第十二回

そのまま、僕がしどろもどろになって突っ立っていると、流石の彼女もなぜこの人は手を出してこないのか。さっきまではわたしを騙し、上京したての生娘を弄んでやろうと、蛇のような目つきで見つめてきたのではないかと、そう思案し始めていてもおかしくはなかった。




けれど彼女は違った。僕がすぐさま下を向き、唇を噛みしめて拒否という姿勢を貫いていても、それがさも当たり前であるかのように、ふふんと鼻で小さく笑ってから、また大きく朗らかに笑いだしたのである。




「ごめん」

僕が小さく呟く。




彼女は笑い続けている。柄でもないことはするんではなかった。




「どうしたの?」




そう聞き返してきた彼女の目には、初めて会った時の濁りが消えていた。つまりは敵意と言うものが、害心を甘受して己を守ろういう防衛本能的なものが、一切感じられなかったのである。







それから、僕は彼女に、本当の自分についてを語った。僕がS大生ではないこと、バレー部でキャプテンなどしていないこと、趣味が読書であること、女性経験がまるでないこと。




向かい合うようにして茶の間に座り、赤裸々に語っている僕の前で、彼女は終始笑顔だった。なぜそんなにも笑顔を貫けるだろうかと不思議に思うくらい、彼女は僕がどんなにネガティブな、過去の苦い経験や失敗を口にしても、口をきゅっと閉じて目を細くして、時折空になっているマグカップを上下に動かして微笑むばかりであった。




そのような不思議な状況でも、なぜだか僕は心が晴れやかだった。つい数時間ほど前ラウンジで出会い、何の脈絡もなく小説談議に花咲かせ、部屋にまで上げてくれたこの周央奏美という女は、初対面の僕を不審がらず怖じ気もせず、温かな笑みで迎え入れてくれたのである。




彼女は未だに笑っている。初めて会った時には気づかなかったけど、笑った時僅かに鼻の穴が開き、そこから一本だけ生えた毛が上下に震えている。そんな普段なら異性に対し嫌悪してしまうような事柄でも、僕はそれがかわいらしくて、堪らなく愛らしいもののようも思えてくるのだ。




その時、僕はふと思った。それは生涯を賭けて成し遂げようなんて仰々しいものではないのだけれど、なぜだか僕はその時、彼女を共にして海でも山でも崖でも谷でも、ついには広大な砂漠のピラミッドの頂上までも、楽しく突き進んでいけるだろうと感じたのであった。




もちろん、こんな赤裸々な告白、彼女に面と向かって言えるわけないのだけれど、少なくとも僕はこの決意表明ともいえる純な真心を、彼女のために少しずつ広げていくのもいいのではないかと。恋というものの、気高き尊さを極限まで追い求めてやろうと。彼女と話しているうちに思ったのであった。




「わたし、ひとつだけ夢があるんです」




冷蔵庫から二本目の麦茶を出してきた彼女は、そう言って僕のカップに注ぐ。




「夢って、将来の夢とか何かか?」




「うーん、将来ってよりも生涯の方がしっくりきますね。とにかく死ぬまでに成し遂げたいっていう、野望みたいなものです」




彼女はまたいつものように笑って、壁に架けられたさっきの額縁を指さしている。「これ」と言って僕の顔を見つめる。




「写真。今度はちゃんと滝の写真を撮りたいんです」




「那智の滝のか?」




「場所はどこでもいいんです。ただ……そうですね、わたしが初めて見て感銘を受けたあの写真のような。見る者に勢いと感動と衝動を与えてくれるような。そんな素晴らしい写真を一枚だけ、生きているうちに撮ってみたいんです」




「撮れるんじゃないのか?前のは天候が良くなかったんだろォ?だったら、次は晴れの日を選んだらいい」




僕がそう言うと、彼女はちょっと困ったような、けれど目は線の微笑んだ状態のままひと間置いて

「それだとちょっと違うんです」

と言う。




「確かに、また今度那智の滝に行けば、青空の下、あの雄大な水のしぶきを写真に収めることはできると思うんです。でもそれじゃダメなんです。わたしがしたいのはそういうのじゃないんです」




彼女は頭をちょっと左に傾けて何か考えている。自分の伝えたいことを頭の中で整理しているのだろうか。二十秒くらいそのまま静止していた。




「虹か?」

「そうそれ!」




彼女が僕の目前に指を突き立てる。口を大きく開けていつもの笑顔に戻っている。




「虹、虹です。この写真にも写っているような綺麗な虹。それが滝と合わさって、見たこともないような色と情景を写す。そんな写真を撮りたいんです」




「それは難しい挑戦だな。天候もそうだけど、虹ってのは光が水にどう屈折するかによって、見え方だったり大きさも変わる。写真にそれを収めるだけでも難しい。もしかしたら今持ってるカメラじゃ撮れないかもしれない」




「はい。それでもいいんです。何年何十年かかっても、わたしは自分の満足する、人に感動を与えられるような一枚を撮りたいんです。いや撮るんです」




彼女は、まるでそれがもう決まっている未来かのように、強く断言する口調で言った。


目が星のように輝いている。僕はまた、語気の強い彼女の新たな一面を見たような気がして、ひとり感動している。




「その写真を撮るのに、人はひとりでいいのか?」




僕は真剣にそう言う。ちょっとキザっぽく言ったから、自分でも変だとは自覚していたけど、その言葉で彼女はまた下唇を噛みしめて、卓袱台のふちの部分に視線を合わせている。




その時初めて彼女は笑わなかった。

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