第二十一回

この暑い日差しの中、駅前や桜木町へ行かず、住宅地のある裏道を通るというのはあまりにも不自然だ。



僕は後ろへ振り返る。四人とも若い顔の、チンピラと思われる風情だった。僕は真ん中に立っている金髪のタンクトップの男に


「なにかよう?」


と微笑みながら言う。




陽炎が砂利の上でたゆっている。後頭部だけでなく、側頭部も熱を持っている。手を額に持っていくと、べったりと汗と血が滲んでいる。




僕はアイツらに殴られた。それはもう清々しいくらいに。僕は抵抗しなかった。ただ彼らの言っていた「糸魚川ヒスイ」というものに、僕は一度も耳を貸さなかった。

前に一度カビゴンが言っていた、大切なものはタマの裏に隠すという箴言を、僕は見事に覚えていたのだ。




ラジオ体操の終わった公園は静かで、隅に置かれたトイレが日差しを遮っていた。砂利のない、コンクリートで覆われたそこに僕は倒れると、タマ裏からリングを取り出して顔に掲げる。




歪んでいる視界でも、その翡翠は良く輝いている。いまから好きな人に会いに行き、タマの裏に眠っていたこのリングを指に嵌めるというのは、少々嘆かわしいことなのだけれど、それでも僕はいちはやく彼女に会いたかった。




僕は土と汗と血で汚れた手でリングを軽く擦ると、それを右ポケットに入れトイレへ入る。


蛇口をひねり顔と手を洗う。傷口が熱く痛いが、心の中は落ち着いて、僧侶にでもなった気分だ。


僕は顔を洗い鏡を見る。いつにもまして酷い顔だ。鼻血は治まったが、唇は切れていて、左目は青くなっている。けれど瞳には、どこからか湧き出る溌溂としたものがある。


僕はしばらく鏡に映る自分を見つめている。何だか一か月前とは別人みたいだ。ニキビができたとか、顔が大きくなったとか、そういうわけではく、人として一歩前に出たような、勇猛な顔をしていた。




公園を出て自販機の水を買うと、僕は彼女のスマホに電話を掛ける。

まだ午前中の速い時間なのだけれど、彼女のことだから夏休みでも早く起きて、ひとり課題に励んでいることだろうと、コール音を聞きながら彼女を待つが、何度かけても電話は繋がらなかった。




まだ寝ているのだろうかと、僕はそのまま彼女の家に向かった。錆びた階段をギシギシと上り、二階の突き当りの部屋まで来たところで、インターホンを鳴らす。




三分ほどドアのまで待っても、彼女がこちらへ来る気配はしなかった。不審に思った僕はもう一度電話を掛ける。彼女から貰った青色のストラップが小さく揺れる。

僕は合いカギを持っていなかったので、彼女が出てくるまではこうして待っていなければならなかったのだけれど、太陽の昇り始めた真夏の横浜は、徐々にその威力を増していき、表札横に取り付けられた換気扇の、乾いた風が僕の足に当たる。




額から零れた汗が、眉間を伝って首に落ちる。僕は何かを決心したように深く息を吐くと、ドアノブを右に回す。




ドアはすんなりと開いた。中の冷風が、汗ばんだ僕の全身を包む。

玄関の靴が乱雑に置かれている。隣の壁に架かっていたカレンダーが、上下逆さまのまま玄関に落ちている。僕がそれを拾って顔を近づけると、八月が雑に破かれていて、九月の暦が開いている。




部屋に繋がる細い廊下に水が垂れている。彼女はまだ眠っているのだろうか。明かりのない廊下をそのまま進む。袖の破れた服が隅に置かれている。

彼女は目を開けて、ソファに横になっている。



「ただいま」



彼女は返事をしない。ソファの背の部分に顔を押しつけて、がちがちと爪を噛んでいる。



「こんなに早く帰ってこれるなんて、何だか久しぶりだなぁ。一週間ぶりくらいかぁ?」



「……」



部屋に明かりは点いておらず、締め切ったレースのカーテンから光が差し込んでいる。



「友達とドライブに行ってたんだ。三浦海岸の方にね。あそこは夏でも海風が吹いていて涼しいから、こんど二人で行く時のために下見してきたんだ」



「……」



「奏美はさぁ、ほら。三浦海岸って行ったことないだろぉ?世間では湘南だ江ノ島だって騒いでいるけど、神奈川県民からすればあんなとこ、人は多いし汚いし、ビーチでも何でもないんだ。本物のビーチは三浦海岸だよ」



「……」



「それでさぁ、三浦海岸の次は湯河原に行こうよ。あ、湯河原って知ってる?温泉が有名なところなんだけど。小田原からちょっと行ったところで静岡と近いんだ。そこにさぁ、不動の滝っていう小さい滝があるんだ」



「……たぁ」



「あそこは本当に素敵だよ。一度行ったことあるんだけどね、山の中に道があって、そんなに急ってわけじゃないんだけど。それで真ん中くらいに赤い橋があってね、そこから滝が良く見えるんだ。あれはいいよ。何て言うのかなぁ……パワーがもらえるんだ」



滝、いう言葉で彼女はようやく僕に顔を向けた。「たぁ、たぁ」と訳の分からぬ言葉を呟きながら、こけた頬を上下させている。




部屋には僕と彼女の荷物が散らばっている。初めて来た人が見れば、泥棒に入られたと思われても仕方がないくらいに。箪笥に入れられた冬物の服や、彼女の大学の教科書などが破かれて散乱している。



ソファに横たわっている彼女は仰向けで天井を見上げている。乱れた髪のおでこに引っ掻き傷がある。涎のこびりついた唇は青白く、乾いた眼は充血している。明かりのない部屋に、カーテンから零れた陽の光が、彼女の透けそうな肌を青く射している。



初め、僕はその彼女の変貌に動揺し、惧れを感じたのだけれど、僕はそれを表には現わさず、どこか達観して彼岸的な心持で後片づけを始める。



ペットボトルを捨て、散らばった紙類を整理し、汚れた衣類を洗濯機に入れようとしたところで、僕は部屋の電気を点けていないことに気が付く。キッチン横のスイッチを押しに行こうと歩を進めた時、ソファに横たわっていた彼女の細い腕が、僕の右足に絡む。



彼女は僕が部屋を片付けている間、一度も動かなかった。黙って天井を見上げ、ソファから動かなかった。その彼女が、弱い力で僕の足を掴み、何かを訴えようと必死に口を動かしている。



「たぁ、たぁ」



彼女は相変わらずそれしか答えなかった。僕は意思疎通ができない呆れから、力のこもった口調で

「なに」

と答える。



「たぁ……たぁ……たぁ」



「おい、何言ってるのか全然わかんねぇよ」



彼女が僕を見つめている。大きく開いた瞳から、うっすら涙がにじんでいる。

半開きになった口から涎が零れている。青くなった顔は微かに震え、けれど藻掻き苦しんでいる様子はなかった。



その時、彼女が「ゔえぇ」っとえずく。彼女の口からつばが飛び僕の足にかかる。

黒い生き物が、さぁっと彼女の服の中へ消えていく。僕が声にならない悲鳴を上げてその場に倒れ込む。黒い生き物が彼女の身体を張って床に落ち、僕の元へ近づいてくる。のけ反ったまま、僕は急いで逃げようとする。暗闇で視界の定まらない僕は誤って彼女の寝るソファの下を蹴る。彼女は発狂して滝のように吐いている。ソファの下から、大量の銀紙が僕の足に舞う。

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