第十七回

カビゴンはそう言って弱く笑っている。口の中が切れたのか、舌の位置がおかしくなって発音がたどたどしい。




「なしご。お前、気を付けるんだな。アイツら、お前の顔覚えてるみたいだから、俺らヤってる最中も、もうひとり目つきの悪いやつが居ねえって。俺らは吐かなかったけど、阪東橋周辺はうろつかないほうがいい」




「ああ、そうするよ。ありがとう」




本当はカビゴンとスズキの元へ今すぐにでも駆けつけてやりたいのだけれど、アイツらが周辺で僕を探しているみたいだから、迂闊に動かない方がいいとカビゴンは忠告している。




僕はスズキとの通話を切ると裏通りの路地を足早に過ぎる。タクシーを使って家へ帰ろうとも考えるが、いや待て、アイツらが家の前に立っていたらどうしよう。そうなれば僕は逃げることもできない。仮に運よく家に帰れたとしても、アイツらのバックには赤味組がいるのだ。何とか僕の情報を掴んで仕返しをしてくるに違いない。果てどうしたものか。




もちろん、こんな事態になってしまった根本の原因は僕たちにあって、それはつい五日ほど前にカビゴンの愛車で隣町にクスリを売りつけようとした時の、車内での他愛もないふざけ合いから始まった。




午前三時、僕はスズキやカビゴンを連れて、横浜から車で一時間の郊外へと赴き、入ったBARやクラブでアシッドを売りつけた、その帰り道の事であった。




「それで、何個売れたんだよ」




今春、リー先輩に買ってもらったばかりのインプレッサを運転するカビゴンは、サイドガラスから腕を外に出してタバコを吸い、左手で華麗にハンドルを扱っている。




「二十個は売れたんじゃないかぁ?」




「いいやもっとだな。三十はいったね」




「あれが良かったな、最初に会ったオリバー。アイツが米軍御用達のクラブに連れて行ってくれたから、こうも簡単に売ることができたんだ」




熱帯夜だというのに車内では『白い恋人達』が流れている。助手席に座るスズキは先ほどのバーで無理やり飲まされたテキーラのせいか、窓から胃の中のモノを吐き出している。




「俺はクスリの需要がこんなにあるなんて思わなかったよ。初めリー先輩に頼まれたときは直ぐ断ろうって、本気でそう思ったんだ。けど、一週間経ち二週間経ち、俺の撒いた種が着々と実り始めたんだ。そうしたら値段も二倍三倍って。こんな簡単に稼げる仕事は他にないよ」




僕はカバンから膨れ上がった財布を取り出すと、バックミラーにそれを写す。カビゴンは笑って吸い殻を窓から捨てる。




「リー先輩には言うなよ」




「当り前だ」




僕も笑ってそう答える。二人を誘ったのは僕なのだから、リー先輩に叱られるとしたら僕の方だ。リー先輩は僕に渡すアシッドの量を毎週のように増やしていった。一週目が十錠だったノルマが、二週目は倍の二十錠、次の週は三十錠といったふうに。




もちろん、僕は初めからクスリを売りつけることには拒絶的で、一週目の十錠を売りつけた時点で先輩に辞めると告げるつもりだったのだけれど、あちこち動き回ってようやく手に入れた十万円を所定の位置へ持っていき、顔見知りの準構へ渡したとき、ソイツがただ一言「売れたのか?」と聞いて、僕が無言でうなずくと、ソイツは十万円を受け取ろうとせずに、また銀紙に入ったアシッド二十錠と、背広の内ポケットから分厚い茶封筒を取り出して、「来週までに四十万」と言って去っていったのである。




僕は狐につままれたような不思議な心持で茶封筒を開けると、中に三十万円が入っていた。

僕の手元にあるものは、この一週間必死で集めた十万と、いま男から貰った三十万。それにアシッドが二十錠。来週までのノルマは四十万。




きっとリー先輩は、最後の忠告として、僕に四十万円を渡したのだと思う。ヤクザではないものの、密売人という反社の端くれみたいな僕の、その心意気を確かめたかったのであろう。辞めたければ辞めるがいい。代わりはいくらでもいるのだからと、暗に仄めかすように僕に伝えたかったのだ。




僕は膨れ上がった茶封筒とアシッドを眺める。本牧ふ頭に近い食糧倉庫の薄明かりが、アシッドの入った銀紙を光らせている。遠くからはコンテナを運ぶクレーンの音が微かに聴こえる。




その時、僕の頬にツーっと涙が伝ってくる。初めは左目、次に右目と、涙は際限なく頬を伝い、茶封筒の上に落ちる。



僕は込み上げてくる熱い涙を止めることができなかった。それは這い上がれると豪語していた沼地に、片足ひとつで引きずり込まれていったと言ってもいいくらいの、己のあさましさと優柔不断さを示しているものであったから、僕は後悔に苛まれながら何度も涙をぬぐっては、ああもう元には戻れないのだなとしみじみ感じる。



けれど決して悲しい気分ではなかった。むしろ己を苛む気立てが、徐々に闘争心となってふつふつと沸き上がってくるのを感じて、僕は身体が熱くなった。




次の週、僕は六十万円を持って準構のもとに訪れると、「来週は五十錠持ってこい、二百万稼いできてやる」と言って茶封筒を渡す。

僕よりもはるかに上背のあるソイツは一瞬だけ眉を顰めると、封筒から四十万だけを抜き取って内ポケットに入れ、残った二十万を僕に返す。




「三万で売ったのか?」




「ああ。この調子なら四万でも売れる」




僕はそう言ってアシッド三十錠が入った銀紙を受け取ると、メンソールを取り出して口に咥える。




三週目から、僕は新たなエサやり場として、横浜から少し外れた郊外を標的にクスリを売り歩いた。どこの町でも警察と癒着関係の店があり、そういう場所ではクスリが当たり前のように横行しているので、わざわざこちらが演技せずとも、すんなりと売りつけることができるのだった。




ひとりでやり続けることに限界を感じた僕はスズキとカビゴンを誘った。金はいくらでも稼げた。仕入れた分は必ず売れた。僕はもう得意になっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る