第二十二回

アシッドの無くなったアルミ箔が、幾枚も僕の足に散らばっている。滝のように流れ出た彼女の吐出がアルミ箔を侵す。白くて粘っこい、ほとんどが水分のソレは異臭を放っている。僕はただ黙って彼女を見つめている。


立ち上がり、電気を点けることも忘れて僕は彼女を見下ろしている。吐き戻した彼女は、ハアハアと荒い息つがいの後、静かに泣き始める。時折、何かの動物が吠えるような慄きを漏らしながら、目から鼻から口から液を流している。


僕はもう何も言わなかった。侮蔑も吃驚もない。無の心境だった。今まで肌身離さず遊んできたおもちゃが、ある日突然ひとつの小石になってしまったみたいに、僕はもう何も感じることができなくなっていた。彼女の柔らかな赤毛は、油のようにべったりと額に付き、目は焦点が定まらず、着崩して肩から胸にかけてが露になった身体は、艶ひとつなく嘔吐物で汚れている。


光のないものに、僕はまるで興味を抱かなかった。幼少期の頃そうだったように、僕の持つ玩具は、大抵が下品に光る剣や銃。スイッチを押すと、これでもかと音が鳴るベルトのような、子供心がくすぐられる輝かしい玩具だった。



小学生の頃、僕はそんな色物の数々に心を奪われ遊んだ。何が面白いとか、楽しいのだとかわからずに、ただ光を放ち続けている物に夢中になっていた。縁日に行けば、必ずどこかの店にそれが置いてあって、店の前を横切ると、僕はそれが欲しいと駄々をこね、両親が許してくれるまで店先から動こうとしなかった。



そうしてやっと手に入った七色に光るブレードは、陽が沈み祭りの賑わいが増していく時間帯によく映えた。僕は高揚していた。欲しかったおもちゃを手に入れることができて得意になっていた。人混みの中で僕は懸命にブレードを振った。振るたびに色が変わるブレードは、暗くなるほど光度を上げていた。隣のおっさんの腹にブレードが当たり、怒ったおっさんが勢いよくブレードを地面に叩きつけた瞬間、そのブレードはただのモノと化した。



僕は両親にもう一本、ブレードを買ってもらった。来月のお小遣いの分だからねと言う母にうんうん頷いて、僕は店員のお兄さんからまたブレードを受け取ると、今度は人の少ない公園に行ってひとりで遊んだ。



帰りの電車に揺られ、左手で母親の手を握り、右手で光るブレードを手にしている時、僕はたまらなく寂しかった。勿論それは、僕の持っているブレードの光度が、電車の蛍光灯に負け、幾分か輝きを失ったからなのだけれど、僕はそんなことよりも、もっと大事なものをなくしてしまったような気がして、変な哀愁に満ちていたのだった。


僕は母のハンドバッグから覗いている、光らなくなったブレードを眺めた。本当は会場で捨ててくればよかったのだけれど、何故だか手放すのが惜しくて、母に無理を言って持ってもらったのだ。



その光のないブレードの姿が、いま目のまで泣いている彼女に投影するようにして、僕の目に映っている。あんなに嬉しかったのに、おっさんに壊され、ただのモノと化したブレード。壁に架かった青いストラップは光っている。




僕は彼女の家から出ると坂を下った。真夏の日差しがどこまでも僕を射している。

少し歩いただけで、僕の背中や襟は汗だらけになっている。一二時間ほど前よりも、確かに気温の高さが伺える横浜の夏。腕の血管に汗がにじむ。車の排気ガスが炎のように熱い。遠くでセミが鳴く。街路樹のセミなのか、それとも路地裏の公園からなのかわからない。



通りの角に入り、三つほど自販機が並んでいる区画で足を止める。

喉が渇いて仕方がない。水を死ぬほど飲んでいたい。どこか山間の滝口に行って、体いっぱいに水を浴びていたい。

僕は左ポケットを探るが財布は見当たらない。反対の方に手を入れても、財布どころかガラケーもない。

僕は深くため息をつく。あの家に置いてきたのだ。なんだか後ろからバッドで殴られたような気分だ。この暑い日差しの中、家までトボトボ帰らなくてはならない。




僕はむしゃくしゃして赤い自販機を蹴る。一時間前にチンピラに痛めつけられた左足だということを忘れていて、僕は金属の衝撃が脳天まで突き刺さったような感覚でその場に倒れる。

悶絶。痛いという言葉だけでは到底伝わることはないだろうこの気持ち。全身に電流を流されているみたいだ。もしくはボクサーに五割の力でサンドバッグにされているような。



一縷の望みだった自販機の取り口に、水は落ちてこなかった。僕はビルに囲まれた青空を見上げる。もうすぐ太陽が真ん中にくる時分だ。

二三分痛みと格闘して何とか起き上がる。まともに歩けるような身体ではないことは一目瞭然だ。僕は左足を引きずるようにして駅前へと歩く。まずは水。冷たい水。このままでは意識も遠のいて気絶してしまう。



日ノ出町駅前のスーパーに入りしばらく涼む。壁に顔を向け、ハアハアと荒く息を切らしながら中腰の姿勢を貫く。空調の効いたフロアは人が疎らで、地元の主婦と老人が数えるほどしかいなかった。


息を整えた僕はスーパーを回る。誰かに頼んで水一本恵んでもらおうと、人のいそうなエリアへと歩を進める。


総菜売り場に二人主婦がいる。ひとりは白色のワンピースを着た、四十代後半くらいの童顔で、柳行李みたいなバックを手に持っている。


もうひとりは七十代くらいのおばあちゃんで、バラの装飾のついた、灰色のシニア帽をかぶり、夏なのに紫色のウールで、茶色のシルバーカーを押している。


迷った挙句、僕は四十代の方に近づいて背を縮める。相手と同じ目線で話すのが要求をするときのコツだと、リー先輩の声が甦る。


主婦は快く僕の要求を飲んだ。薄化粧で、近くで見れば、三十台前半だと言っても疑いはしないだろうその童顔を綻ばせ、体調は大丈夫なのか、他に欲しいモノはないのかと優しく聞いてくる。


その親切な応対で、僕の荒んで熱くなった心も幾分か静まり、落ち着きを取り戻して彼女に笑顔を見せることができた。

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