巷では人工クリスタルといいますな。その服装で海に入るなど愚の骨頂!お連れの方ともども、どうかご武運を!」

 善良げな男が突然胡散臭く見えはじめた。ぎょっとしたアルスを、相手は躊躇し怯んだものと思ったらしい。

「勢いを削いで申し訳ない」

 それを聞いたときには彼の身体は船から浮いていた。海に向けて傾いていた。足の裏はすでに手摺の横木を放していることに気付く。

「わ、ふ」

 変な声が漏れた。宙に浮いている時間が長く感じられた。あとは落下するのみだった。やがて海へ叩きつけられる。だが痛みはなかった。夥しい水泡に包まれ、咄嗟に息を吸ってしまった。しかし呼吸ができたのだった。衣服が躯体に張りつくこともなかった。視界も利いた。あの学者の仕業であろう。

 アルスはリスティを探した。ところが船に巻きついているものが見えた。彼女はあれを処理しにいったに違いない。

 彼は泳ぎ、船を止めている物体を調べる。滑らかな質感に、吸盤が列なっている。覚えがあった。覚えがあったどころか昨日、目にしたばかりだ。あの巨大な海妖生物は生きていた。そしてこの連絡船に纏わりついたのだ。

 アルスはこの長い触腕が、どこから伸びているのかその根元を目でたどった。そこには……沈没船であろう。その残骸としか思えない影を認めた。そして、ある恐ろしい発想に囚われた。もしやリスティは水海物によって複雑な木組みの遺骸の中へ引き摺り込まれてしまったのではあるまいか。考えるより先に彼は朽ち果てたも木造船へ入っていった。

 おそらくは、謎の、胡散臭い、学者気取りの男の術によって、水中といえど多少の視界が利いていた。だが沈没船の内部までは光が届かなかった。しかし不思議なことに歌声が聞こえるのだった。水の音でも波の音でも、自身の鼓動でもなく、情緒を揺さぶるような哀愁の漂う音調だった。女の線の細い音吐であった。リスティであろうか。声質は異なる気もしたけれど、明らかにまったく違うというほどでもなかった。呑気だと思ったのも束の間、彼は考え直した。聴覚を頼りにしろということだろう。

 アルスは歌声のほうへ泳いでいった。あらゆるものがはっきりとせず、輪郭は朧げである。

 海藻が揺蕩い、小さな魚が眼前を横切っていく。肌や服に引っ掛かるものもあった。構わず泳ぎ続ける。沈没船の中ほどで、彼はやっと光を見た。天井と思しき壁に大きな穴が空き、明かりが射し込んでいた。そこはすでに人の所有物ではなくなっていた。海に棲む者たちの居場所になっていた。濃淡のある紺碧あるいは紺青を背景に、様々な色彩が点綴てんていとして、あるいは偏りをもってそこに散っていた。王都の繁華街でよく売っている、宝石箱だと喩えた水菓子のようであった。

 歌声に慣れてしまうと、その光景に見惚れていた。けれどもわずかな時間のことである。目的を思い出した。 

 しばらく暗い水中をさらに進んでいくと、輝きを帯びた煙をみた。線を描いてすらいた。微生物であろうか。だが歌声が近付くのも、ぼんやりと光るほうであった。これは何なのか……すぐに解決した。リスティであった。彼女の軌跡であった。彼女の耳で光っていたものがその正体であった。受け取りを拒むような口振りをしておきながら、確かに彼女はそれを受け取り、耳朶に刺していた。アルスはこのときに初めて、自身がそれを持っていないことに気付くのだった。人魚の鱗の耳飾りを。

 リスティも暗い海の、さらには屋内だというのに平然としていた。耳飾りの明かりが連れを照らしだすが、驚いた様子はない。彼女はすぐ傍にある扉を指で示した。変わったところのない、よくある木の扉だった。ただ、海に沈んでいたにしては状態がいいことを除いては。

「どうするの?」

 聞こえてくる歌同様に声が通った。

「行くに決まってるでしょう?あなた、何か持ってる?」

「何かって?」

 訊き返せば、彼女は半ば呆れでもしたのか、顔も見ず、無言で小刀を渡した。果物を剥くよりは大きく、肉や皮を剥ぐには心許ない大きさだった。そして件の扉を開けるのだった。気遣いもへったくれもない。そして行ってしまった。アルスも慌てて後を追った。その先は水中ではなかった。

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