第七回

僕の近くに座っていた客がひとり店を出ていく。まずいことを聞かれたなとカビゴンに目配せするが、彼はそれに気が付いていないのか、メニュー表を弄びながらブツブツと何かを呟いている。




「おい、俺はもう注文をしたんだ。早く厨房に行って飯を作ってくれよ」




僕が急かすようにそう言うと、カビゴンは物思いにふけっているような深刻な顔を改め、僕の顔をじっと見つめる。




「なんだよ。顔に変なモノでもついてるのかぁ?」




「いいや、ちょっとな……」




カビゴンはそう言い残して厨房へ行ってしまう。なんなんだアイツは。長年のよしみなのに、秘密事も碌に話せないのか。僕はカビゴンのデカい背中を睨む。黒い割烹着のような衣装ははち切れそうな具合だ。







僕が上手くも不味くもないボロネーゼを食べていると、外から嬌声が聞こえる。




こんな時間に、若い女が訪れるのは珍しいなと、僕は皿に残ったミンチ肉をフォークに集めながらドアの方へ眼をやる。




女ふたりが店へ入ってくる。ドアを引いて先頭に立つのはパーマのかかった髪の長い女。化粧はさほど濃くはないが、童顔の一重は深紅色の口紅を歳以上に映えさせる。全身を白に統一させた着こなしは、メロウデザインのアイヴォリートップス。

透明感のあるキャミソールワンピースに、これまたシアーの、薄手の乳白色を羽織っている。




その女の後ろから現れたのが、これまた歳幅のわからない不思議な女で、ショート丈の白いTシャツにパステルグリーンのカーゴパンツ。トップスが短いから、インナーの鼠色のタンクトップがはみ出ている。ミディアムヘアーの茶髪は肩の上で揺れている。




先頭の髪の長い女が店内を見渡す。どこの席も空いているのに、僕の隣のテーブル席に腰掛ける。髪の長い方がクッションで、短い方がひじ掛け椅子だ。

僕は妙に緊張して下を向く。店内は僕と彼女たちと、カウンターに座っているおじさんだけなので、店内はカジュアルなBGMだけが流れている。




髪の長い方が何か話している。僕との距離は二メートルくらいだから、嫌でも内容が耳に入る。こういうのは聞かない方がいいだろうと、僕は残ったミルクティーをストローで吸い込む。久しぶりにゆっくり読書でもしようかと思ったが、こうなってしまうと話は別だ。




髪の長い女が「すいません」と声をかける。厨房からカビゴンがやってきて、僕にちらりと目線を送ると、すぐに彼女たちの卓へいく。




「あっ」っと女の声。




すぐに「お久しぶりです」とカビゴンが言葉を続ける。




「へぇー。近くで働いてるって言ってたけど、こんな秘密基地みたいな場所だったんだぁ」




「そうなんですよ。中学の先輩が経営してて、その繋がりで」




「あの子はいないの?なんだっけ。眼鏡のこ」




「スズキですね。アイツは前に一度入れたんですけど、無断欠席が多いってことで店長からクビにされたんです」




女とカビゴンは笑っている。僕は椅子に座るもう一人を見つめる。





“ プリンセスだ! ”




僕は衝撃的なものでも見たように、首を前に出し、目を大きく開け、口を半開きにさせて彼女を見つめる。




一心にメニュー表を眺めている。天井のオレンジの照明が頬を照らす。可憐だ。それは先ほど店入った時とまるで別人な、光の加減で幾多も表情を変えているように思える。







あれは確か、高校三年生の時だっただろうか。スズキと映画を見に行くために、混み合った桜木町の駅前を通った時のことだ。




僕は滅多に映画なんて見ないから、スズキが見たいと言っていた特撮のシリーズものなんかまるでわからないし、スズキもスズキで運良くシネマの無料券が二枚当たったから、たまには付き合えよと言って、僕は半ば強制的に彼と映画を見に行くことになったのだ。




僕がエスカレータの列を並んでいる時、支柱に映し出された電光板が目に入る。




それは映画のポスターだった。僕はその前で足を止め、呆然とした面持ちでそれを眺める。




中央にデカいトナカイがいる。その頭の上に、雪だるまをモチーフにしたキャラクターが立っている。




トナカイの左隣りには、寄りかかるようにして腕を組んでいる男がいる。その奥に、水色のドレスを着た肌の白いブロンドの女が立っている。




「スズキ」




僕はスズキを呼び止めた。駅前は混雑しているから、僕はその時かなり大きな声を出したと思う。何事かと言った表情でスズキが振り向く。




「これって、今から見れるのか?」




「ああ、アナ雪ね。どうかなぁ、人気だからもう埋まっちゃったかもしれない」




「そっか」




僕は腕を組んでその場に佇んでいる。その光景を異様に思ったのか、スズキが小賢しい笑みを向けて「興味があるのか」と聞く。




「俺、こういうの見たことないんだ。子供向けの映画」




「おいおい、どんな幼少期を過ごしてきたんだよ」




スズキは笑いながら携帯を出す。予約状況を調べるからと言って僕の隣に近づく。




「アニメは沢山見たよ。ジブリとかミッキーとか。でもこういうのって女の子が見るもんだろ?俺は男家族だから、ディズニーでもこういうのは見てないんだよ」




「それじゃあ見てみるか?アナ雪」




僕はスズキの顔を覗く。「いいのか」と尋ねて返答を待つ。




「いいよ。面白いって評判だから俺も見たかったんだ」




スズキは眼鏡をずりあげると、十六時からの上映なら席は空いていると僕に言う。

「ありがとう」と彼に言って、僕は列へ戻る。





「あのポスター。そんなに良かったか?」




「うん?」




「ずいぶん長いこと見入ってたから。もしかしたら何か気になったのかって思って」




「あぁ、ちょっとね」




映画館の受付で僕たちはアナ雪のチラシを受け取る。僕はポスターと同じものが描かれたチラシを指さして


「この子はなんて名前なんだ」


とスズキに聞く。




「その子が主人公のアナだ。それで左側にいるのが姉のエルサ。雪だるまがオラフ」




「この子たち姉妹なのか?あんまり似てないけど」




「姉のエルサは雪の国の王女で、生まれつき魔法を持っているんだ。だから容姿も雪っぽくて白い。髪もアナは赤毛だけど、エルサは薄いブロンドなんだ」




僕はまた長いことチラシを眺めていた。雪の国の王女エルサと、その妹のアナ。

アナは赤毛で三つ編みをしている。姉のエルサはドレスっぽい服を着ているのに、妹のアナは北欧の民族服のような、鮮やかな刺繍が装飾されている服の上に、パープルのマントをなびかせている。





開場して席に座ると、僕は春だと言うのにものすごく汗をかいていたのだとわかる。額はべっとりと、そして脇からも大量に汗が流れている。




それから映画が終わるまで、僕はひたすら妹のアナを眺めていた。内容的にはエルサが主軸と言ってもいいくらいだったが、僕は自然とフィルムに映るアナを目で追っているのだ。




あの恍惚としたものが、果たして僕自身の秘められたものなのか。はたまた偶然そうなってしまったものなのか。当時の僕にはまるで見当もつかなかったが、いま斜め前に座り、一心にメニュー表を見やっている赤毛の女が、あの時の心の高まりを伴って僕に訪れているということは、紛れもない事実なのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る