第十回

八時ごろに店を出、アンズさんと別れる。友達と会う約束をしているから、これで失礼すると言って、僕と連絡先を交換する。




「奏美のこと送ってやってよ。まだここに来て浅いんだから」




「どこなんですか?」




「日ノ出町にJRAあるでしょ?あそこの裏だから、行けばすぐわかるよ」




アンズさんはそう言ってバス停の方へ去っていく。僕たちはそれを、やけに薄暗い街灯の下で見送る。アンズさんが小さく、消えて見えなくなるまで僕たちは無言で突っ立っている。




「帰るか」




「帰りましょう」




「道はわかるのか?」




「この辺に来たことは無いですが、大通りに出ればわかると思います」




「敬語。使わなくていいのに」




「わたしのほうが年が一つ下です。それに、アンズさんと喋っているからなのか、どうしても敬語が出ちゃうんですよ」




「あの人、そんなに礼儀に厳しいのか?」




「夜職は結構厳しいらしいですよ。生半可な気持ちで入って、すぐに辞めていった人を何人も見たって、アンズさんは言ってました」




ドンキを過ぎると横浜駅根岸道路の広い交差点へ出る。渡らずに右へ曲がって長者橋へ行くと、すぐに京急日ノ出町駅へとたどり着く。




「家、ここから近いんですか?」




「歩いて三十分くらいかなぁ。阪東橋駅ってわかる?」




「わからないです。地下鉄ですよね」




「京急で言ったら南太田と黄金町の間らへん。日ノ出町、黄金町、南太田。三駅あるけど、距離はそこまで遠くないんだ」




スクランブル交差点を渡り、ストリップ劇場のある野毛坂の交差点を渡る。小麦色の肌のような太陽が、空の遠くに見える。飲み屋街にはない紊乱さが、野毛の町に現れていく。




ネオンライトの明かりがのぼりを際立たせている。不揃いに明かりのついた赤ちょうちんが街の至る所に吊るされている。まだ夜も更けていないというのに酔っぱらいが肩を支えられている。空き缶で入口のふさがったゴミ箱の隣で男女がタバコを吸っている。




見慣れた光景だと言うのに、なぜかソワソワしている自分がいる。オレンジ色に点滅する広告看板が、彼女の横顔を光らせている。なぜそんなにも平然としているのだろうか。




僕はさっき、焼き肉屋でニンニクダレを注文したことを後悔している。信号が青に変わり「ここからはわかります」と彼女が微笑んで先を行く。弾んだ足取りが、鼓動の高鳴りと合致して景色を歪めさせる。抽象画みたいな僕の目に、振り返った彼女の顔が呆然と浮かぶ。周りの景色がシールのように浮かんでいる。街の喧騒が一斉に消える。




今夜は熱帯夜だというニュースの文言が、どこからか頭に流れる。彼女はJRAを横切って緩い坂を登っていく。道を少し逸れただけなのに街灯の数は減っている。緩勾配の土地にひしめき合っている戸建てが青白く光っている。駅前では聞こえなかったセミの音が徐々にその数を増やしている。




僕は、不慣れな自分を相手に悟られないようにと、あえて胸を張って歩いている。頭の中では何百もの計画が始動している。汗ばんで見える赤毛の彼女がアパートの前で立っている。三階建ての古い賃貸マンションは階段が錆びている。




「今日はありがとうございました。色々な話がたくさん聞けて、とても面白かったです」




笑顔で彼女が言う。深々と下げた一瞬首元から肌が見える。




「僕も楽しかったよ。また時間が合ったら……」




そう口にして僕はうずくまる。顔を伏せて右脛を手で覆うと、顔をしかめて小さく呻き声をあげる。




「足が……足がつった」




彼女が心配そうに僕を見つめている。僕は内心ほくそ笑んでいる。狭い視界から、赤毛の一本一本までもが透き通って見える。香水ではない独特の甘い香りが、僕の顔の周りを浮いている。不思議なことに、罪悪感がこれっぽちもない。彼女の上がり框を上がれば、もうそこは未知の領域なのだから。




彼女の部屋は二階の突き当りにある。扉を開け靴を脱ぎ六畳の居間へ上がる。壁に引っ付くようにしてベッドと鏡。中央に卓袱台、加湿器、化粧等。パステルピンクのカーペットにお菓子が少々。




彼女はカーペットに横になるようにと僕に言って、キッチンからクマの模様があしらわれているマグカップを取り出して、冷蔵庫の冷えたボトルから麦茶を注いでいる。

僕はそれを、何度もお替りする。喉が渇いていたから、さほど苦しくはなかったけど、彼女は僕がカップを置くたびに継ぎ足してきて終わりが見えない。彼女が一息ついて、互いに見つめ合う状況になった時に、僕はアクションを起こそうと思っていたから、真剣な表情で頑なに麦茶を注いでいる彼女を見つめていると、何だか自分の行動が堪らなく恥ずかしく、おかしいもののように思えてきて、僕は静かに笑う。




彼女が不思議そうに僕を見つめる。天井に埋め込まれた電灯で、顔が青白く光っている。




「怖くないの」と僕が聞く。




「なんのこと?」といった表情で尚もぽかんとしている。




僕は天井を見上げて笑う。今度は息をいっぱい吸って、大きく、声を出して笑う。

彼女も笑う。僕の顔を見つめながらいっぱいに笑う。なんだかうれしそうだ。




多分、このとき彼女はわかっていたんだと思う。足を伸ばした時、僕のすねは張っていなかったし、もがき苦しんでいる人は、あんなにも麦茶を飲めないだろう。けれど彼女は、あえて僕の小芝居に付き合ってくれたのだ。




なぜそんなことしてくれたのかは、今でもよくわからないのだけれど、少なくとも彼女は、僕に不信感を抱いていなかったのだと思う。上京してきた人なら、多少なりとも都会の人間というものに、猜疑心を抱いているところもあると思うのだけれど、彼女は僕と出会ってからの数時間で、この男は外づらが好いだけで、女性に対しては晩生で小心で、その上未知なる期待を持っている純真なのだろうと、僅かながらも感じたのであろう。そして側に置いても良い人間として、僕を認めたのだ。




僕は笑っているとき嬉しかった。楽しかった。幸せだった。

上手く言葉にすることができないのだけれど、なぜだか彼女の隣で笑っていることが、堪らなく僕の腐敗した心身を癒やしてくれるような、和やかで安らぎを与えてくれるものと思ったのだ。

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