第二十回

あの日、彼女と初めて出会った〈LAPA〉の、あの瀟洒で味わい深い照明に照らされた横顔は、僕の眼にはっきりと、映画に出てくるプリンセスを想い出させ、妙な感慨に耽って冷静さを見失なわせたのだけれど。そうなのだけれど僕は、あのロングとショートの中間ともいえる長さの赤髪の細く透き通った毛先や、常に笑みを絶やさない柔らかな情緒というものに、感性だけでなく、心をも傾きかけたのだ。

けれど僕は、それを明確な言葉や態度で彼女に表したことは一度もなかったのだ。


僕は図書館に通って本を読んだ。恋愛小説ではなく業界の恋愛本を手に取って、それを舐めまわすように見やり、桜木町や川崎のモールに何度も足を運んでは、ショウウィンドウ越しに商品を眺め、彼女がそれを持って歩いているところを想像したりもした。ディオールやエルメスのバックを持った彼女が、赤レンガ倉庫が目前に佇む海辺を颯爽と歩いている情景を脳裏に描いては、その隣に僕という人間が写ることを極端に拒んだ。

それほどまでにも僕は、彼女に対して決然たる感情を抱いていたのであった。


僕がなんの恐怖にも臆さずここまで密売人をやり続けたのは、彼女に見合う存在になろうと思ったことがまず第一であったし、彼女に僕の誠意を伝える術というものは、価値のある金品を贈って他者との歴々たる差異を現わすことで、遠回りながらも僕が彼女に抱いている思いが、特別なものであると。そう伝えることができるのではないかと。そうすれば、少々恋愛に拙い僕でも、まるで数々の女と情交してきた骨のある男だと、彼女に思わせることができるのではないだろうか。そう思ったのであった。


僕はスズキとカビゴンの背中を見送ってから男に近づくと、低く屈んで右腕を寄せる。

右手の中指に嵌められたジェダイトが光っている。光を当てる位置や見る角度によって、ジェダイトはいくつもの緑青の輝きを放っている。

僕は男の右手からそれを取ると、素早く右ポケットに入れて公園を出ると、車が置いてある通りとは反対の方向へと走った。


夏なのに風が冷たかった。僕はなるべく足音を出さずに住宅地を駆けたが、次第に奥底からわなわなと、得体のしれない泥みたいなものが沸き上がってきて、僕は路の縦溝に酸を吐く。口だけでなく、鼻からも酸っぱい液体が昇ってきて、それが僕の体内を侵している。

息を吸うのはつらいから、ずっと吐いていたいという衝動がこみ上げてくる。汗とも涙ともつかない液体が僕の顔を濡らし首筋を伝う。奪ったジェダイトの輝きが、街灯のない住宅地一帯の静謐な空気を吸い込んでいる。


次第に、音や光がひとつの塊みたいになって僕を導いてくれる。視界の狭まった世界では、ジェダイトの輝きだけが頼りで、轟音のように低く鳴っている僕の心音が、徐々にその輝きを覆うと、血管が破裂して漏れ出た液体が、黒くなる僕の視界いっぱいに広がっていく。

とてつもない痛みが下腹部を襲ってえずく。生暖かいアスファルトに鮮血の毒々しい流れが、乳白色な僕の胃液を侵す。ジェダイトの翡翠が、僕の右手にしっかりと握られている。


カビゴンとスズキは、今頃僕を探しているのだろうか。暗闇の住宅街で、あられもなくうずくまって泣いている僕を見て、彼らは何というのであろうか。

これは僕が撒いた種なのだ。リー先輩からアシッドを貰い、それを売り続けることで自分という人間を肯定しようとしたのだ。大金を得るためでも、彼女のためでもなく、僕はただ自分のために、こうしてわけもわからず路真ん中にうずくまって、得体のしれない恐怖から逃げることもできず、ただ声にならない戦慄きを感じているのだ。


僕は早く彼女に会いたかった。あの柔和な笑みを向けさえしてくれれば、僕はもうなんだって出来るつもりであったし、奥底から込み上げてくる不安や汚泥の翳も、彼女の前では姿を見せない。

僕はもうこんな苦しい思いをしたくはない。幻覚や幻聴にうなされて、絶えず蠢いている細胞の死滅に神経をすり減らすことなく、彼女の本心を知り得たいという憂悶に、日々悩み侵され続けなくて済むというのならば、僕は自ら身をなげうってでも、彼女という安住の地へと旅経っていきたいと思うのだ。




僕は来た道を引き返して長者橋を渡った。ラッシュ時を避けようとして駅へ向かうサラリーマンの、汗ばんで下着が透け出た背中がスクランブル交差点の奥へと遠のいていく。

信号の点滅が僕の鼓動のように感じる。青色の点滅は静脈で、赤は動脈。赤は嫌いだ。暑い日差しの源でもある太陽を想起させる。太陽の赤、血の赤、そして赤べこの赤。

僕は青が好きだ。青は山脈から悠々と流れる、透き通った滝の涼しさを思い出させてくれる。瑞々しい自然の青、空の青、ジェダイトの青。

僕はジェダイトを財布の中に入れている。それを彼女の白い指に嵌め、夏の盛りの太陽に透かせてみるのだ。リングはきっと、暑さを吹き飛ばすような清涼な色を映し出すだろう。


道路を渡り、野毛の繁華街へ続く道を逸れると、庇の大きい飲食店が並ぶビルに着く。まだ朝も早く、平日ということもあって人通りは少ないが、長年住み続けているのであろう住民の打ち水が、熱せられたアスファルト道の黒色を濃くしてる。

そのまま路地を曲がり、住宅の続くエリアへと進めば、彼女の住むアパートまではすぐなのだけれど、僕は日ノ出町の道を逸れてから、背後に人の気配を感じて仕方がなかった。

桜木町を目指す若者だろうと初めは思ったのだが、四人とも横一列に並び、僕の後ろ五―メートルをのろのろと歩いているのだ。

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