第九回

「芥川賞を取っている人ですよね。名前だけなら聞いたことあります」




「コンビニ人間ってわかりますか、村田沙耶香の。アレいいですよ。良い意味で純文学っぽくないって言うか……文体もフラットで内容がコミカルなんですよ」




アンズは僕たちの会話に割って入ろうとせず、静かにコーヒーをすすっている。横目で見ても普通の大学生とは思えないその特殊な佇まいは、微かに綻んでいるようにも見える。




「大学に通われてるんですか?」




一息ついたところで僕が質問する。さっきから彼女は柔らかな表情で僕に笑みを向けている。僕はカビゴンにコーヒーと、彼女へのミルクティーを注文する。さっきから喉が渇いて仕方がない。




「関内駅の方に新しくできたK大学の、人間共生学部ってところに通っているんです」




「人間強制?それはまた物騒なことを学ばれているんですねぇ」







僕たちは話す場所を焼き肉屋に変える。夕食を取っていない二人のために個室で趣のあるいい場所があるからと、僕はこの後の予定がない二人に告げる。




〈LAPA〉のある本通りから二つほど逸れた道角に、ひっそりとした個人経営の焼き肉屋があって、僕は中学校の頃からよくカビゴンたちと来ていたこともあり、僕が携帯で連絡をすると、主人は快く個室の席へと案内してくれる。




向かい合った二列のソファに僕が座る。僕とは反対の方にアンズさん、赤毛の彼女と続く。




「店の人と友達なの?」




アンズさんがメンソールに火をつける。アンズさんはヘビースモーカーだから、そこら辺の融通が利く店を選んだのは正解だったようだ。昔は作りながら吸っていたという店主も、法改正と共に吸わなくなったと言う。カビゴンやスズキは中学時代から吸っている。僕は滅多に吸わない。




「スズキの親戚なんですよ。昔っから横浜で料理屋を営んでいて、高層ビルが建つから前の店を降ろさなきゃいけないって時に、カビゴンの親父さんから土地を紹介してもらって。それで僕たち仲良くなったんです」




「ひでお君のお父さん、そんなにすごい人なの?」




「運輸業をやっているんです。それも、物流業界ではかなり有名なところで、財政界とも関りは深いってアイツは言ってましたよ」




「ふーん。だから修馬君とも仲が良いのか」




リー先輩の下の名前は修馬である。李修馬。中学の時から素行の悪さが有名で、僕たちが中学校に入学した時、三学年だった。毎日殴り込みに行っていたらしく、学校では姿を見たことがなかった。




「ねぇ奏美。アンタ中学の時何してたぁ?」




肉が運ばれてきて、一枚一枚をトングで摘まみながら焼き加減を窺うというのは焼肉の醍醐味なのだけれど、何せ僕は女性と、しかも歳の近い今風の子と、個室で焼き肉などしたことがなかったから、勝手に奉行を申し出るという、自分勝手も甚だしいという行為を最中に自覚しながらも、突然彼女らに委ねるというのもなんだか変な感じがして、坦々と僕はトングの端に意識を集中させる。(お金も僕が払うことになっているのだから、これくらいは許してくれよ)




「わたし、写真部だったんです。しかも部長」




張り詰まった空気を一掃しようとしたのか、アンズさんは彼女に話を振る。彼女は物静かな雰囲気を改めも乱しもせず、やや年頃の女よりも甲高いゆったりとした発音で自分の話を始める。




良い声だ、と僕は思う。カビゴンやスズキ、それにアンズさんも、言葉を並べるときに子音が次の語句と繋がって、流れるように言葉を連ねていくのだけれど、彼女は言葉の一語一語に点があるような。独特のリズムを彼女なりに工夫しながら発しているのである。




「中学に入る前までは、写真なんて特に気にも留めていなかったんですけど、部活動紹介で教室に入った時、すごく綺麗な滝の写真が飾ってあって、それに一目ぼれしたんです」




「滝?そんなにすごいの?」




アンズさんの言葉で、彼女は携帯のフォルダから一枚の写真を見せる。携帯はアイフォンの最新型である。




岩肌に白い水しぶきが立っている。中央には崖。周りは枝葉で鬱蒼としている。崖は何メートルだろうか、写真の端まで続いていて滝口がわからない。白としか表現できない勢いが、周りの岩屋に纏わりついた苔や木々を青くしている。




それは、高い塀の中で過ごしてきた囚人が、何とか希望を捨てずに懇願した想いが、天人の心に届いた如く、空から真っ白な糸が太く垂れ下がっているような神秘さを見る者に与える写真だった。




「うわぁ。キレイね」




「和歌山県の那智の滝っていう場所なんです。ここと栃木の華厳の滝と、茨城の袋田の滝を合わせて、日本三名瀑って呼ぶんです」




「よく撮れてるなぁ。プロのカメラマンみたい」




僕は焼けた肉を彼女らの皿に置きながらそう言う。滝壺は飛沫で真っ白だが、岩壁に沿って流れ落ちる滝の中腹に、うっすら虹が出ている。




「わたし、この写真を見た時に、『奇跡』って言葉が頭に浮かんだんです。こんなに臨場感溢れる瀑布現わせるのは奇跡なんだって。このひっそりとした、人の手が一切加えられていない山奥に、希望の光みたいに輝いた水が自然のままに流れている。しかも、水と光の絶妙な組み合わせで起こる虹も、この写真にはしっかりと捉えているんです。この写真は奇跡。奇跡なんですよぉ」




零れんばかりに目を開けて、うっすらと頬を染めている彼女の口ぶりは饒舌で、伝えたいことの半分も言えていないのだが、このまま自分が語りつくすと、よからぬ空気になってしまうのではないかという不穏さも伏せ持っている。そんな彼女を横目見ながら、僕は失敗して反面が焦げた焼き肉を頬張る。




「まさか奏美が写真部だったとはねぇ。あたしにはそんなこと一度も言わなかったのに」




「入居する時のあいさつで言いましたよぉ」




「嘘。奏美、群馬県の女子高出身で、不束者ですがよろしくお願いしますって。それしか言わなかったじゃない」




「あの時は緊張してて……でも、二人で食事した時わたし言いましたよ。アンズさん、酔っぱらって相槌しか打っていませんでしたけど」




二人は楽しそうに言い合っている。僕は静かにそれを見ている。何だか姉妹のようだ。僕が「お隣さんなんですか」と尋ねると、「そんなんじゃなくて、相談相手みたいなものよ」と言ってアンズさんは微笑んでいる。

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