第五集 雨中の刺客

 西華せいか李克用りこくよう黄鄴こうぎょうが対陣した頃、一方の汴州べんしゅうでは、李克用が南方に向かった軍勢を追っていった事を見るや、朱全忠しゅぜんちゅう陳州城ちんしゅうじょうから軍を出撃させ、北方に逃れた別動隊を追撃しはじめた。

 分断された敵部隊の兵数なら、自身の軍勢でも充分に当たれるという判断であるが、そちらの部隊こそ黄巣自身が率いている本隊であると察しての事でもあった。

 特に今は長安と言う本拠地を捨てた事で、自由に移動し略奪しては官軍との戦いを避けるという、逆にかつての流民盗賊の類に戻ったとも言え、下手に時間を与えれば再び体勢を立て直す機会を与えるようなものである。

 乱を完全に鎮圧する事を目指すのならば、士気の落ちている今を逃さず黄巣を討ち取る事が最善手なのだ。


 さて朱全忠自ら軍を率いて出撃してから間もなく、曇天が次第に重々しい黒雲へと変わり、雨粒がはらはらと落ちてきたと思えば、滝のような雨へと変わった。

 そんな時である、真っ白な毛並みを誇る彼の愛馬が突如として足を止めた。


「なんや、どうしたん?」


 微笑みながら愛馬に話しかけた朱全忠が、体勢を前に傾けた瞬間、彼の後頭部を一陣の風が吹き抜けたかと思えば、すぐそばで並走していた旗指兵の持った軍旗に、一本の矢が突き刺さった。

 即座に朱全忠を狙った狙撃だと全員が理解し、そばに控えていた龐師古ほうしこが周囲を固め、矢を放った者を探し始めるが、当の狙撃手はすぐさま自らその姿を現した。

 狙撃が失敗したと見るや、刀を抜いて飛び上がると、雑兵たちの頭を踏みつけるように集団を飛び越えて朱全忠に向かってくる身軽さを見せた。

 一瞬で手練れと判断した龐師古が、自らも刀を手に取ると、刺客の前に躍り出る。


 周囲の兵士たちが刺客を取り囲むように槍を構えながらも、間合いを取って場所を開けた事により、朱全忠の陣営の中に、まるで小さな闘技場が出来たかのようであった。

 そんなの中心で、刺客と龐師古が刃を交える事となったわけだ。


 兵たちの喧騒すらも消されてしまいそうな豪雨の中、音を聞くだけで腕に覚えのある武芸者同士の戦いだと分かる干戈かんか(刃がぶつかる音)が響き渡る。

 双方の振るう素早い刃は豪雨を切り裂いて水しぶきを上げ、それは両者の間に、まるで残像のように、いくつもの流水の弧を生み出していた。

 思わず見とれてしまうような幻想的な光景であったが、同時にそれは、入れば確実に命が刈り取られる必殺の間合いが視覚として浮かび上がっているという事でもあった。


 刀だけの戦いでは終わらず、時に相手の刃を避けつつ身を捻って足を払おうとし、相手はそれを飛び上がって避けながら頭上から斬りかかるなど、互いに全身を使った目にも留まらぬ戦いが続いた。

 ほとんど互角の勝負を繰り広げる両者の間に、長槍を構えた若武者・王彦章おうげんしょうが割って入り、直後には朱全忠軍団古参の筆頭格である朱珍しゅちんが大刀を振り回しながら参戦。

 三方向からの攻撃を的確にいなしていく刺客は良く戦っていたが、さすがに防戦一方となる。

 そして遂に刺客に隙が生まれ、三者いずれかの刃が刺客の命を刈り取ると思われた。


「そこまでや!」


 その瞬間、朱全忠は鋭く一喝するように制止した。その声と同時に全員の動きが止まり、周囲はただ降りしきる雨の音だけとなった。

 朱全忠はいつもの笑みを浮かべて、刺客に話しかける。


「お前は確か、尚讓しょうじょうんトコにいた奴やな。見覚えあるで。名前は何て言うんや?」


 突然に名を聞かれた刺客は一瞬の混乱を見せるも、ここに至っては敗北したも同然。朱全忠が制止しなければすでに命はなかった以上、素直に答える事とした。


霍存かくそん……」


 朱全忠は頷きながら話を続けた。


「単身で敵の総大将を狙う……。成功すればこっちの軍は総崩れになるねんな。よほどの腕が無ければ成功はせんけど、良い線いっとったで。さっきの狙撃は、さすがに肝を冷やしたわ……。でも成功したとしても、生きて帰るんは難しいで。尚讓に行ってこい言うて、命令されたんか?」

「志願した……」


 一言で答えた霍存に、朱全忠は笑顔を崩さない。他に喋る者はおらず、ただただ地面を叩く雨音だけが響いている。

 しばしの間の後、朱全忠は静かに問う。


「仲間を逃がすために犠牲になろういう事やな……。でもな、そもそもお前は何のために戦っとるんの? 黄巣の反乱に参加したのは、もちろん生きるためやんな。ワシもそうやったわ。でも今となっちゃ、黄巣の側についてりゃ死ぬしかないで。お前が頑張って逃がしたって、遠からずその仲間だって死んでまうわ。生きるためには泥船から降りにゃならんねん」


 霍存はただ黙っていた。しかし言葉はしっかりと受け止めていた。

 朱全忠はなおも言葉を続ける。


「それとも、唐朝の貴族連中が嫌いで世直しをしたいとかいう高尚な目的かいな。もしもそうだったとしたら、なおのこと黄巣なんかに付いてたら無理やで。野盗の集団の刃なんぞ、弱者や下っ端にしか届かんねん。長安を攻め取ってもな、結局は皇帝にも貴族にも、届かんかったやろ? それなりの地位トコに昇らにゃ、届くもんも届かへんのや」


 ここに至って、霍存は自問自答した。自分は一体、何のために戦っているのだろうか。目の前で微笑む朱全忠に問われて、初めてそこに考えが及んだのである。

 朱全忠は、やはり笑顔のまま言い放つ。


「まぁ、ええわ。どっちが理由だったとしてもな、黄巣に付いていく意味ってモン、よぅ考えとき。……ほな、帰したれ」


 その言葉に、周囲の者が騒めいたが、朱全忠は笑みを崩さぬまま「ええんや」の一点張りであった。

 こうして死を覚悟したはずの刺客・霍存は、敵中から単身で生きて帰る事となったのである。


 霍存が立ち去ったのを見送った朱全忠は、突如として追撃を取りやめ、全軍に再び陳州城に戻るように指示した。

 部下たちは困惑したが、朱全忠は変わらぬ穏やかな笑顔で周囲の側近たちに言う。


「状況が変わったんや。少し泳がせといた方が、後々に効いてくるで」






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