第十六回
「あのアクセ、あんなところに飾ったのかよ」
一時間ほど横になると大分身体も楽になって、僕はコップの中の水を飲むと大きく深呼吸をする。
「スマートフォンって、ストラップが付けられないんですよ。ちょっと前まではみんな携帯で、わたしの友達なんかもジャラジャラってポケットから垂れ流していたんですけど、今はもうそんな光景見ることもないですから」
彼女はそう言って、財布やカバンに付けることも考えたが、悩めば悩むほど、その青い宝石のストラップが愛おしくなってきて、次第になくしてしまったらどうしよう。誰かに捕られてしまうのではないだろうかと杞憂しだし、最終的に自室の壁に飾ることで落ち着いたのだと語る。
「だからわたし、初めてその携帯電話を見た時びっくりしたんです。ああ今でもガラケーを使っている人がいるんだな、世間ではコンパクト化が進んで、色々な新型が発売されていくなかで、未だに古いモノを大事に使い続けているんだなって。わたしなんだか嬉しくなったんです」
僕はポケットから携帯を出して彼女に見せる。青い宝石のストラップが僕の腕で揺れる。
「待ち受け変えてみたんだ」
「え?どんなのにしたんですか」
「ほらこれ」
すぐ彼女に携帯を渡す。画面を眺めた彼女は「わぁ」と小さく喚声をあげて微笑む。
「イグアスの滝!」
「なかなか綺麗だろ?」
僕がネットから拾ってきたその滝の画像は、中央分離帯のように緑色の島が湖に浮かんでいるもので、下半分が滝口で白く、けれど光の当たり方で様々な色を刻んでいるかのように見える、大迫力のイグアスの滝の写真であった。
「よくわかったな」
「滝の写真、昔からよく見るんです。日本の滝はわびさびっていうか、何となく質素で、それがまだ厳かな美しさを現わしているとは思うんですけど、世界の滝っていうのは本当に凄いですね。心を奪われてうっとりするとか、美しさに魅入られるとかじゃないんです。存在そのものに力があるんです。見る人全てに圧倒的な自然の力を与えるんです。それは万国共通の死に対する畏怖とも少し似ているかもしれません。わたしはこのイグアスの写真を見てそんな世界の広さを知りました。人間の芯の部分を刺激する自然の力……きっとわたし、こんな場所に行ったら気絶してしまうかもしれません」
彼女はそう言って笑う。興奮気味なその喋りの後に、ハアハアと緩い息遣いが聞こえる。
彼女がしばらく僕のガラケーを見つめあれこれ語っている。そのおかげもあって、僕の幻覚症状もだんだんと治まってきている。眼の照準や聞こえてくる音の感覚、さっきまで破裂しそうなほど痛んでいた脳の血管までもが、詰まりの取れた排水溝みたいに流れているような気がするのである。
僕は仰向けのまま携帯を返してと呟く。彼女は悪戯っぽく笑みを向け、尚も僕のガラケーを返そうとしない。もういいよ、と身体を壁際に向ける。
彼女がベッドのうえに上がって僕の顔をに近づく。額を合わせて、熱がないか確かめようとしているみたいだけど、それはもう愛を育む寸前の男女が行う心のつめかたであって、疲弊して無防備な僕にはもう為す術はなく、ただ彼女に身体をゆだねることしかできないのだと、僕はその時本気でそう思っていたのであった。
けれど彼女は、僕の後頭部に顔を近づけると、くるりと身体をベッドから離し、「熱はないみたいですね」と呟いて、またキッチンの方へ行ってしまうのである。
「イグアスの滝」
僕は天井を見上げながらそう呟く。
「いつか見に行きたいね」
遠くから彼女の声がする。ああそうだね。心の中で呟く。
暑い熱いアツい。僕は日差しで熱せられた欄干から腕を離すと、行く当てもなく伊勢佐木町の裏通りへと歩いていく。
カビゴンとスズキは今頃どうしているのだろう。僕は彼らを起こさずに、カレンと二人で店を出てしまったから、今頃すき家に置き去りにされた彼らから、電話の一本くらいあってもいいところなのだけれど、ショーパンの右ポケットに入っているガラケーは音ひとつなく、青い宝石のアクセサリーが歩を進めるたびに太ももに当たる。
きっと、彼らのことだから、場所を変えてまたダラダラと飲み続けているのだろうと、目も覚めて、何となく家に帰りたくない僕はガラケーを取り出すと、スズキへ電話する。
スリーコール目で彼が出る。息が切れているのか、ハアハアと声が漏れている。
「もしもし、どうしたんだよ」
「どうもこうもないって。アイツらがやってきたんだよ」
僕は嫌な予感がする。咄嗟に人通りの少ない路地のビル壁に身を寄せる。
「赤味組のヤツらだよ。カビゴンのとは別ので、アイツら、この前の仕返しに来たんだ。カビゴンにつつかれて目を覚ましたら、黒Tの男三人に囲まれてたんだよ。それで『ちょっといいかい』って背の低い太ったヤツが俺たちをすき家から出して、阪東橋公園の裏側の倉庫の方でシメられた。一応ほら、カビゴンはリー先輩の舎弟みたいなもんだろう?だから簡単にあぶり出されちまったんだ。アイツらの諜報能力はほんと大したもんだよ。カビゴンは何も吐かなかったけど、代わりにさっき食った牛丼のすじ肉を吐いてたな。俺は細くて華奢いから、アイツらも顔面一発と腹に二発で済んだんだけど、カビゴンは身体がデカいだろォ?眼ぇ開けられなくなるくらいボコボコにやられてたなぁ」
そう言って、スズキは蛇口から水を出し顔と眼鏡を洗っている。後ろからカビゴンの荒い息遣いが微かに聞こえる。
「それで、お前ら大丈夫だったのかよ」
「ああなんとかな。向こうだって上に内緒でやってるわけだから、大事にはしたくないんだろうなぁ。アイツらは半ぐれだけど一応バックには赤味組がいるわけだから、組同士の抗争になんかなったら大変だろぉ?だからカビゴンも、このことはリーさんには言わないって言ってたよ」
後ろから僕を呼ぶカビゴンの声がする。そこでスズキはカビゴンに通話を変わり、本格的に身体を洗い始める。
「俺はアイツらにヤられたんじゃないぜぇ。ヤられたふりをしたんだ。ボクサーが顔とボディーを守るみたいに、両腕でグッと身体を縮こませて耐えてたんだ。そしたらアイツら、十分でハアハア息切らし始めて、二分後には逃げるようにいなくなってたぜ」
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