第三回

外から犬の鳴き声がした。もうすぐ夜が明ける。隣の新聞配達店のオートバイに、しゃがみこんで手入れをしている店主の姿が窓に映る。



店内の音が止んだ。店に流れる爽快なBGMは二十四時間立つと自然に止まるようになっているため、店員がスイッチを押さなければならないのだが、厨房に姿を現さないアルバイトの青年は眠っているのか、物音一つしなかった。



静かだ。



店内にいるのは僕たちだけだから、締め切った店の中に流れるのはタバコの煙だけで、住宅地の僅かな喧噪が、朝焼けの光と風と共に窓ガラスをうつ。



静謐な店内に眠気と倦怠が訪れては、それが心地よいシンフォニーとなって僕の喉にコーヒーが流れると、たちまち血管を開くような快感が体内に巡りはじめ、脳に届いたころにはBGMが始まっている。



カフェインの力を思い知る。一杯で漲らせてくれるものはこれしかない。あとはバイアグラくらいか。



そういえば、しばらく自分のモノを慰めていない。最近はツカサとつるんでいたからか、女を見ても、うんともすんともならない。まったく、美術大学ってのは女体に興奮しないのか。あんなにも間近で性器を眺めることができるのに、己のソレがまったく機能しないと言うのはおかしな話だ。まぁもっとも、アイツに付き合わされた僕ももう見飽きてしまったのだから、芸術家の端くれの先っぽくらいにはなれたのだろう。



二人は眠っている。窓から差し込む朝日をキレイに顔に当て、カビゴンは大、スズキは小の口で寝息を立てている。普段はケチで横柄な二人でも、無防備な寝顔はかわいらしい。



控室に入っていたアルバイトが出てきた。おはよう。不機嫌な顔つきで僕と目が合うと、茶色と黒が入り混じった頭髪の寝ぐせを直し始める。きみはあと十五分でシフトを終えるから、なんとなくソワソワした心持で配膳卓を拭いている。




五時になれば店を出ないといけない。以前もこのような事があった。あれはたしかスズキがコンサートの帰りだからって、無理やり僕たちを連れてきた時のことだ。横浜アリーナで行われたアイドルコンサート。最終日だからって張り切っていたスズキはペンライトを持って騒いでいた。カビゴンは意外にも熱心な顔つきで動画を見やり、卓上にはタバコの空き箱の山ができていた。




店員はさっきの若い男の人だったから、この店は深夜一人で回しているのだろうと、僕たちは何も言ってこない店員をいいことに、朝まで飲み食い騒ぎ続け、夜が明けて彼がいなくなった後の惨状を目にした社員の一人が、何事かと言った形相で僕たちのもとへやってきた。



その時、僕は半分まどろんでいて、机に涎を垂らしながら突っ伏していたもんだから、社員に背中を叩かれ、目を開けた時に鬼のような剣幕で「お客様」と半分怒号のように言った中年女店員の、通りの良いハキハキとした声を聞いていることしかできなかった。



カビゴンとスズキは先に逃げたようで、幸い僕も出禁にならずに済んだが、アカエイのように平べったい顔をして怒鳴りつけてくる従業員と鉢合わせになるのは勘弁願いたい。そのため夜勤の青年の交代時間である朝の五時になれば、僕たちは自然とこの店から出なければならないのだ。スズキはともかく、カビゴンは方々で顔が知れ渡っているから猶更だ。







自動ドアが開く。誰かが店に入ってきた。

クリーム色のブーティーに、足を隠すように靡く黒のジャンスカ。

白色のトップスは首から袖にかけてシースルーで、手に持つ革のバッグは高そうだ。



「となり、座っていい?」



「いいよ」



僕はすぐにそいつが嶋田加恋だとわかった。カレンはのろのろと僕たちの卓へと近づいて、未だ突っ伏しているスズキとカビゴンには一瞥もせずに、僕の隣の椅子を引いた。



「鈴木君からねェ、連絡があったのォ。いますき家にいるからこないかって」



バッグを机に置いたカレンは僕の方に身体を向け、ジロジロと僕を見つめている。



「カビゴンと仲がいいんだな」



「最近はね。わたしだって、つい二週間前に会ったばっかりなんだからァ」



前髪が綺麗に斜めに揃っている。短い茶髪のキューティクルは朝日で光っている。



「いま、大学生なんだろ。どこに通ってるんだ」



「ううん大学じゃなくて専門。東京にあるイラストの」



「絵描いてるの?」



「うんそうだよ」



カレンはバッグから携帯を取り出す。長方形のシルバーの携帯。



「スマホにしてるんだ」



「うん。みんながそうしてるから」



「俺のは未だにこれだ」



僕はポケットから携帯を取り出す。黒いパカパカ。ガラケーだ。



「うわァ、すごーい。まだ持ってる人いたんだァ」



カレンは僕の持った携帯を触る。長くて細い指の先の、桃色のマニキュアが光っている。



「中学の時から買い替えていないんだ」



「スマホ、欲しくないの?」



「あったら嬉しいけど、なくても困らないっていうか……ほら、ラインなんかはガラケーでもできるし」



僕は「かして」とカレンに言って携帯を取り戻すと、左手でカチャカチャと操作し、ラインの画面を見せる。



「すごーい。小さいのによく使えるね」



「慣れればどうってことないよ。もう五年も使ってるんだから」



カレンは「ふーん」といった表情で携帯を見続ける。僕はなぜだか手汗が出てきてズボンの裾でそれをふく。



「これがわたしが描いた絵。高校の時の」



カレンは僕の携帯返すと、スマホの画面を突き付ける。



画面いっぱいに色とりどりの花びらが現れる。中央には裸の女が立っている。



「緻密だなぁ。それに色も工夫されてる。どうやって描いたんだ?」



僕がそう聞くと、カレンは「なんだか先生に見せてるみたい」と言って笑った。



「これはデジタルイラストってやつで、ペンタブで描いてるの」



「ペンタブ?」



「えぇっとねェ、タブレットがここにあってェ……こうやって絵をかいたら、それがデジタルになってパソコンに映し出される。だからマウスとか使わなくても絵が描けるの」



カレンは筆を持つ仕草をする。手を動かしているのに、身体は未だ僕の方に向いていて、じっと瞳を見続けている。



「なんで絵なんか描こうと思ったんだ?小学校の頃はそんなイメージなかったけど」




「それはなしご君が知らないだけで、女子って結構絵描くのよ。上手い人は休み時間とかに堂々と描くけど、わたしみたいに上手くない子とかは、みんなに見られないように授業中とか、家に帰ってからこっそり描くの。それで捨てるの。あぁ、自分の思ってるのと全然違うってね」

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