第36話 不穏な夜(今回も長文になります)
蝋燭の火を消した瞬間、廊下に誰かの影を見つけた。え? 誰?
「夏希や」
はっ。太郎さんの声だ。でもあたしたち、まだそういうのはいけないって、イッシーさんに言われたのに。どうして?
「できれば、そのままで聞いてくれ。我は、そなたを愛しておる」
直球。その矢じりは簡単にあたしのハートを貫いてしまう。だって、あたしも太郎さんのことが好きだもん。けど、なにか変。
「夏希、できることなら今すぐそなたを抱きしめたい。そちらへ入ってもよいか?」
「……え? 太郎さん?」
襖越しに影絵みたいに見える太郎さんが、いつもの太郎さんと違うような気がしてきた。太郎さんって、こんなことを言う人だっけ?
「ふんぐっ!?」
「明日会おう。今日はもうやすんだ方がいい。遅くに訪ねてすまなかったな。おやすみ、夏希」
「う、うん。また明日」
それだけ言うと、太郎さんの衣擦れの音がして、去ってしまったのがわかる。けど、所々なんか違和感があった。なんだったんだろう?
そうしてあたしは眠りに落ちた。夢だけど遠い昔の、あたしの本物の記憶。
それは、少しだけ懐かしい。
そう、人間界での記憶。
子供の頃、太郎さんと会ってから、あまりにも嬉しかったあたしは、うっかり友達にその話をしてしまった。
けど、どうやらその友達は、あたしにとっての本物の友達ではなかったらしくて。
次の日には教室中に広まってしまっていた。
「おい、雨月。お前、狐なんかと結婚すんのか?」
男の子たちがからかっているのはわかった。黒板にも、あたしと狐さんのイラストなんかが書き広げられていた。
どうして?
まだ幼かったあたしには、そういう子は痛い子扱いされるということを知らなかった。そして、みんなから冷やかされてしまうと、情けなさと悲しみとの間でいつの間にやら涙が流れて、そして教室から逃げ去った。
お母さんは健作を産んでから調子が悪くてお婆ちゃんのアパートに逃げ込むことしかできなくて。
でもきっと、学校にいる時間に逃げて帰ってきた、と言ったら、お婆ちゃんに教室に戻れと言われるかもしれなくて。
ドアの前で呆然と立ちすくむあたしに声をかけてくれたのは、そのお婆ちゃんだった。
「どうしたんだ? 夏希。まぁいい。今鍵を開けるから、お茶でも飲むのにつきあいな」
深く考えもせずにここまで来てしまったけれど、お母さんの方に連絡がいったら嫌だなって思って鬱々としていた。
「そんじゃま。あたしは娘に電話しておくよ」
お婆ちゃんは、お母さんのお母さんだった。
お婆ちゃんがなにを言うのか気になって、耳が電話に集中する。
「おう、花子かい。今ね、夏希が家に来ているんだよ。せっかくだから、今日一日は預からせてもらうからね」
それだけ言うと、電話を切ってしまった。
「ごめんよ。さーてさて。お茶の準備をしようかねぇ」
「あ、あたしやります」
昔の形のヤカンに水を入れて、ガスの火をつける。そっちを気にしながら、茶葉とお婆ちゃんが今買ってきたらしい羊羹を切り分けた。
お湯の準備ができて、ここからはお婆ちゃんの出番。ヤカンから急須にお湯をいれてから少し蒸す。
お婆ちゃん、なにも聞かないのかな?
「さて、お待ちどうさん。羊羹も食べるんだよ?」
「はい」
っていうか、お婆ちゃん自分で買い物してるんだ。自転車での買い物は大変だろうな。
「夏希や」
「は、はいっ」
「お前は自分が正しいと思うことをすればいい。赤の他人に冷やかされたくらいで相手にすることはない。あんたがいちいち顔色を変えるから調子に乗るんだ。この年になるとね、友達なんかいない方がいいよ。結婚のご祝儀をあげてもすぐ離婚するし、一人で何回も式をあげて祝儀をもらうやつもいた。それと、これから先やつらが死んだら香典まで持っていかなきゃならない。だからあたしは適当にボケたふりをしてるのさ」
ふん、と鼻で笑ったお婆ちゃんは、万人に愛される必要はないんだよ、と言って。それから、もっと重大なことのように言葉を継ぎ足す。
「お前には手芸という特技があるだろう? 芸術的にまで研ぎ澄まされた、あんたの作ったブローチは、毎回フロマのアプリで一番人気なのさ」
えっ? お婆ちゃん、なんでも売り買いできるフロマなんてやっているんだ。
「ははっ。その顔だよ。お前には才能がある。ハンドメイドで生計を立てるのは難しいだろうが、その道を選ぶもよしさ」
お婆ちゃんは、買ってきたばかりの袋を開けた。そこにはたくさんの生地がそろっていた。生地の調達に行っていたんだ。
「他人は裏切るけど、自分で自分を疑わないこと。そして手芸は、友達なんか必要のないくらいに楽しいことだと知っているね? だったらくだらない相手に意地悪されたくらいで傷ついてやるもんかだ」
そんなのは、時間の無駄だよ、とつづけて。それからあたしはべそべそ泣いてしまったけど、その通りだな、と思った。
つづく
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