第八回
注文を聞いたカビゴンが厨房に戻る。僕は席から立ち上がり厨房の中へ入ると、カビゴンの背中をつついた。厨房には顔見知りの従業員が二人いて、僕が入ってきてもお構いなしに皿を洗っている。
「さっきの人たち、お前の知り合いなのか?」
カビゴンは不思議そうに僕を見つめている。ガスコンロにスープの入った鍋が置かれていて、食物の甘い香りが僕の鼻をつつく。
「二週間前に飲み屋で会ったんだよ。リーさんの同級生だから、俺たちと同中。大学生だけど西口のキャバクラで働いてるんだってさ。それでその時の飲みがちょっと盛り上がったから、この辺で働いてるんですよって言ったんだ。そしたらなんの連絡もなしにいきなり現れたんだ」
「もうひとりの方も飲み屋にいたのか?」
「さぁ?アンズさんの友達なんじゃない?あぁ。桃日奈アンズって言うのがあの人の源氏名なんだ。本名は河口涼子って言うんだけど、仕事上本名は言えないから、外ではアンズって名前でやってるんだ」
カビゴンはレードルでスープをかき混ぜている。何のスープか尋ねると、わからないが取り合えず出汁を取っているのだと曖昧に答える。
僕はさきほどの髪の長い女を思い浮かべる。あの化粧の濃い高飛車そうな女はやはり夜職のものだったのかと。それならば、同席しているあの赤毛の女も、それなりの趣味趣向を持っているのではないだろうか。類は友を呼ぶと言われているのだから。
僕は赤毛の女と話してみたくなって、カビゴンにいつもの、自信ありげで人を嘲る笑みを浮かべると、「ひと芝居うってくれないか」と頼む。
僕は鼻息を荒く立てながら席へ戻る。向かいの彼女たちはまた何か話している。楽しそうだ。
カビゴンがコーヒーとサンドイッチを運んできて、彼女たちの机に置く。
「あそこにいる彼、僕の幼馴染なんですよ。なしごって言うんですけど、S大学のバレー部でキャプテンをやってるんです」
僕は照れ臭そうに笑いながら彼女たちを見る。「へぇーすごいねぇ」と髪の長いアンズが呟く。赤毛の方は僕から目線を逸らす。
もちろん、僕がS大生だとか、バレー部のキャプテンをしているだとかはデタラメなのだけれど(僕の少ない経験と小さな脳みそからはこんな味気ない策しか浮かんでこなかった)、それでもカビゴンの話で多少なりとも僕に興味を持ってくれたのか、アンズは僕に色々と質問をしてきた。リーさんの知り合いなのか。カビゴンとはどういった間柄なのか。大学生活は楽しいか。そして、今現在、僕が何を取り組んでいるのかと言う話題になる。
赤毛の彼女は愛想笑いをして相槌を打っているだけだった。笑うと八重歯のさきが上唇から飛び出して、肩を小さく震わせるようにするから、ミディアムの髪が肩の上で揺れ、照明に当たったキューティクルが左右に光っている。
「実は今、小説を書いているんです。舞台はここ横浜で、過去からやってきた未来人の女子高校生と、冴えない就活中の大学生が恋に落ちるって言う、ロマンス小説を書いているんですよぉ」
僕はいかにも自信ありげに、そして数々の賞を受賞してきた文壇の大御所のように腕を組みながら、書きもしない小説のあらすじをペラペラと喋る。
相手は女子なのだから、男女の恋模様を描くラノベ的なロマンス小説を書いていると言えば、向こうは食いついてくるに違いないと、これまた自分の浅はかさを露呈してしまっていることに気が付いていない僕は、向かいに座る赤毛の彼女と目が合う。
瞳が僕を見つめている。茶色の瞳だ。僕はおめかしをする女性のほとんどが、カラーコンタクトを着けていることなどまるで知らなかったから、こんな淡い輝きを放つ女性がこの世に存在するのかと、感心と驚嘆が合わさった心持で放心している。
「小説、好きなんですか?」
彼女が口を開く。ピンク色の花弁がコーヒーで濡れている。
「そうですね。小説は書く時に使うので、参考程度には読みますが、僕は専ら漫画とか映画とか。それに小説って言っても書き方を学べる教養本みたいな。まあとにかく好きって言うほどでもないんです」
僕は声を出さずに笑った。いま時本なんて誰が読むのだろう。アニメや漫画など、日本の市場を超えて世界規模で成長し続けている産業もあると言うのに。そして、それらが面白いということはわかりきっているはずであろう。それならばいったい誰が、純文学と言う普遍のテーマを求めて本を読むと言うのだろうか。僕は微笑みながら彼女を見やる。
「わたし、結構本読むんですよ」
彼女自らが発した言葉は、僕の中耳に鋭い大太刀を突き刺した。たちまち脳天を破り目の前が暗くなる。何かが大きくはじけているような、けれど決して悪くない、温く穏やかな気持ちが胸に込み上げてくる。
「ほん……」
僕は言葉が詰まる。きょとんと眼を置いた彼女の顔が見える。
「本、どんな本を読むんですか」
僕はたどたどしくそう言う。自分でも怖いくらい素直な気持ちが襲う。
「伊坂幸太郎。それに宮部みゆきなんかも読みます。最近は重松清とか、原田マハとか……」
「伊坂幸太郎。僕も読みましたよ。ゴールデンスランバーとか」
「そうですそうです。それに重力ピエロとか陽気なギャングは地球をまわすとか」
「よく知ってますねぇ。あれは初期の作品で映画化もされたんじゃなかったっけ」
「はい。映画も大好きなんです」
彼女は嬉しそうに笑う。僕は頭からうずうずと流れる言葉の数々を対処しきれないままぐちゃぐちゃに、けれど彼女の目を見てはっきりと、自分の読んでいる作品や好きなジャンルなどを赤裸々に話す。
いま時純文学なんて、と思われるかもしれないが、僕はそれでも彼女になら、少なからず理解してくれるのではないかと期待も込めて、村上春樹や大江健三郎などの著名人、それに宮本輝や石原慎太郎といった古風な名を上げて、彼女の様子を窺う。
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