第六回

ナツ。ゆるやかに昇った太陽の先端が、入道雲のてっぺんを通る夏。




ナツ。鉄板のように熱いアスファルトの割れ目から、青いネコジャラシが飛び出ている夏。




日差しが。僕のこの、どうしようもない鬱屈とした気分をさらに深くえぐるように。

また、上を見上げればどこまでも寂寥な青が続くばかり。







僕はつい二日前に夢を見た。カビゴンが大きな真鯛を頬張っている。まだ息の根を止めていない新鮮な真鯛。彼は両手で頭と尾を掴み、これでもかと口を開けて前歯を入れる。




鱗がひかっている。あれは何といえばいいのだろうか。真珠色。白に赤や青の光沢が混じっている。虹色に似た、神秘的な自然の輝き。生き物の色。生きているという色。




身に、カビゴンの歯が入る。鯛は、動きを止める。



小さな穴から汁が出ている。青くて生臭いヘドのような塊。藍色で水っぽい汁が彼の口から溢れ出る。



鯛は、くだものだ。しっかりとした身は水分で、生き物だというのに血が出ない。


頬張ればその分だけ、青々とした水分が口中に広がる。



カビゴンはいつまでも鯛を食んでいる。なかなか噛み切ることができずに困惑している。何度も前歯をグシシと鳴らしても、鯛は青い液体を流すばかりで、一向に千切れない。


それは無限に湧いてくる水源のように。どこまでも伸び続けるビニールゴムの、赤いヨーヨー風船だ。



ヨーヨーは膨れ上がる。赤い球がカビゴンを飲み込む。膨れ上がった赤玉が宙に浮く。



そのまま空の彼方の、厚い入道雲が犇めきあう遠くへ消えていく。

さようならカビゴン。僕は空を見上げてそう呟く。







鳴り響く運輸トラックのクラクションで僕は目を覚ます。長いこと交差点に佇んで、意味のない空想を膨らませていたから、熱い日差しが直接当たった頭髪は、燃えるような熱気を放っている。




僕はゆっくりと横断歩道を渡る。これから何をしようか。家に帰って仮眠をとるか、締め切りまで一か月近くある原稿の校正をしようか。もしくは先週買ったばかりの、岩波文庫の新刊をじっくり読んでみるのもいいだろう。




そうやってあれこれ考えていると、僕は橋の真ん中まで来ている。




大岡川だ。僕は橋の欄干に手を置いて、ランドマークタワーが聳える東側の河川を眺める。




南区と中区を繋ぐように、緩やかに流れる大岡川。




遅い流れが目視でわかる小さい波浪が、たくさんのビー玉を敷き詰めたみたいに光っている。




都会を流れる川だから、凝視すると底にはどす黒い屑があり、それを隠すようにして、何棟もの高層ビルが川面には反射している。




向こうから水上ボートがやってくる。まだ営業時間ではないから、ボートには船頭と操縦士の二人だけで、欄干に肘を置いている僕に気が付くと、ニコニコと笑いながら手を振ってくる。




銀歯が光っている。白髪交じりの頭髪が風に揺れ、メガネのふちが逆光でピンク色になっている。




トンボが並走している。僕の立つ橋を通り過ぎていくと、ボートは速度を速めて消えていく。




いつだったか。僕はあのボートに乗ろうと女を誘ったことがある。あれは中学生の頃だったか、それとも高校生の時だったのか。もしかすると、つい先月だったかもしれない。




けれど誘った記憶だけがあるだけで、僕はこのボートに一度も乗ったことがない。火曜日を除くほぼ毎日を、このボートは休まず走っているというのに、何度も目にしてきた僕は一度たりとも搭乗したことがないのだ。




それはなぜなのだろう。僕は不思議に思って欄干から手を離すと、青々とした桜並木の続くロータリーを歩いた。







六月の初旬、僕はカビゴンの働く〈LAPA〉へ行った。




その日の〈LAPA〉は珍しく人が少なかった。平日の夕方ということもあって、テーブル席にカップルが二人。カウンターにサラリーマン風の青年が一人座っているだけで、梅雨の湿っぽい空気が、地下一階にある店先を澱ませていた。




僕は店に入る。カウンター越しに厨房を見やり、カビゴンに軽く手を振る。人が少ないから、彼は厨房から出て僕の席へやってくる。




「珍しいなぁ。大学は終わったのか?」




「三限がリモートだったんだよ。それも出席だけすればいいラクタン」




「そうかぁ。まだリモートなのかぁ。客足が伸びないのも頷けるな」




僕は雨が止む深夜には客が戻るだろうとカビゴンに言って、ボロネーゼを注文した。




「おい、そんな手間のかかるやつじゃなくて、バゲットとかそっち系を注文してくれよ」




「悪いなぁ。俺は雨の日はパスタを食うって決めてんだ。リー先輩から教わらなかったか?」




「リーさん、最近来てないんだよ」




「アッチの方に行ってるのか?」




僕は頬に指で線を描いた。人が少ないとはいえ、店の中で白我組の名前を出すことはできない。




「横浜のハングレが暴動を起こしてる。最初は西口のビブレ界隈の辺りだったけど、最近は戸部にも足を運んでるみたいで、衝突させたらまずいんだ」




「中華か?」




「メンバーの大半がそうみたいだ。十代後半から二十代の日系中国人の二世と在日中国人。ほとんどが日本語を話すから顔で判断ができない。アイツら、それをいいことに方々で騒いでやがるんだ」




横浜では、以前から在日中国人との間で抗争が行われていた。開港の歴史を持つ横浜では、古くから外国籍の人間が多く居住していて、中華街の近い中区や南区などは、小規模なチャイナタウンが至る所に見られる。




そのような人たちの中には、長年日本に住んでいるものの、歴史や偏見から根拠のない悪評を吹聴され、幼少期から不条理な差別を受けてきたという人も少なくはない。そんな中国をルーツに持つ人々が団結して、初めはいたずらに毛が生えたようなものだったものが、次第に数を増やし、警察も手に負えない暴動に発展したことが何度があった。




けれどそれは、中国側の長と、横浜を牛耳っている白我組会長真方吉平との談議で事なきを得たのだ。




「ラーメン屋の大規模暴動が五年前だから、今の連中は昔の主犯だったやつらを崇めるようにして、コソコソと勢力を広げてるんだ。去年入管で中国人が一人死んだだろぉ?あれが今まで眠っていた残党を蘇らせたんだ」

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