第十四回

そう考えて僕は、とりあえずパチンコ屋の角で密売人を待つことにした。


とにかく色々なバーへ行って薬を売りつけるふりをしよう。むこうもヤクザなのだから、見張りの一人や二人よこすだろう。僕が出来損ないだと分かれば、先輩も別のヤツを仲介人に選ぶだろう。一週間後にアシッド十個と十万円を手渡して、「僕には荷が重すぎました」と土下座する。それが一番だ。




僕は両ポケットに手を突っ込んで、アラベスクのような外観のパチンコ屋の白支柱に凭れている。昼間の裏通りは至って普通の下町で、アスファルトの歩道には住民らしき半そで短パンの中年と、シルバーカーを押した白髪の老婦人が遠くに見える。




横浜の中心地からさほど離れていない繁華街なのに、昼間はこうも人が少ないのかと、何棟もの住居ビルで視界の狭まった青空の、その悠々とした入道雲の動きを眺めているうちに、首筋から背にかけて汗が流れていることなど忘れ、僕はうつらうつらとし始めている。




おぼろげな僕の視線に、七三のサラリーマンがパチンコ屋に入っていくのが見える。

この時間に妙だなと、僕はちょっと支柱から背を離し、のぞき込むようにして隣の入り口を眺めていると、また二三人パチンコ屋に入っていく。

新台入荷の旗が靡いている。中で涼もうかと携帯を確認した時、出てきた客の一人と肩が当たる。




青いシャツを着た、僕より少しだけ背の高い男の人。僕が咄嗟に「すみません」と呟くも、男は僕に一瞥もくれず、ヘッドホンから大きく『R.Y.U.S.E.I』を流しながら関内駅の方へ歩いていく。




なんなんだアイツは。無礼極まりないヤツだ、と僕は男の後姿を眺めながら両ポケットに手を突っ込む。




硬い銀紙が指に当たる。微かに凹凸のあるその紙は、片手に収まるほどのもので、駄菓子屋に売っているやけに甘いラムネのような感覚だ。

僕はその瞬間狼狽して、ふらふらと頭の血が抜けるような脱力感に襲われる。ああ、受け取ってしまったなと後悔と不安が駆け巡り、僕は両手を入れたまま俯いてその場を離れる。




一見、ただのサプリメントか、お菓子の類にしか見えないこのブツが、裏で数万という値で取引されているとは、いったいどういうわけなのだろうと、僕は公衆トイレの便座に座りながら縦に十錠並べられたアシッドを眺める。




この、握りつぶせば簡単に割れてしまう粉の塊が、人々を幸福にも不幸にもさせる。本来なら医療現場で使われるこの幻覚剤が、こうも簡単に世の中では手に入るのかと、薄ピンク色の粒を見つめながら、僕は用を足している。




僕はこれまで、違法薬物というものを服用したことが一度もない。カビゴンやスズキは、直接的には言わないものの、暗にほのめかすようにそれなく口にしたことはあって、どうやら彼らの言い分からすると、とてつもない悪寒や吐き気の後に、オナニーよりも気持ちい快感が全身を襲うのとのことで、その形態は種々様々らしい。




タバコや酒と同じように、薬物にも強い弱いがある。強い薬は一グラム数十万と値が張るが、小さくて軽いものは数千円からのものが多い。使用仕方も、鼻から入れるものや注射針で血管に刺すもの、錠剤のように口に入れるものなど、とにかく色々あって、それらの情報から考えるに、この二錠で一万円のアシッドは、そこまで強い薬物ではないということが推測できる。




僕は再び指の爪ほどの錠剤を眺める。先頭の左端にある一片を切り、中から薄桃色の錠剤があらわれる。僕は、まるで世界で初めて珍味を発見した料理研究家の如く、目を寄せて注意深く眺めてから、ほいっとそれを口に入れる。




唾液で温めるが味がしない。見た目のかわいらしさとは異なり、ブツには匂いも味もなく、なかなか口の中でなくならない。




そう言えば、リー先輩に使用方法を聞いていなかったなと、僕は奥歯でガリガリと噛み砕き、唾液と一緒に飲み込む。




ちょっとの間があって、あれ意外と心穏やかだな。と不思議に思って背筋を伸ばし目前の個室の青扉を眺める。




うん、やっぱり大丈夫だ。とくに気にすることは無い。と、僕は下げたズボンを上げ個室から出ようとする。




くるりと扉が一回転する。取っ手が逆さまになっている。あれあれ?と腕を伸ばして掴もうとするが、取っ手は瞬時にペットボトルに変わる。さっき捨てたばかりのポカリがどうしてそこにあるのだろうと、僕は片足立ちしているみたいに身体を左下に引き寄せられていることなどお構いなしに手を伸ばす。今度はポカリが赤べこに変わる。死んだ祖母の欲しかったヤツだ。小学生の頃そごうに行った時「あの赤べこ綺麗だね」と手をつなぎながら何度も眺めた漆塗りの赤べこ。その赤べこの首から頭にかけての揺れが不規則だ。べこ、べこ、べこべこべこ、と揺れている。





べこべこ、べこ、べこべこべこ、べこべこべこべこべこべこ、べこべこ、べこべこべこべこ、べこべこべこべこ、べこ、べこべこべこべこべこべこ、べこべこべこべこべこべこ、べこべこべこべこべこべこべこ、べこべこ、べこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこ、べこべこべこべこべこべこべこべこべこべこ、べこべこべこ、べこべこべこ、べこべこべこべこ、べこべこべこ、べこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこ




花火の大輪が弾けて僕の目にあたる。火花が地響きと共に網膜の細胞から飛び出して赤い血を流す。崖が、谷が、山が崩れて水が放流する。濁流が大勢の喧騒を運んで僕の元へ押し寄せる。水の流れは速く、土屑や砂利にまみれて冷蔵庫、下駄、リモコン、洗濯機、ダンベル、一輪車、はしご、望遠鏡、そしてスイカ。





スイカ、スイカ。スイカは大きい。大きい、大きい、大きい巨大丸い。巨大、巨大、丸い赤い。赤い、赤い、赤い甘い種。種、種、種黒い。黒い、黒い、黒い眼。ワンワンワンワン犬の眼。眼、眼、眼、眼紅い。紅い、紅い、赤い。やっぱり赤い赤べこ




べこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこべこ

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