第二集 笑面虎

 長安を占拠した農民反乱軍、黄巣こうそう軍には、朱温しゅおんという男が参加していた。

 彼は貧しい儒家の家の出だが、早くに父を失った事で豪農の小作人をしていた。各地での飢饉の被害を直接的に受ける事になった立場である。

 餓死を待つか、反乱に参加するかの二択を迫られた彼は、もともと自身の身を守るために武術に精を出し、地元のならず者と徒党を組むような男であったゆえ、当然のように後者を選んだのだ。


 貧しい事から周囲に虐げられて育った彼は、反抗的な目をしていると、それだけで一方的に殴られる状況の中、いつしか常に笑顔を絶やさぬようになった。

 例え腹の中でどのような事を考えていようとも、まるで仮面のように穏やかな笑みを浮かべているのである。

 そんな朱温が、素人の集団であった黄巣軍の中で、図らずも活躍したのだ。人々はいつしか彼の事を、笑みを浮かべた虎、「笑面虎しょうめんこ」と呼ぶようになった。


「忠も、孝も、情も、命あってのもんやで。死んでしもぅたら、何も残りゃせんわ……」


 それが彼、朱温の口癖であった。

 儒家として生きた彼の父が、結局最後まで貧しいままその生涯を終えた姿を見てきた彼にとって、儒学の語る忠や孝など理想論でしかなかった。

 そうした思想も大義も、利用できるなら利用するが、邪魔になるなら平然と捨てる。それが少年時代から最底辺を這いずってきた彼の信念だった。


 黄巣軍が潼関どうかんを突破して長安に迫った際も、彼は先鋒集団を率いていた。その戦いは、大して苦労など無かった。

 首都に向かっていく黄巣軍の士気は旺盛。一方で唐の正規軍は、無理やり徴兵された少年や老人、病人なども含んだ、正規軍とは名ばかりの急増混成部隊。しかもこの時点で都の上層部が逃亡を始めていた事から指揮系統が乱れ、士気など最初から無いような物であった。


 こうして難なく首都を制圧した黄巣軍であったが、統治そのものはズブの素人である。逃げずに残留した大臣や指揮官らは処刑したものの、中堅以下の官僚はそのまま据え置いて、都市の統治を任せる事とした。

 上の者が変わっただけで、今まで通りの仕事を続けなさいという事だ。


 こうして大きな混乱もなく首都統治が継続される事となったわけだが、そうなれば当然ながら長安の内部情報は、蜀へ亡命した唐の皇帝や貴族にも筒抜けになる。

 そして反乱軍の統治する首都へ物資輸送をする義理が無い各地の生産拠点は物流を停止し、長安はわずか数か月で困窮する事となったわけである。


 こうして黄巣軍の弱体化により、長安奪還の機運が高まっていくわけだが、この時期の朱温は前線の軍を率いて、河中かちゅう節度使せつどし王重栄おうじゅうえいが率いる官軍と対陣していた。

 それまでと違って士気も練度も高い河中軍と戦えば苦戦は必至で、睨み合いのまま膠着していたのだが、この時の朱温は既にその先を見ていた。


 彼はそもそも「飢え死にするよりは」という理由から、生き残るために黄巣軍に参加して今日まで来たわけであったが、現在の情勢にあって黄巣軍に参加し続ける事は、逆に命を縮めてしまうと感じていた。

 長安と言う袋小路に自らはまり込んで弱体化した黄巣軍に対し、遠からず唐による逆襲があるだろう。そうなった時に勝ち馬に乗って生き残るためには、なるべく早い時点で黄巣軍から離脱しておく必要があったわけだ。

 黄巣軍に参加する以前、朱温が挙兵した時から付き従っていた古参の将たちとの密談においても、そこは一致した見解となっていたのである。


 こうして朱温は、河中の王重栄に手勢を率いて降伏する事にしたわけであるが、この時に使者に立ったのが楊彦洪ようげんこうであった。

 彼はもともと長安駐留軍の下級士官だった男だ。

 黄巣軍による長安の制圧と、中堅以下の役人の役職継続命令によって、朱温の軍に編入された。

 唐の上層部撤退、無理やりの徴兵による弱者の使い捨てを目の当たりにして唐朝への忠義が揺らいでいた楊彦洪は、軍人として優秀な朱温に魅せられ、新参ながら、この人に付いていこうと決心した経緯があった。

 そんな朱温が、賊軍から足を洗って唐朝の正規軍に降るとなれば、彼の下で堂々と官軍として復帰できるのだから願ってもない。


「もともと唐朝にいたお前なら、あちらさんも信じてくれるやろ。頼むで」


 朱温から笑顔で肩を叩かれた楊彦洪は、期待に応えてみせるとばかりに目を輝かせながら抱拳ほうけん(右拳を左手で包むように重ねる武官の礼)で返した。




 さて、王重栄に対しての交渉とは別に、朱温にはもうひとつの問題があった。黄巣軍との決別である。

 彼の軍中には、黄巣の命で派遣された監視役とも言える厳実げんじつという男がいた。

 厳実としても、一向に動こうとしない朱温軍の動きを怪しんで当然なはずである。

 先に動いたのは厳実の方であった。


 真夜中、陣中の寝所で朱温が一人になった隙に、顔を隠した刺客が襲ってきたのだ。刀を手にした集団が、ざっと十人はいる。

 朱温は眉をひそめつつも、まるで慌てた様子はなく、いつもの笑みを浮かべている。


「こら驚いたわ。ワシの予想より早いやないの」


 刺客たちは無言のまま朱温に斬りかかる。

 しかし朱温は両手を後ろ手に組んだまま、穏やかな笑みを崩さず、繰り出される敵の刃を次々とかわしていく。その動きは流水のように優雅であった。

 彼は若い頃から武術を熱心に学んでいた。その理由は、まさにこういう場面に遭遇した時にためにこそあった。


 しばらくの攻防の後、後ろ手に組んでいた手を解くと、敵の刃を避けながら、その持ち手に手刀を入れ、刀を奪い取った。

 そこからは彼の独壇場であった。

 流水のように優雅な、ともすれば踊っているような動きは、まさに攻防一体となり、敵の刃を避けると同時に、相手の首筋や脇腹などの急所を的確に斬り裂いていく。


 騒ぎを聞きつけた朱温の側近である龐師古ほうしこが護衛兵と共に駆け付けた時、寝所内には血を流して倒れている刺客の死体が転がっていた。その中心にはただ一人、朱温だけが立っており、まさに血まみれの刀をその場に捨てる所であった。


「遅れて申し訳ありませぬ! ご無事ですか!」

「無事や、構へん。しっかしこの程度で息が上がってもうたわ。やっぱ体動かすのは億劫やねん……」


 龐師古の言葉に、朱温は返り血を浴びながらもいつもの笑顔を崩さぬままに答えた。


 そこからの朱温の動きは速かった。

 その夜の内に、彼は手勢を引き連れて厳実の寝所を逆に包囲したのである。総大将暗殺未遂の罪状を掲げて。

 もともと厳実を斬って裏切るつもりであった朱温としては、証拠や罪状など必要では無かった。強いて言うなれば、中立派の将兵を自分の所に一人でも多く引き込む口実が出来たという話である。

 兵士に槍を向けられて身動きを封じられた厳実の前に、まるで無傷のままの朱温が進み出た。


「いきなり刺客を送るとは、随分な事をしてくれましたのぉ。ワシという不安分子を始末して軍を混乱させ、その罪は王重栄が放った刺客という事にでもして、そんで警備を怠ったとでもいってワシの側近もまとめて処刑する。そんなとこでっしゃろ?」


 淡々と語る朱温は、いつもの穏やかな笑顔を全く崩していない。それが逆に不気味であった。

 そして朱温の語った予想は全て当たっていた。彼が答えに辿り着いた理由は非常に簡単である。自分が相手の立場ならという物であった。

 しかし言い当てられた厳実は何も言えずに口籠った。


「せやけどね、天下に名だたる豪傑みたいな相手ならまだしも、あんな三下の雑魚相手に後れは取らんで」


 朱温自身、普段から武術の腕を見せない。それはこうして敵を油断させる部分も大いにあった。下手に出て、弱いふりをして、敵にナメさせるのである。

 全ての策謀が露見し、立場が逆転した厳実は、慌てて命乞いの言葉を並べる。


「本当に申し訳ない! これも全て黄巣からの命令! これからは、この命尽きるまで、あなたに忠誠を誓い……!」

「いらんわ」


 厳実が最後まで言い終える前に、朱温の振った刀がその首を刈り取った。血しぶきを上げて倒れる厳実を見つめる朱温は、やはり変わらず笑顔のままであった。


 黄巣軍でも筆頭として活躍していた朱温が軍団ごと降伏したという報告は、すぐさま蜀の地へと届いた。唐の皇帝・李儇りけん僖宗きそう)は大いに喜び、この戦いの勝利を確信したという。

 降伏交渉の席で楊彦洪が仲介した際に発言した「朱将軍は必ずや唐朝への忠を全うしましょう」という言葉を後日に漏れ聞いた皇帝が気に入り、その名を全忠と改めるように達しがあった。


 この時を境に、笑面虎・朱温は、朱全忠しゅぜんちゅうと名乗る事になったのである。






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