第十一回

「あの写真、高校生の時に撮ったんです。本当は実家のリビングに飾っておいたんですけど、寂しくないようにってお母さんが持たせてくれたんです」




彼女は壁に架けられた木製の額縁を指さしている。蛍光灯の反射から額縁が光ってよく見えない。足を攣っている演技などもうどうでもよくなった僕は立ち上がって額縁に近づく。




それは空に輝く虹の写真だった。




「よく撮れてるね」




「さっきのお店での話、覚えてますか?」




彼女が僕の顔を覗いている。僕は君をだましたのに、なぜそんなにも純な瞳で見つめるてくるのだろうか。




「滝の話?」




「そうです。那智の滝。わたしが写真部に入ろうと思ったきっかけでもあるその写真を、写真部の部長になった去年の夏休み、思い切って撮ってみようと思いまして、和歌山県まで行ったんです」




「でも、これ滝の写真じゃないだろう?」




「はい。その日は天気予報でも晴れの予想だと言われていたんですけど、わたしが着いた頃にはバケツをひっくり返したみたいに荒れてしまって。どこかのタイミングで止むだろうと、その日はホテルでずっと本を読んでました」




「それで、次の日は晴れたのか?」




「いえ、ダメでした。二日目も天候は変わらず、そのまま三日目の、帰りのバスの時間になったんです。わたしは持ってきたカメラを雨に濡れないようにタオルにくるんで、庇のあるホテル前の木々を撮ろうとしてシャッターを押したんです。そしたら」




「雨が止んだのか?」




彼女は長いこと口を開けている。僕の顔を見つめ、反応を楽しんでいるように目をそらさない。僕はちょっと困惑気味に目を開く。彼女との距離は三十センチくらいだろうか。僕は彼女の顔を見つめたまま、自分の股間が膨張が治まっていることに気がつく。彼女は未だ口を半開きにさせて言葉を貯めている。頬の肉と眉が上がって少し面白い顔になっている。僕はなんだか可笑しくなってきて彼女の顔を見つめながら笑う。その声で彼女も笑う。




「光が」

「光が差し込んだんです。黒くなっていた雲の隙間から。雨は未だに降り続けているのに、遠くの山の裾野から小さく。それを拡大してみたら、光の当たった山の中腹辺りが、ほんのり赤くなっていたんです」




彼女が僕に詰め寄る。興奮気味の口から小さい息が漏れている。僕との距離はさっきよりも近づいている。それなのになぜか、僕は一切下心というものが感じられない、ある種達観した心持で彼女を見つめている。




「それで撮ったのがこの写真か」




「そうです。那智の滝の、あの荒々しくも透き通る水のしぶきを求めてやってきた帰りに、撮れた写真がこれなんです。あの写真のような迫力も雄大さもこの写真にはありませんが、それでも奇跡のような自然の神秘さを。言葉にはできない美しさを見る人に与える一枚になったんじゃないかって、わたしは気にいってるんです」




そう言って、彼女は僕から離れると、また長いこと額縁を見やっている。さっきは爆発したように笑っていたというのに、写真についての説明が終わってからの彼女はどこか整然で、うっとりとした表情をしている。口は閉、目だけ斜め前に架けられた額縁を見つめているのに、鼻だけはまだ興奮しているのか、小さくひくひくと動いている。



僕はその彼女の横顔を眺め。うさぎだ。小学校の頃、体育館横の小屋で飼っていたしろうさぎだ。と、なぜか心の中で呟いている。




彼女が額縁を長いこと見つめていると同じように、僕もまた、彼女の横顔を長いこと見つめている。そうしていると、うさぎだ。と思った心情は遠に過ぎ、今度はフランスかどこかの美術館に展示されているような、中世期の女の横顔のようにも見えてくる。たしかに、彼女は年頃の女と比べると鼻も高いし睫毛もしっかりと立っている。肌はやや小麦色なのだけれど、かえってそれが、長年美術というものに携わってきた巨匠自らの賜物でもあるかのように。また、蛍光灯のつくる陰影が、熱気を帯びたアパート一室に馴染んでいるのである。




僕がそんな考え事をして、視線の彼女がぼやけてしまった頃。もう一度意識して顔を見直してみると、再び彼女が僕を見つめているのである。




けれどそれは、以前のと表情が違う。向かい合って、目を線のように細くさせている彼女でも、悪戯っぽく反応を窺うように、鼻の頭を少し膨らませて目を輝かせているのとも違う、彼女の新しい表情なのである。




彼女は瞼を少しだけ下げている。そして困惑とも安堵ともつかない不思議な表情で、僕を見つめ続けているのである。




僕が「どうしたの?」と口先まで出かかった時、彼女が何かを案ずるみたいに下唇を弱く噛み、ほったらかしにしていた両手をするするっと組んだのである。

彼女はうっすらと頬を火照らせ硬直している。今にも眠ってしまいそうな瞼には、絶えず神秘的な瞳がうごめいている。それはまさしく女性が何かを求め案ずる、媚を含んだ彼女なりのジェスチャーだったのだ。







そんな彼女を目の前にして、僕はもうどうすることだってできたはずであった。もちろん、僕が彼女の部屋に入る前に想像していたことが、その通りに進んでいったと言うわけなのだけれど、なぜだか僕はその時、一種困惑のような心持で、彼女に対してたじろいでしまったのであった。




それは直前まで優勢だった僕を、荒い波が見渡せる絶壁から、あと少しで落ちるという寸前まで追いやられたような。おもちゃのナイフを突き出して脅していたら、相手側が本物の匕首を取り出してきたような。威勢を振るっていた僕の心に、突然彼女の燃え滾る瞳がずぶずぶと押し寄せてきたのだった。





そうなってしまうと、もう僕は自分の内に直接問いかけるしか、方法は無くなってしまうのであった。




僕とて、もう二十歳の大人ではあるものの、男女の真摯な行いについては、手どころか、指一本振れたことは無いのだけれど、(カビゴンやスズキたちには晩生の宗匠と名付けられている)やはりそういうものに関しては、なんとなく躊躇ってしまうというか。




相手との密接な心のつながりがない限り、身体の良し悪しなんて追及すべきではないと思うのだ。




その密接した心の繋がりと言うものが、合致した男女の中で育まれているのかと言われると、大半がNOと答えるだろう。それが当たり前だ。

けれど僕は、まだ未熟で未経験の僕は、少なくとも初めの一回ばかりは、そのような心の繋がりを重視した抱擁の交わりというものを体験してみてもいいのではないかと。信仰とまではいかないものの、やはり深く結ばれたものとしか行えないものとして、自分の内で留めておくべきだと思ってしまったのだ。




だから僕は、彼女のこの突然のアプローチに答えることができず、ただ下唇を強く噛みしめながら、何とか焦点を合わせないようにと、妙に明るい床の木板材を見つめることしかなかできなかったのだ。


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