第十三回

 僕は〈LAPA〉にいる。開店前の午前十時は照明が厨房にしかついていないから、中でひとり調理に勤しんでいる顔見知りの従業員の動きがよく見える。カウンター席は丁寧に磨かれて埃ひとつない。木目調の表面が光っている。




「どうだ?うまいだろぉ?」




僕は新商品のクリームパスタを食べている。やや薄味のクリームソースに、ほうれん草とベーコンが和えていて、絶妙に舌の中で混ざり合っている。




「そりゃあうちだってねぇ。本当はアイツらに試食させたいよ。でもほら、みんな薬で味覚がバカになっちゃってるから。ひでおなんて酷いもんさ、この間カフェでコーヒー頼んでやったら、『リーさん、このコーヒー塩っ辛いですねぇ』って、アイツマジの顔で言うんだよ」




「アイツは牛丼しか食わないんですよ」




僕はリー先輩の顔を見ずにそう言う。ベーコンの塩っけに頼りすぎて、本来のクリームの味がしないという本心を心に留めて、「商品にするなら十分すぎるほどの出来ですよ」と笑顔で言う。




「なしご。お前、興味あるかぁ」




リー先輩はポケットからメンソールとライターを取り出す。口に一本を運んで大きく息を吐く。




「興味って。一応僕は大学生ですし、お金は両親からの小遣いで、特に困ってはないんです。それにほら、僕がここに勤めたら、カビゴンがサボるようになっちゃいますよ」




「ここじゃねーよ」




リー先輩は腹から声を出したとき特有の、鼻や口の全てから息が出ているかのような発声でそう言う。顔はカウンター向かいの厨房に注がれて動かない。




「ここじゃねえ。組だよ組。なしご。お前俺みたいにならないか?」




「どういう意味ですか?」




僕は珍しくリー先輩からメンソールを貰う。タールの強いやつだから、着火して煙を吸い込んだ時に脳が震える。




「今、横浜で中華系の暴動が起こっているのは知ってるか?」




「何年か前の残党が、また西口で暴れだしたってやつですよね」




「あぁそうだ。あれが結構厄介なんだよ。二日前に戸部の公園で二十人くらいが集まって、夜中に集会めいたものを開いていていたんだ。多分、アイツらは今週中に伊勢佐木町にやってくるぞ」




「それと僕が組に入るのに、何の関係があるんですか?」




僕はちょっと怒ったようにそう言う。まさか、僕に抗争に立ち会ってくれとでも言うのだろうか。リー先輩は尚もまっすぐに厨房を見つめている。




「お前には言ってないが、俺はまだ白我組の組員じゃないんだ」




「というと?」




「準構成員。簡単に言えば組の関係者、身内、半ぐれみたいなもんだよ」




リー先輩は吸い殻をテーブルの縁に押し付けている。黒い穴が徐々に木目を侵している。




「上のヤツがひとり死んだんだ。なんでも、女関係の自殺で、身寄りのない女を複数人囲ってたみたいなんだけど、ある日突然居場所がわからなくなって、三日前に厚木の山奥で見つかったんだ。オーバードーズでね」




「オーバードーズ?」




「薬物の大量摂取のことだ。それでアイツの代わりが必要になったんだ。昼橋っていう四十代の、生まれも育ちも横浜のヤツだったから、幹部はアイツに地域管轄の仕事を割り振っていたんだ。今回の暴動も、昼橋が積極的に動いてくれていたから、アイツの抜けた穴は組にとっても大きいものなんだ」




「リー先輩がその代わりを?」




「ああ。俺は準構になってから、この世界で骨を埋めるつもりで来たからなぁ。もっと時間がかかると思ったが、意外と早く階段を上がれたよ」




そこまで口にして、リー先輩はぐるっと顔を僕の方に向けると、切れ長で下瞼の黒ずんだ目を大きく開け、睨むように




「それでだ、なしご。お前に今の俺、準構成員としての役回りをして欲しいんだよ」

と言う。




「準構成員って言っても仕事はひとつしかない。薬の密売だ。別のヤツが密売人と取引して、貰った薬をお前が売るんだ。取引先はいくつかあるけど、基本的に地下バーやラウンジで泥酔しているやつに売りつけてくれ。心配するな。アイツらは酔っぱらってるから顔なんて覚えやてやしないよ。それで二三人薬漬けにさせて、常客にさせちまうんだ」




酔っぱらっているのだろうかと様子を探るが、リー先輩は鋭い眼つきを崩さない。




「アシッド二錠で一万円。それを一週間で十個だ。報酬は取り分の半分、五万円だ」




低いのによく通るリー先輩の声は迫力がある。顔つきも精悍で、とても二十三には見えない。何度も修羅場を潜り抜けてきた、疲弊の色を気迫で押し通す表情をしている。




その顔で迫られると、もちろん僕は「無理です」なんて言えなくなってしまい、ただ視線をテーブルの木目に注いで黙っていることしかできないのだけれど、リー先輩の言った「アシッド」という言葉が持つ力は、いくら半端ものでカタギの僕でも、それなりに響くものがあったようで、心臓がばくんばくんと、まるで身体の中でハムスターが動き回るかのように強く鳴っている。




「さっきも言ったが、俺はお前にヤクザになれなんて言ってない。ただちょっとの間、バイトをしないかって。それも薬を十個売るだけの簡単なやつさ。上からの報酬は半分ってことになってるけど、俺から少しばかり小遣いを渡すつもりさ」




リー先輩はポケットから黒革の二つ折りを出すと、中から十枚出して僕に握らせる。

僕は無言でそれを拒否するが、先輩は力強くそれを制し、視線は尚も僕の顔に注がれている。




「受け取ってくれよ。俺からの気持ちさ」




そう言って、半ば無理やり僕に握らせると、先輩は


「十二時に二丁目のパチンコ屋の角で立ってろ。アシッド十個、誰が運んできてくれるかなぁ」

と言って、〈LAPA〉から出て行ってしまった。







僕は十万円を机にぶちまける。そのまま放心して五分くらい椅子に座っている。

これ、どうしたものかといった具合でこめかみを両手で塞ぐ。




今からでも遅くはない。やはり僕には無理だと、そう先輩に伝えることは簡単なのだが、何しろリー先輩は、僕だけでなくスズキやカビゴンにまで世話になっている人だから、そう易々と無下にもできないのだ。




第一、向こうは準構とは言っていたものの、話しぶりから組に入るのは確定事項のようで、そうなれば僕はヤクザに眼を付けられてしまうことになる。そんなことには絶対になってはならない。僕には父母、それに兄だっている。家族に迷惑をかけることはできない。

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