第五回
「好きな人いるんでしょ」
「あたり。どうしてわかったの?」
カレンはその問いには答えず胸ばかり執拗に拭いていた。僕がしゃぶった乳房の先がほんのりと赤くなっていた。
「顔でわかる。わたしと相手した人、みんなチーターみたいに目光らせて、殴ったり罵倒したり。まあとにかく好き勝手するのよ。でもなしご君、おっぱいしゃぶってる時すごく不安そうな顔してたから」
「悪いな」
僕はなんとなく気まずくてカレンの目を見れなかった。彼女は何を考えているのだろう。早々と着替えてトイレから出て行ってしまえばいいのに、彼女はもう汗も涎もついていない乳房を何度もこすっている。
「あのね……気を悪くしないでほしいんだけどね……わたしお父さんがいないの。ひでお君たちから聞いたかもしれないけど、お母さん彼氏作っちゃって。一応籍は入れたけど、わたしは認めてない。嶋田なんて変な名字もほんとは大嫌い」
なんとか話を続けようとするカレンの目は不安定で、さきほどの淫靡な姿はなかった。
「家にお金なんて残ってないから、わたしこうやってお金稼ぐことしかできないの。頭悪いからさ。でも絵だけはずっと描いていたい。高校も美術系のとこ行ったし、専門学校だってそのために……」
「俺に同情を買えってわけかよ」
僕はカレンの目を見てそう言った。その声がちょっと怒鳴り気味だったから、小さい男子トイレいっぱいに響いて、その時ようやくカレンも僕も冷静さを取り戻したから、早々と服を着替えて外へ出た。
すき家からちょっと離れた高架下に薄暗い公園がある。阪東橋公園だ。
僕たちは高速道路で日の当たらない砂利広場から少し外れた、国道沿いの木製ベンチに腰掛けて、ラジオ体操の準備を始めている幾人かの大人を眺めていた。
僕とカレンとの間には人ひとり入れるくらいスペースがあって、僕が膝に腕をついて前のめりになりながら老人たちを見やっている一方で、カレンはイスに深く座り、背を伸ばして姿勢を崩さなかった。
向こうから子供が走ってきた。まだ幼稚園に入る前の未就園児だろうか。白い服に音の鳴るズックを履いている。
彼は僕たちの座るベンチから三メートルくらいのところで立ち止まる。それから顔をゆっくりと上げ、眩しいくらい崇高な笑みを僕たちに向ける。
上ってきた太陽が彼の顔を照らす。うっすらと汗ばんでいるのが感じられる白くて丸っこい顔に、生えかけの新鮮な髪。横にある花壇に植えられたヒマワリが彼の背より伸びている。直立する細い茎の硬毛までもが光輝いて見える。つぼみを囲む黄色の花弁がほろほろと揺れると、僕の耳にけたたましいセミの鳴き声がやってくる。
隣りに顔を向けると、カレンが彼に微笑んでいた。「どうしたの?」「なにをしているの?」とでも言いたげな表情で、母性ある視線を彼に注いでいる。
後ろから母親と思しき女性がやってきて、僕たちに深々と礼をすると、彼を連れて遊具の方へと歩いていく。僕は彼の後姿を眺めたまま、遊具の奥に生い茂る幾本ものヒマワリに焦点が合わさっていく。
「かわいいね」
カレンがぽつりと言った。
「あの年くらいの子供なら俺も好きだな。可愛いし、無邪気だし。ずっとあの年のままでいてくれればいいなぁって思う。可愛い子は目に入れても痛くないって言うけど、あれは本当だな」
僕がちょっと理屈っぽい言い方をしたからか、カレンは声を出して笑うと
「こども、好きじゃないの?」
と聞いた。
「あんまり。近所に小学生の兄弟がいる家があるんだけど、八時から喧嘩を始めるんだ。どっちも男の子で、まだ声変わりしていないキンキンした金切り声で言い争っているから、イヤホンなんかしてても頭に直接入ってきて、もう大変なんだよ」
「そのくらいの年齢で、しかも兄弟がいるっていうのなら仕方ないよねェ」
ラジオ体操が始まった。老若男女二十人が広場に集まっている。
先頭に置かれたラジカセから音楽が流れると、各々が自由に身体を動かす。
ハンチング帽を被った老人に、タンクトップ姿の大学生。近所に住む夏休みの小学生に、パジャマ姿の若い女の子。家族連れ。カップル。夫婦。老人が沢山。
世代の異なる様々な人たちが、音楽にのせて自由に身体を動かしている。
「一緒に踊れば?」
僕がそう言うと、彼女は苦笑して首を横に振る。ちょっぴり恥ずかしそうな顔つきで僕を見つめると
「やっぱり、ダメ?」
と聞いた。
「うん。ダメ」
「そっか」
カレンはその言葉で諦めがついたのか、腕を大きく伸ばしてあくびした。
腕を垂直にして背中を反らしている。白いトップスの胸部が隆起している。僕は吸い込まれるように視線をそこへ向ける。
カレンの豊かな胸をしばらく見つめる。
そうしていると、さっきまでトイレで行っていた淫靡で秘密めいた出来事が、次第に僕の頭から爪先までの地を巡らせる。
彼女はわざとそうしているのか、しばらく伸びの姿勢を崩さずに斜め上を向いて、目玉だけキョロキョロと動かしている。
「どう。満足した?」
「あぁ。もう十分だよ」
そう言って僕は笑った。カレンはようやくほうれい線を浮かべた。
これからバイトに行かなければならないから先に失礼すると言って、カレンは携帯を僕に見せた。
「電話番号。何かあったら連絡して」
「多分、俺はもう君を呼ばないと思うよ」
「なによ。さっきは子犬みたいにおっぱいしゃぶってたくせに」
僕は半ば強制的にカレンの携帯番号を登録させられる。二人ともラインをやってたけど、こういうのは取り消し可能な電話番号の方が都合がいい。僕は渋々ガラケーを受け取ると、黄金町駅の方へ去っていくカレンに手を振った。
「安くするから」
横断歩道を渡ったカレンのその声を、通勤ラッシュに入る国道のにぎやかな喧噪が掻き消していった。
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