第九集 決死の覚悟

 突然の雷雨によって意気上がる李克用りこくようたちであったが、慌てたのは丘の上の朱全忠しゅぜんちゅうたちである。

 ここで李克用を取り逃がしてしまえば、官軍同士での私闘を仕掛けたとして、下手をすれば軍団ごと賊軍に逆戻りである。

 不測の事態では済まされない。

 ゆえにこそ、もしも決裂して敵対するような事になれば、確実に相手を仕留められる方法を用意していたのだから。


 隙の無い火計を準備したはずの楊彦洪ようげんこうとしては、思わず横にいる朱全忠の顔色を伺ってしまうほどであった。心なしか普段から崩れる事のないその笑顔が引きつっているようにみえた。

 背筋に冷たいものを感じた楊彦洪は、何としても失態を取り返さねばならなかった。

 追撃の許可を求めた彼は、恐らくその笑顔の裏に怒りと焦りを抱えているであろう主君が黙って頷いたのを確認すると、即座に足の速い騎兵部隊を率いて丘を駆け下りていく。


 李克用が逃げるとすれば、数里先に布陣した鴉軍の本隊の方角。即座にその退路へと兵を進ませた。豪雨によって上源じょうげんの炎が鎮火するまでに退路を塞げるかどうか、時間との闘いである。


 上源駅から鴉軍本陣までの数里は、林が広がっているのだが、それは決して平地というわけではなく、複数の小山や岩場を縫うような道となっており、道を外れれば切り立った崖があちこちに点在している。

 事前に地形を把握している汴州べんしゅう軍にとっては、どこに兵を向かわせれば退路を絶てるかが分かっているのだ。

 しかし鴉軍としても、自分たちに土地勘が無い事は分かっている以上、それなりの対応をしてくるはずである。真夜中の豪雨の中で林を通り抜けるとなれば、闇に紛れて時間をかけるのが常套手段であろう。

 いささかの懸念はあったが、まずは順当な退路を塞ぐことからである。道を封鎖し監視する兵を割り振り、残りを林の中の捜索に回す。

 楊彦洪は、冷静かつ的確に指示を出して兵士を分散配置していった。


 雨は未だに止む様子はなく、滝のように振り続けている。上源駅の炎もほとんど鎮火してしまっていた。おそらく李克用らは既に逃走を始めているだろう。


 それからしばらくの時が経ったが、未だに敵発見の報告は届かない。このような真夜中、しかも林の中にあっては、鴉軍の兵士たちの纏う黒装束は闇に紛れるのに最適である。さらには豪雨によって足音も誤魔化せるのだ。

 この状況で兵士を分散させ過ぎれば、夜陰に乗じた各個撃破の恐れがある以上、ある程度の部隊を固めておかねばならず、それゆえに捜索が難航していたのである。

 あるいはすでに、いくつかの部隊は狩られているかも知れない。黄巣軍に対しての勇猛な戦いぶりから推しても、その可能性は決して低くはなかった。


 そんな事を考えていた楊彦洪の耳に、豪雨の降りしきる音に混ざって馬のいななきが聞こえた。慌ててその方向に振り向けば、林の中を一騎の馬が駆け抜けていく影が見えた。馬上に見えるその姿は、玉飾りの頭巾をかぶり、毛皮の外套がいとうを翻している。まさに宴の席に現れた李克用の姿であった。

 上源駅の馬舎うまやに繋いであった馬は、事前に全て町の外に移動させていたので、恐らくは追撃していた騎兵の馬を奪ったと見える。

 せめて主君だけでも包囲を突破しようという腹づもりかと思い至り、楊彦洪は近くにいた騎兵を引き連れて、李克用の影を追った。


 自身を入れて六騎。いささか少ないが、李克用が一騎で逃げるというのなら充分に勝算はあると楊彦洪は踏んだ。

 ましてや相手は土地勘のない林の中を、真夜中に全速力で駆けているのだ。すぐに馬の足が止まるか、崖から転落するであろう。

 そうして追い詰め、李克用の首を挙げさえすれば、失態は充分に取り戻せるのだ。


 しばらく追撃すると、目の前に岩壁が現れた事で、逃亡する李克用は岩壁に沿って右手へと馬を走らせた。

 この瞬間に楊彦洪は勝利を確信した。

 その方角に林を抜ける道はなく、そのまま上源へと戻ってしまう事になる。

 朱全忠率いる汴州軍の本隊と挟撃できたなら、そのまま捕縛する事さえ可能である。


 余裕の笑みを浮かべていた楊彦洪であったが、林が途切れ上源駅方面へと抜けた瞬間、それまで逃げていた李克用の馬が急に反転してきた。その手にさく(馬上槍)を構えて、迷いなく突撃してくる。


 楊彦洪は間一髪で回避したが、後続の騎兵が二人、一度に刺し貫かれた。

 残った三騎に囲んで仕留めるよう指示を出すも、血まみれの槊を構えたままの李克用は迷うことなく馬を捨てて飛び上がると、空中から槊を振るって更に一騎。

 そして着地と同時に頭上で槊を回転させる事で周囲の馬を驚かせ、残った二騎も落馬させる。

 地面に叩きつけられた二人の兵士が身を起こすよりも先に、槊の切っ先が襲いかかり、一瞬でその命を奪った。

 この短い攻防で、楊彦洪ただ一騎を残して追撃部隊が全滅してしまったのである。


 これが独眼龍かと思わず怯んだ楊彦洪であったが、このまま逃げ帰って主君たる笑面虎に報告する事の方が恐ろしい。

 決死の覚悟で馬から下りた楊彦洪は、腰の刀を抜いて相手と対峙した。


 毛皮の外套をなびかせた李克用は、槊をその脇に抱えて悠然としており、それでいて隙がない。

 豪雨の合間に轟く稲光に照らされて、黒ずくめの装束とは対照的に、その両目が白く光った。

 そこで楊彦洪はハッとした。


 独眼龍は隻眼のはず。

 目の前の男は李克用ではない。


 それは主君の頭巾と外套を借り受け、自ら囮となった側近の武人、史敬思しけいしだったのである。

 敵の目を惹きつける事に成功した史敬思は、目の前で愕然としている楊彦洪とは対照的に、静かにその口元を緩めるのだった。






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