第四集 龍神の加護

 李克用りこくよう率いる鴉軍あぐんの追撃により、黄巣こうそう軍は分断される事となる。最も人数の多い軍を本隊と判断した李克用は、南へ逃げた軍への追撃を行った。

 実際には、首魁である黄巣は北に逃れており、こちらの部隊は弟の黄鄴こうぎょうが率いていた別動隊であるが、この時点では李克用は気づいていなかった。


 黄鄴軍が向かった先は汴州の南にある西華せいかであった。

 大運河と接続する淮水わいすいの支流が付近を流れており、周囲は湿地帯になっている。

 そこで反転し陣を張った黄鄴の意図は、騎馬突撃による鴉軍の一撃離脱戦法を、湿地を利用して封じようという物であった。

 散々苦しめられた戦法を封じさえすれば、兵数で勝る以上は敵を削り取れる。少なくとも兄である黄巣が逃げ延びる時間は充分に稼げるという判断であった。

 黄鄴軍の迎撃態勢に対し、鴉軍は進軍を止めて対陣した。周囲に広がる湿地を眺めても、李克用に慌てる様子はない。


「馬の足を止めたっちゅう事はじゃ……、ワシと弓で勝負したいっちゅう事じゃのぉ!」


 天空を舞う二羽の鷹を一射で撃ち落とす腕前の李克用からすれば、もはや笑いが止まらない。

 兵たちに弓を構えさせ、自身も弓をつがえた瞬間、李克用はふと何かに気づいて構えを解いた。

 そして再び呵々大笑すると、兵たちの構えも解かせた。


 それから急ぐ様子もなく、ゆっくりと後退した鴉軍は、黄鄴軍の陣が見える丘の上に陣を張り始めたのである。

 距離としては弓兵の斉射が届くかどうかの瀬戸際の線である。

 こうした一連の鴉軍の動きを見た黄鄴は、騎馬突撃を封じた事が功を奏し、敵が長期戦の構えを取ったと判断。両軍はしばしの睨み合いとなった。


 空を黒雲が覆い、雨が降り始めたのはまもなくの事だった。

 両軍とも睨み合ったままである。雨足は弱まるどころか、滝のような豪雨に変わった。


「おう、どうしたんなら」


 李克用がそう声をかけたのは、鴉軍の末席として参戦している十五歳の少年だった。名は李嗣源りしげん。もとは韃靼だったんの集落で出会った雑胡ざっこ(出身部族が分からない遊牧民)の孤児で、李克用の仮子かし(養子)となった事から鴉軍の一員となったのである。

 砂漠育ちのためか雨に慣れていないと見え、顔色が悪く震えていた。


「後ろで休んどれや」

「いえ、大丈夫です……、皆さんの足を引っ張るわけには……」

「ど阿呆、無理して倒れたら、それこそ足を引っ張るじゃろがい!」


 そう言って李嗣源少年の首根っこを掴むように、無理やりに後ろに下げて休ませた李克用は、周囲の兵たちにも声をかける。


「お前らも無理せんでええぞ。気を張ってなくても、ただここで奴らを睨んでりゃええ」


 不敵な笑みを浮かべた李克用の視線の先には、黄鄴の軍営があった。周囲を湿地に囲まれた中に張った陣。そして一向に降り続ける豪雨。既に湿地帯は浸水していた。

 丘の上に陣取った李克用の軍とは違い、黄鄴軍は初めから巨大な湖の中に陣を張ってしまったような様相になっていた。

 互いに睨み合っている状況である以上、黄鄴としても敵前で陣をたたむわけにもいかず、雨が止む事を祈りながら耐えているような状態である。


 李克用が「独眼龍」と呼ばれるのは、片目が不自由な猛将だからと言うだけではない。なぜ龍なのかと言えば、彼が戦に参陣した時に雨が降れば、必ず彼にとって有利になった経験から、縁起を担いでそう言われたからである。

 龍神の加護ぞあり、と。


 黄鄴の願いも虚しく、豪雨は一向に止む気配は無く、雷鳴まで轟き始めた。李克用はそれすら、最初から分かっていたように泰然としている。


 雨足が弱まらぬまま日没が迫り、周囲は次第に暗くなり始める。その頃になると、黄鄴の陣営は膝上まで水に浸かってしまい、もはや戦えるような状況にはなかった。

 黄鄴は苦虫を噛み潰したように空を見上げると、撤退準備を決めた。

 このまま夜の闇に紛れて陣をたたもうというのであるが、将兵を集めて撤退の命令を出そうとした刹那、黄鄴の喉を一本の矢が貫いた。

 敵陣からの狙撃である。

 傷からも口からも血を吹いて倒れる黄鄴と、慌てふためく将兵たち。


 この矢を射たのは他でもない、天空の鷹をも一矢で射抜く独眼龍・李克用である。

 撤退指示を出すとなれば、距離のある陣からも総大将の目星が付くという物であり、これを待っていた部分もあったのだ。


 どう動くべきかの命令もないまま、総大将が致命傷を受け、黄鄴軍は大混乱となった。

 そして黄鄴軍が体勢を立て直すよりも先に、丘の上からわずかに前進していた鴉軍によって、今度は一斉射撃が行われたのである。

 降り続く豪雨と共に、大量の矢も降りしきる。

 腰近くまで水に浸かって動きが緩慢な中、次々と周囲の者が血を流して倒れ水没していく。

 もはや黄鄴軍は統制など取れず、散り散りとなって陣は崩壊していった。


 雷雨の中の阿鼻叫喚がしばらく続くと、豪雨は嘘だったかのように通り過ぎた。天には明るい月が昇り、周囲からは虫やカエルの声が響いている。

 黄鄴軍の陣があった場所は、大量の死体が浮かぶ、赤い池へと変わっていた。

 李克用は、雨が止んだのを見て取ると、慌てる事もなく火を起こして兵士を休ませ、夜が明けるのを待ったのであった。




 夜明けを迎える頃には、湿地帯の水も徐々に引き始めていた。

 軍営の中に隠れて息をひそめていた黄鄴軍の兵士がひとり、朝靄あさもやの中を静かに立ち去ろうとした時、突如として足に激痛が走った。

 泥の中に倒れこんだその兵士が振り向くと、自身の脛に矢が刺さっており、背後から馬に乗った黒衣の軍団が現れた。

 その先頭では、眼帯を付けた男が睨みつけるように弓を構えていた。


「おう、逃げるな……」


 下馬をして近づいてきた眼帯の男が、静かに低くそう言って兵士の肩を踏みつけると、もはやこれまでという絶望から兵士は悲鳴を上げた。

 だが男は、気だるげに声をかける。


「別に殺しゃせんわい。ひとつだけ答えてもらいたいだけじゃ」


 足を射抜いて転倒させ、泥の中で足蹴にするという、質問だけというにはあんまりな態度であるが、とにかく命は取らないという事だけは伝え、兵士を落ち着かせる。

 そうして眼帯の男・李克用は、総大将であった黄鄴の生首を、見せつけるように兵士の眼前に突き出した。


「こいつぁ、黄巣かいの?」


 ここにきて李克用は、ようやく対陣していたのが別動隊だという事を知ったのであった。






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