第十五回
締め付けるような苦しい熱帯夜の歩道を、朦朧とした意識で歩いている僕は、今いる場所がどこなのかもわからない。
つい数分間の、「エイジ」という丸刈りのグラサンが放った言葉が脳裏をかすめる。
「兄ちゃんも、それヤッてんのかい?すごい顔だけど、もうすぐ気持ちよくなってくるからさぁ」
その時僕は、本当に心地よくなって、物事が全て鮮明に見えてきたのだけれど、それもほんの数分の間で、またいつもの、錯乱して魍魎な悪魔が胸に込み上げてくるのである。
僕は右足がどっちなのかわからない。左右盲になりながら、えっちらおっちらと歩を進め、やっと歩道の段差の見える距離になったところで、ピピイとクラクションと怒号。
急かされているのもわからない僕はそのまま歩道へ上がると、ナメクジが欄干の縁を登っていくみたいに駅前を通り過ぎる。
確か、アイツは「もうすぐ気持ちよくなる」と言っていたが、それはほんの少しの間で、服用してから数時間後にトイレで目を覚まし、朦朧とした意識の中で〈秘密BAR〉なるところで涼んでいたところ、ちょうど僕と同い年かひとつ上の思わしきそいつが扉から入ってきて、「ルイスちゃんは本当にバカだえ。おいらみたいな正直者を手放しちまうとはえ」と、いきなり隣のソファに座りだし、なぜだか僕はその時ソイツの肩に手をまわして「欲しいかぁ?なぁ、そうだよなあ。お前も欲しいんだろぉ」と訳の分からぬことを呟いて、そいつにアシッド二錠を売りつけようとしたのだけれど、首を大きく振り回した赤べこが僕の後頭部を殴打して、ソイツの首元に架かっていた銀色のネックレスをゲロまみれにしてしまい、「なんなんだこいつは、ガイキチか」と右頬に鋭いストレートが入り、気を失った僕を数人がかりで店外の薄汚いトイレへ投げ出して、そのままタイル床に倒れて意識をなくしていたのだけれど、ぼんやりとした僕の視界の中に、まるでエイリアンが脳内に直接言葉を送ってくるみたいに、「エイジ」という男が苦しみ悶えていた僕の心に、一種蠱惑的で断続に沸き上がる悦びのきっかけを与えてくれたのだった。
僕は「エイジ」にアシッド二錠を渡し、財布から二万を出した彼の手をそっと制すと、その一枚だけをポケットに突っ込んで、どうやら捻ったらしい左足を引きずるようにして、紊乱な伊勢佐木町通りを去っていったのである。
JRAを左に曲がり緩やかな坂を上がる。マンションアパートの玄関灯がホタルみたいに宙に広がる。ギシガシと音を立てながら錆のついた階段を上る。
インターホンを鳴らし、崩れるようにドアに凭れ地べたに座る。ドタバタとこちらへ向かってくる足跡が聞こえる。重いドアを押して「あぁ」と声を荒げている。爽やかな匂いが鼻に広がる。
「どうしたの?」
「気分が悪いんだ。水を持ってきてくれない」
僕がそう言うと、彼女はすぐに台所で水を汲んで持ってきてくれる。ゆっくり喉に流してから、二三分ハアハアと息を吐く。勢いづくと、胃の中のものが全て出てきてしまいそうな悪寒だ。
「横にならせてくれ」
僕は彼女に支えられながらベッドまで歩く。靴を乱雑に脱ぎ、キッチンを通って居間へ入る。ワンルームの部屋には卓袱台、ベッド、箪笥に本棚、それに僕の衣服や文庫本が隅に置かれている。
彼女は心配そうに僕をベッドに導くと、熱はないのか、救急車を呼ぼうかと必死になっている。僕はとりあえず落ち着いたから、と仰向けのまま目を瞑る。
瞼を閉じる瞬間、壁に架けられた水色のキーホルダーが目に入る。あそこに飾ってあるのだな、と僕は呼吸を意識しながら眠りに着く。
あれは先週、二人で八景島シーパラダイスに行った時に、僕が彼女に買ってあげたやつだ。横浜から三十分ほど電車に揺られ、人工島になっているそのアミューズメント施設には、アトラクションの他に水族館が併設されていて、中で本格的なイルカのショーを見ることができるのだ。
僕は生まれも育ちも横浜だから、幼少期から何度も訪れたことがあるのだけれど、上京してきてまだ間もない彼女からしてみれば、都会にあるテーマパークほど興味を注ぐものはなくて、何日か前にテレビの特集で取り上げられていたのを頻りに話題に出すので、それならば一緒に行ってみようかと、学校をさぼって平日にノコノコと行ってきたのである。
その帰り際、彼女とおみやげショップに寄った際に、大きなペンギンのぬいぐるみやクッキーの詰め合わせには目もくれず、アクセサリーキーホルダーの類が集まっている処に立ち止まって、一向に動こうとしないのである。
「何が欲しいんだ?」
僕のその問いに答えず、彼女は黙ってアクセサリーを眺めている。
よくこんなにも色々なものを作れるのだなぁと、狐のしっぽのようにフワフワした装飾のもの、勾玉、宝石、剣、マスコットキャラクターのぬいぐるみ、何かのアニメとコラボしたのであろう缶バッジ、ガラスペンダント。
僕は隣の棚の、お菓子類が箱になっているコーナーへ行き、イルカのキャラクターが描かれたチョコレートクランチを二つ手に取ると、
「これなんか良いんじゃないかなぁ。親御さんも喜ぶと思うし」
と言って彼女に見せるが、相変わらず反応はなく、何かに見惚れたようにアクセサリーを眺めるばかりである。
何をそんなに気にしているんだ。たかたがどこのお土産屋にも売っている量産品だろうと、ちょうど中央の壁に架けられていた青い宝石のアクセサリーを手に取って、不審げにそれを眺めていると、彼女が僕と同じものを手に取って、注意深く眺めている僕の掌に乗せる。
「同じやつでいいのか?」
「うん」
「ピンクとか、他の色もあるけど」
「ううん」
「わかった」
「ありがとう」
会計を済ませ僕が店を出ると、後ろにいた彼女が「携帯だして」と言うので、黙ってその通りにする。彼女は何やらもぞもぞと若干戸惑っていたが、やがて満面の笑みで携帯を僕の顔に突き出す。
「浮気防止ガラケーストラップ」
僕は一度も自分の携帯に、ストラップなど付けたことがなかったから、器用に括りつけられた青い宝石を手に取ると、いつまでもそれを眺めていた。
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