第十九回
外気は息をするのも苦しいくらい湿っている。まだ梅雨明けしていない山間部の空気は重く、車を取り巻く風の流れは速かった。
「おいカビゴン。車止めてくれ」
助手席でペンライトを振っているスズキが言う。
「どうしたんだ」
「しょんべんに行きたいんだ。その辺の茂みで済ましてくるからさぁ」
スズキは下を出して笑っている。カビゴンは車を左折させ路地に入ると、もうかなり中心部だというのに街灯ひとつない住宅地に車を止める。
「家の前でやれっていうのかよ」
「あそこ、いいんじゃないか?」
カビゴンが指さしたのは電柱脇のゴミ置き場だった。蛾が集まった電柱の下に、青色のネットが照らされていて、明かりのない住宅地一帯にとりわけ目立つ格好だった。
「なんだか舞台に上がってスポットライト浴びてるみたいだなぁ」
車から降り電柱の下までやってきたスズキは、青ネットに入った二つのゴミ袋を蹴飛ばすと、その上から吐く。
もう何度も吐いているというのに、よくもまあそんなにも胃の中にブツが残っているのだなと感心しながら、僕はスズキの口から溢れ出たブツが、徐々に青ネットを侵していく様を眺め、その光景がふと悠然と流れる滝のように見えてくる。
スズキは吐き終わると、僕たちにニヤリと笑みを見せ、撥ねて汚れた眼鏡を服の裾で拭くと、パンツを膝まで降ろして豪快に放出する。真上に群がる蛾の群れが優雅に飛び回る様を眺めながら、いまにも叫びだしそうな面構えでニタニタ笑っている。
「バカだな」
カビゴンはヘッドライトを点滅させながら笑っている。携帯を取り出して二三枚写真を撮ると、「アイツの好きなヤツに送ってやろうかな」と言ってタバコを吸っている。
僕はそれを、退屈そうに眺めている。スズキが酒に酔うと、必ずそのようなことになるのは何度も見てきていたし、またその都度カビゴンが彼の陰部の写真を撮って、「蛇みたいな顔してるな」と言って、写真と比較してくるのも常だったから、僕は半ば呆れて大きくあくびをすると、助手席にあったボックスガムを掴んで口に入れる。
「アイツ、いつまでやってるんだ?」
呆れかえった僕がそう口にした時、暗闇から男がひとり出てきて、下半身を丸出しにしているスズキに近づく。
「なんだよ、おっさん」
スズキはズボンをあげないまま男と顔を見合わせている。スズキの頭が、その男の肩と当たるくらい近づき始めた時、何かを察したカビゴンが急いで車から出る。
「おい、やめろ」
スズキの拳が男の肩上を掠る。虚ろでありながらも、事の重大さを認識したスズキの眼は精悍で、すぐさま襟を掴もうとする男の手を払い距離を取る。小学生の頃、キックボクシングを習っていた動作が、次の瞬間男の腹部を狙うようにして、大腿の捻りを加速させる。
カビゴンは、騒ぎになれば困るのはこっちだと僕に言って、すぐに男の後ろに回ると、暗闇で視界が狭められ、スズキとやり合っていることで背後にまで意識が及ばないこと良いことに、男の後頭部をガツンと打つ。
エネルギーを失ったロボットみたいに、男は膝から崩れ落ちて仰向けに倒れる。一瞬、僕はぎょっとしてカビゴンを見やる。彼はさして深刻でもないような表情で頷く。どうやら殺してはいないようだ。
スズキは下半身を出したまま硬直している。足元が震えている。委縮して小さくなった彼のソレが、電柱の光に当てられて光っている。やがて彼のソレから小さな水が出てくる。クスリの取りすぎで濃くなった液体が、仰向けで倒れている男の右頬に当たり、ぴちゃぴちゃと音を立てている。
カビゴンはタバコを吸っている。この男は、白我組を敵対視している赤味組の準構で、何かに付け込んで頻繁に嫌がらせをしてくるのだと彼は言う。横浜から車で三十分ほどのこの場所は、一帯が赤見組の管轄であり、以前一度リー先輩と歩いていた時に、事務所の横で立ち、深刻そうな面持ちで周囲を探っていたヤツこそが、いま路上に倒れているコイツなのだと言う。
「赤味組でもなんでもねぇ。だたの雇われ諜報員だ」
カビゴンはそう言って吸い殻を男に投げつけた。
電柱が極端に少ないのは、その場所が駅前より敷居の高い、新興住宅地だからなのだと、男を公園の隅まで引っ張った後にカビゴンが呟く。
「山手みたいな高級住宅街じゃないにしろ、こんなところでコソコソしていたら通報される。早いとこ逃げるぞ」
「こいつはどうすんだよ。そのままにしておくのかぁ?」
「当り前だろ。こいつが起きる前に逃げるんだよ」
男は背の割に体重が軽く、三人でも簡単に運ぶことができた。太い老木が二本植えられている茂みに男を置き、スズキとカビゴンは周囲に気を配りながら公園を去っていく。僕も後に続く。
その時、僕の脳裏に男の右手が浮かぶ。電柱から公園まで運ぶ際、スズキは男の足を持ち、僕とカビゴンが男の左半身と右半身それぞれを持ち上げたのだけれど、その時不自然に垂れ下がった男の右手が、歩くたびに僕の体に触れるので、鬱陶しくなって彼の肩を叩こうとした時、右手の中指にリングが嵌められていることに気が付いたのだ。
そのリングはジェダイトだった。翡翠色の鉱石特有の、透き通った蒼緑は、生き生きと伸びる若竹を僕に思い浮かばせた。なんの細工も施されていない、ただ鉱石を磨いただけのそのリングは、僕の目にあの、彼女から貰った青いストラップを想起させた。
彼女はその後も家の壁にストラップを飾り続けた。僕が自分の家に帰ることが億劫になり、ワンルームの彼女の家に半ば同居のようなかたちで居座り続けても、彼女はそのことについて何も語らずに、ただいつもの柔和な笑みで僕を迎えてくれるのだった。
そんな日々が何日も続くと、僕は彼女と言う存在が、自分の内でどうのような作用をもたらしてくれるのだろうかと、思案し始めるようになっていった。それは僕と彼女の関係に決定的な名称がなかったことから生じた、ある種この関係における欠点とでも言うべきものだったから、僕はすぐにでも決断をしなければならなかった。
けれど僕は、どのように彼女に思いを伝えればよいのかわからなかった。僕の浅い恋愛歴からすれば、それは当然のようなもので、言い寄られたことはあるのだけれど、本気でこちらから言い寄った経験は無きに等しかったのだ。
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