第八集 上源は雷雨なり

 朱全忠しゅぜんちゅうが去ってからの李克用りこくようは、先ほどまでの会話で苛立っていた事もあり、なかば自棄酒やけざけのような勢いで酒杯を重ね続けていた。

 そうした彼の勢いに護衛の兵士たちも酒宴を続け、一人また一人と酔いつぶれていき、いつしか夜も更けてきた頃だった。


 木材の焦げる臭いが鼻を突き、史敬思しけいしが飛び起きる。周囲に充満しはじめている煙からして、火事が起こっている事にすぐ気が付いた。

 朱全忠による報復行動にせよ、偶然の事故にせよ、いずれにしても炎が近い事は確実であるため、すぐさま酔いつぶれている李克用を揺り起こす。

 その頃には兵士たちも気づき始め、周囲が騒めいていた。


「どうしたんなら?」

「火事です!」


 そんな短いやり取りで即座に状況を把握した李克用は、炎除けと酔い覚ましを兼ね、近くの水桶を手に取って頭から水をかぶると、すぐに宴会場となっていた駅舎の外に出た。

 彼の目に飛び込んできたのは、町全体を囲む炎の壁であった。

 燃えていたのは駅舎ではない。この宿場町を取り囲んでいた塢壁うへき(バリケード)だったのである。一部ではなく、全方位に火が回っている以上、偶然の火事ではない。確実に人為的な放火である。

 出入り口となっていた塢壁の切れ目も、ご丁寧に馬車や干し草で塞がれた上で火が放たれていた。

 炎の勢いは次第に町の建物へと燃え移りながら内側へと迫ってきている。

 駆け寄ってきた史敬思によると、朱全忠ら汴州べんしゅう兵の姿のほか、町の住人の姿もないという。この炎の中にいるのは、李克用とその護衛だけという事だ。

 こうなると黄巣軍の残党の仕業ではない。

 李克用の脳裏に、朱全忠の不快な笑顔が浮かんだ。そして去り際に言っていた「仲良うしたかったんですが、かないませんで」という言葉も。

 その真意を理解し、彼は思わず歯噛みするのであった。




 さて朱全忠はと言うと、手勢の部下を率いて上源駅を見下ろす丘の上から炎上する町を眺めていた。

 本心としては手を取り合えれば良かった。しかしそれが出来ない上、あの様子では今後に敵となる可能性の方が高い。ならばこの機会に始末してしまう方が良い。あくまでもとして……。

 この火計を準備したのは、いつぞや朱全忠の降伏交渉を進めた楊彦洪ようげんこうである。


「この炎の勢いでは、さすがにひとたまりもありますまい」

「せやな……」




 上源駅から数里のところに布陣した鴉軍の本陣では、護衛としてついていった兵のひとりが駆け込んでおり、すぐさま劉夫人の耳に報告が届くことになった。

 彼は酔って酒宴を抜け出して、町の外の林で用を足していたところ、突如として街を囲む塢壁が燃え上がり、汴州軍の兵士が逃げていくところを目撃したのだという。

 上源駅の中には李克用、史敬思を始めとした仲間たちがまだいるが、炎の勢いも相まって入る事は出来ず、急いで本陣まで走ったという話であった。


「よぅ知らせてくれた……」


 報告を聞いた劉夫人は、眉をひそめるも取り乱す様子はない。さすが女傑の貫禄である。


「つまりお前は、主君を捨てて逃げ出したという事じゃな」


 表情も全く変わらず静かな口調のまま続いたそれは、劉夫人の意地の悪い切り返しである。

 ここで兵士がもし、それを肯定しながらも報告する事を第一と考えた上で戻ってきた、それでもお許しにならないなら首をお取りください、とでも毅然として言い放ったなら、劉夫人は問題にしなかったであろう。

 しかし兵士は目を泳がせて口籠ってしまった。そうした態度から、報告よりも臆病風の方が先に来ていた事を察し、最強の誉れ高き鴉軍にあるまじき行為と判断したわけである。


「誰ぞ、この不忠者の首をはねておけ」


 そう静かに命じた劉夫人は立ち上がると陣の表に出て行った。背後で助命を乞う叫びと、しばしのちに断末魔の悲鳴が響いてきたが、劉夫人の意識は既に、夫の安否にしか無かった。

 その視線の先には、林の向こう数里に、夜空を下から照らす赤い光があった。

 すぐさま出撃の準備をさせ始めたが、町を取り囲む大火を消し止めるなど出来るのかどうか未知数である。ましてや中にいる李克用らが自ら行う事はほぼ不可能であった。

 表向きは毅然とした態度を見せている劉夫人であったが、その心中は乱れ切っている。

 だがそんな彼女が、再び上源駅の方角を向いた瞬間、ある事に気づいてハッとした。




 上源駅に取り残された李克用らも、町の中心に集まっていたが、半ば諦めているような状況である。

 しかし天を仰いだ李克用もまた、数里先にいる妻と同じくある事に気づいた。

 酒宴に向かった時に昇っていた、天の月が見えないのである。周囲の星々も同様で、空は漆黒に包まれている。


 思わず高笑いを始めた李克用に、周囲の護衛兵たちは何事かと主君の顔を見た。戦に臨んだ際に幾度も見てきた、勝利を確信する独眼龍の笑みがそこにあった。

 李克用はゆっくりと天を指さし、兵士たちの視線が空に向けられる。その直後、漆黒の空に閃光が走ったと思えば、凄まじい轟音が響き渡った。

 そしてはたはたと、雨粒が落ちてきたのである。




 鴉軍本陣にいる劉夫人も、その雷光を見て安堵の高笑いを漏らしていた。救出準備に取り掛かっていた本陣の鴉軍兵士も思わず動きを止める。

 上源駅の方角を指さした劉夫人は叫んだ。


「見よ! 上源は雷雨なり!」


 その言葉に、幾度も独眼龍と戦いを共にした鴉軍兵士も顔をほころばせた。そしてそれは上源駅で李克用と共にいる兵士も同様であった。


 上源の空で、雷鳴を伴った局地的な豪雨が降り始めたのは直後の事である。

 宿場町を包まんとする炎の壁に打ち勝てると、誰もが確信できるほどの激しい豪雨であった。


 二つの地で、鴉軍兵士たちがほとんど同時に、勇ましきときの声をあげた。


「龍神の加護ぞあり!!」






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