ある教師の過去

回想①


 巨大な黒槍が、猛スピードでリュウゲンの元へと突進する。


 リュウゲンは確信した。


(あぁ、これは避けられない。)


 リュウゲンが終わりを覚悟する。


 その瞬間、彼の頭には思い出したくも無い出来事が浮かび上がる。




 ─1─


 ───キーンコーンカーンコーン───


 鳴り響くチャイムがその日の全授業の終了を合図する。


 清潔に整えた短髪と、黒縁の眼鏡に、黒いスーツを身にまとって教壇に立つ男は、何処か頼りなさを感じさせる佇まいでそこにいた。


「そ、それでは…今日の授業はここまでです。来週からは…三角関数の内容に入っていきます、少し…難しくなりますが……」


 彼の声は、教室から発生する様々な音によって無念にもかき消されていく。


 早田流元そうだ りゅうげん、私は高校教師だった。


 昔から「流元は真面目だね」、「大人しくて、優しいね」などと言われて育ってきた。だが、私は別に真面目に大人しくしようと思って生きてきた訳では無い。


 真面目でいたのは、周りの言う事に従っていれば、変に目立たないと思ったからだ。大人しく過ごしてきたのもそうだ。私は極力人と関わる事、人に干渉される事を避けてきた。


 そうすれば、周りから危害を加えられる事も無い。安息と平穏が約束される。そう思っていたからだ。


 そんな私が高校教師の道を選んだのには理由がある。


 私は高校時代にいじめにあっていた。


 真面目に周りの言うことを聞いていれば。


 大人しく、影を潜めていれば。


 そうすれば、危害を加えられる事はないと思っていたのに。


 クラスの連中は、逆に大人しくて何も主張しない私を標的にした。私は彼らの気まぐれで暴力を振るわれたり、罵声を浴びせられたり、持ち物を捨てられたりした。


 それに対する周りの反応は様々だった。敢えて何も見ようとしない者。チラチラとこちらを見ては笑っている者。攻撃される私に対し、可哀想な目で見ている者。



 ───「お前なんにも喋んねえけどさ、何が楽しくて学校来てんの?笑」


 ───「どうせ後ろから見下してんだろ、バカしかいねぇとか。」


 別に楽しいから学校に来ているんじゃない。別に周りのことはなんとも思っていない。興味が無い。


 周りは勝手な事を言っては、その勝手な理由で私を攻撃した。ただ私は殴られても蹴られても、持ち物を捨てられても、感情を表には出さなかった。感情表現が苦手だったのだろう。


 吐き出す事が出来ない感情は、逃げ場を失って心の中で渦を巻き、少しずつ私を蝕んでいった。


 そして数ヶ月後、私は学校に行かなくなった。




 ─2─


 私が部屋に引き篭っても、両親は特にそれを咎めたりはしなかった。担任の教師は何度かうちに来て話をしていたようだが。恐らく私が学校に来るよう試行錯誤していたのだろう。


 ある日、残業で22時過ぎに帰宅した父が、ドア越しに話しかけてきた事があった。


「なぁ、流元。お前、もう学校には行きたくないか。」


 私は何も言わなかったが、父は話を続けた。


「父さんな、お前が嫌なら別に行かなくてもいいと思ってる。」


 私は父の言葉に耳を傾けた。


「嫌なら学校変えたっていい、それは逃げでも何でもねぇ。」


「ただな、お前が味わった痛みとか苦しみは、絶対に忘れるな。これからお前がデカくなって、もし近くに同じような思いをしてる奴がいた時に、お前だけはそいつの側にいてやれる。」


「お前の痛みは、誰かの鎮痛剤になるんだ。」


 父はそこまで話すと、ゆっくりとその場を離れていった。


 私はこの時決意した。私は誰かの痛みを常にわかってあげられる人間になろうと。初めて自分に存在意義ができたような気がした。初めて、自分が生きていると実感できた気がした。



 そうして、私は高校教師になった。だが、教師になった私を待っていたのは今までと何も変わらない現実だった。


 ───「早田ってさ、何考えてんのか分かんなくねー?」


 ───「わかるー笑。なんか童貞臭くない?笑」


 ───「そのうちなんかやらかしそうだよね、こっわ…。」


 生徒たちのこうした評判は、黙っていても勝手に耳に入ってくる。教師達からも「早田先生は生徒に舐められすぎです。」とか、「あの年頃の子は色んなものが気に食わないんですよ、彼らの立場に立つ事を忘れないで。」とか、まるで私が悪と言わんばかりの正論みたいな説教をするのである。


 それを見ている周りの生徒達は、まるで「可哀想な人」と言わんばかりの目で見ている者たちばかりだ。学生の時と違うのはここ。


 ただ、そこまで関わりのない私が常習的に攻撃されるくらいなので、生徒の中にも標的にされるものは何人もいる。


 だから私はせめて彼らの味方であろうとしたのだ。


 私はある生徒に声をかけてみた。君は独りじゃない、私がちゃんと傍にいる。そう言うつもりで彼に近づいた。


「やめろよ…。」


 私の想いに反して彼はそう言って私を拒絶した。


「せ、先生と授業外で話してんの見られたら、俺の方も酷くなるだろ…多分…。」


 そう言って、彼は私の元を去っていった。



(そうか、私は…必要とされていないんだ。)


 私の痛みは、誰かの鎮痛剤になる。そう思っていたのに。




 ─3─


 冬空の下、冷たく澄んだ空気の中を、私は飲み慣れないビールを口の中に流し込みながら、さまようように歩いていた。


 どこで生き方を間違ってしまったんだろう。


 そもそも、誰が悪いのだろう。自分が辛い思いをしないように、人と関わる事を避けてきた私が悪いのだろうか。確かに私はなぜ自分が何度も標的にされるのかも、攻撃する彼らの気持ちも分からなかった。私は人の気持ちが理解できていないのだろうか。


 どんな理由があったとしても、攻撃する彼らが悪いのだろうか、それとも…


 攻撃される方を「弱い方」と決めつけるようにして、見て見ぬ振りをする彼らが最も邪悪なのだろうか。


 色んな事が頭の中を巡る。他にも色んなことを考えていた。だから、私は接近するトラックに気が付かなかった。


 クラクションが何度も大きな音を鳴らしてこちらに迫ってくる。それに気がついた時はもう遅かった。


 ───2010年2月、私はこの日、二十五年の人生を終えた。

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