第三集 陳州城の交錯

 唐に仕えていた諸侯の多くも、長安ちょうあん黄巣こうそう軍を敵視していたが、いくら弱体化したとはいえ頭数が揃う黄巣軍に、あえて正面から当たろうとする諸侯は少なかった。

 そんな時に颯爽と現れ、黄巣軍において首領・黄巣に次ぐ第二位の地位にある尚讓しょうじょうが率いる十五万の主力軍に正面から戦いを挑んだのが、独眼龍どくがんりゅう李克用りこくようが率いる鴉軍あぐんであった。

 梁田陂りょうでんはの地に駐屯していた黄巣軍に対し、鴉軍は騎馬部隊の機動力を生かした神出鬼没の一撃離脱戦法で昼夜を問わずに襲い掛かり、数の違いを物ともせずに敵の大軍を翻弄した。


 河中かちゅう朱温しゅおんの軍団が官軍に寝返ったのは、まさにそんな頃だった。補給を断たれる形となり士気も衰えた黄巣軍の主力は壊走し、散り散りになって長安に撤退してくる事となる。


 物資の枯渇した状況で、今まさに長安に向けて官軍が迫っている。

 そこで黄巣は態度を一変して長安から略奪の限りを尽くし、さらには城市に火を放った。

 世界帝国・唐の都として、かつては栄華の極みにあった長安城市が炎に包まれ、住人たちが阿鼻叫喚の大混乱に陥る中、黄巣軍は悠々と東へ向けて撤退していったのである。


 官軍の先鋒として鴉軍を率いた李克用が長安へ到着した時、すでに往年の都は完全な焦土と化していた。


「ワシらも略奪はするがよ、さすがに治めとった城市まちでやるかいね。……黄巣は、もう終わりじゃのぉ」


 李克用はどこか呆れたように呟いた。

 だがいかに焦土と化していようと、首都奪還を成し遂げた事は事実である。これによって独眼龍・李克用の名は天下に轟き、太原たいげん節度使せつどしとしての地位も確約されるに至った。




 さて、一方の朱温あらため朱全忠しゅぜんちゅうは、投降して間もなく朝廷より汴州べんしゅう節度使せつどしに任命され、軍団を率いて現地に赴任していた。

 黄巣が長安に火をかけて東へ逃亡を始めたのは、それから間もなくの事である。


 汴州は洛陽らくようの東に位置しており、かつてずいが建設した黄河と長江を結ぶ大運河が通っている場所で、つまり南北の物流を統括する大動脈になっているといっていい。

 のちに開封府かいほうふと呼ばれる事になる土地だ。

 中原で態勢を立て直したい黄巣としては何としても押さえておきたい土地であり、また裏切り者である朱全忠を見せしめとして誅する意図も含め、黄巣軍は汴州へと向かったのだった。


 朱全忠もまた黄巣軍を迎え撃つために、守りの堅い陳州城ちんしゅうじょうへと入り防御態勢を整えた。

 いくら兵力が減っているとはいえ、黄巣軍の本隊ともなれば、朱全忠の擁する軍よりも圧倒的に兵数は多い。

 朱全忠軍団はもともと黄巣軍から離反した者たちである以上、皇帝周辺の門閥貴族からすれば、同士討ちさせているようなものであろう。

 殺し合えば良し、そうならずに合流するなら化けの皮が剥がれる。戦った結果どちらが負けても貴族たちに何の損も無い。


「こんなん使い捨ての駒やないの……」


 陳州城を包囲していく黄巣軍を城壁の上から眺めながら、朱全忠は思わず呟いた。

 長安を奪還した部隊が黄巣軍を追撃しているという情報は朱全忠のもとにも届いていたので、彼はそれまで籠城という命令を出す。

 黄巣軍は兵数こそ多いが、物資の補給もなく、背後から官軍の追撃が迫っているという状況を考えれば、打って出るよりも籠城して時間を稼ぐ方が有利であるという戦略的判断である。

 そんな朱全忠のもとに、槍を背負った若武者が城壁の上に駆けて来ると、片膝をついて抱拳し進言する。


「何ゆえに出撃の許可を頂けぬのですか! 敵が包囲を完了する前に、敵の本陣を貫けば崩壊します! 命じてくだされば、私が必ず!」


 血気盛んなこの若武者は王彦章おうげんしょうと言った。

 朱全忠の挙兵から従っており、その当時は十三歳という若さだった事から朱全忠を始めとした諸将から弟分のように扱われていたが、その忠勇剛毅な気質は将として申し分ない物であった。


「落ち着きや。戦えばな、例え勝っても兵が誰も死なんっちゅう事は無いねん。この戦いは籠城してれば敵が勝手に自滅するんやで。余計な血は流さん方がええに限るわ。でもその心意気はええで。焦らんでも、お前の槍が大活躍する戦いはすぐ来る。それまで取っとき」


 いつものような穏やかな笑顔の朱全忠に諭され、王彦章は素直に引き下がった。

 朱全忠にとっては、時を稼げば自壊するであろう目の前の黄巣軍など、すでに問題では無かった。

 ご大層な官職を与えながら、こうして使い捨ての駒にしてくる貴族連中こそ内在的な敵であるという事を身に染みて理解した。

 この乱が終結した後に、にはどうしたらいいか、この時点でそこに考えを巡らせていたのである。




 物資補給が無い状況から短期決戦を挑んだ黄巣軍であったが、城攻めを冷静に対処して頑なに籠城を続ける朱全忠の前に、陳州城を落とせぬまま数日が経過した。

 そんな中で、李克用率いる鴉軍が、洛陽八関のひとつ虎牢関ころうかんを突破し、黄巣軍の背後に迫ってきたのである。

 これは黄巣軍はもとより、到来を待っていた朱全忠すらも驚く、まさに神速の用兵であった。


「さぁ、やっちゃろうかい! 突っ込めぇええ!」


 李克用の号令が響くと、黒衣の軍団が怒号とともに襲いかかってくる。兵数の差など物ともしない勢いであった。

 黄巣軍はすぐさま陳州城の攻略を諦めると、逃げるように撤退を開始し、その背後には黒衣の騎馬部隊が容赦なく喰らいついて、まるで追い立てるように殿軍を蹴散らしていた。


「あれが、沙陀さだ族の鴉軍かい……」


 戦況を城壁の上から眺めていた朱全忠は、静かにそう呟いた。


 沙陀族の鴉軍と、それを率いる独眼龍・李克用。

 黄巣軍にこそ参加していなかったものの、一時は唐朝への反逆者として罪を得ていた。経緯こそ違えど、反逆者から官軍へ転じたところは朱全忠と同じである。

 それはつまり門閥貴族にとっての心象が同じ事を意味していた。


 李克用を味方につける事が出来れば、この乱が終結した後に、貴族たちに対抗する事も充分に可能である。

 朱全忠の頭の中に、そんな絵図が浮かんできた瞬間であった。


 それが双方にとっての悲劇の始まりになるなどと思う事なく……。






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