濡れぬ先の雨

冬場蚕〈とうば かいこ〉

濡れぬ先の雨

 狭く、細く、暗く、幾つもの分岐をもつ道を、人生に喩えてしまうのは、安直すぎるだろうか。

 だが、来た道がぬかるんでいることも、行く道に迷っていることも、私が負傷していることも、全て、私の人生そのものと呼んで差し支えないほどできすぎていた。

 終わりが見えないことも、すぐ近くに死の予感が転がっていることも。

「本当に、いいんですね」

 目の前を歩く元恋人――姫川雅は、もう何度目になるかわからない確認をしてきた。

 優柔不断なのは今に始まったことではない。付き合いはじめはそんなところを優しさと感じていた。倦怠期にはそんなところを愚かだと蔑んでいた。

「いいって何回も言ってるでしょ。あなたが私を置いていっても別に恨む気なんてないから」

「でも、やっぱり…」

 知らず溜め息が漏れる。優柔不断を押し付けられるこっちの身にもなってほしい。こんな洞窟の地下深くにまで落ちて、今さら二人して脱出なんて許せるはずがない。

 結局、自分を殺せるのは自分だけなのかもしれない。私は彼女の背中を後押しするために、言葉を選ぶ。

「あなたのことを振ったのはそういう態度が鼻につくからよ。いつまでもウジウジしててみっともない」

「すみません…」

「悪いと思ってないのにそうやってすぐ謝るところも」

 雅は私から目を逸らして、さっきよりも足音を大きくした。

「言葉に詰まると態度に出るところもね」

「それは……!」

 雅は言い返す言葉を探し、すぐ悔しそうに伏し目になった。

「……私は、鎌田さんを置いていきたくないです。二人で脱出しましょう」

 夢見がちなところは付き合い始めから別れるまでずっと嫌いだった。

 私は聞こえよがしに舌打ちした。雅は肩をすくめた。

「じゃあなにか手段があるの?」

「それは……」

 また溜め息が漏れる。

「ほら、ないんでしょう? だったら私の言うとおりにしなさい。あなたが正しい判断をできたことなんてないんだから」

 雅はようやく恨みがましい目を尖らせた。

「鎌田さんの、そういう、いちいち気に障るような言葉遣いとか、すぐ舌打ちするところとか、ため息、嫌いです」

「あっそ。なら、やっぱり嫌い同士別れて正解だったわね。ほら、早くしなさいよ。嫌いだったら簡単でしょ? 私のこと切り捨てるの、はじめてってわけでもないんだから」

「私は、切り捨ててなんかないです」

 雅はボソボソと言った。

「そうね。あれは私から切り捨てたのよ。だから、恨まれても仕方ないと思ってる」

 ハッと顔をあげた雅は、無防備に傷ついた顔を晒した。別れ話を切り出した時すら、平坦な声を出していたのに、今は声を出すことすらできず、ただ形の良い唇を噛んでいる。

「恨んでなんか……」

 雅は動揺を隠すように右上に視線をやって、髪をかき上げた。その動作は相変わらず間抜けで、可憐で、私の心に爪を立てた。

 互いに傷つくことなんてないはずなのに、なぜか当時の悲しみが、雨の音を伴って、親しい顔で近づいて来た気がした。

 雅は私を殺すために洞窟に連れてきた。私は殺してもらうためにここまでついてきた。それだけの話なのに。

 

 姫川雅との出会いは、繁華街の外れにある、ビアンバーだった。私はそのとき、四年付き合った恋人にこっぴどく振られ、精神的な死を体験していた。

 あれだけ熱中していた仕事にも無気力になり、上司に見放され、生活は荒れ、酒なしには眠れなくなり、眠れない日はひたすら私が自殺をした後の世界を妄想した。

 そこでは上司も元恋人も、私の不在を悲しみ、悔やみ、十字架を背負って人生を歩むようになった。あるいは、まったく気にも留めず、彼らは各々の人生を充足させた。

 そうして幾つもの夜をやり過ごし、肉体の死を求めるようになったころ、近くにビアンバーがオープンするという話を聞いた。その店は、昼はただのカフェだが、夜になると未だ社会から白眼視される仲間が集うバーに顔を変えるらしい。

 以前までだったら、自分の弱みを体現したような店に、近づくことさえしなかっただろう。学生時代、レズビアンというだけでどんな誹りをうけ、その度にいくつの心を砕いてきたか。

 しかし足元に根を張っていた当時の哀しみは、ここ数週間の鬱の養分として涙と共に枯れ、私の足を軽くした。雨宿りを口実にその店に入ることくらいわけなかった。

 店内は暗めの照明がいくつか設置されているだけで、洞窟の中を思わせた。

「いらっしゃいませ」

 カウベルに気づいたバーテンダーの女が、カウンターの客をあしらいながらこちらに近づいて来る。身長は私よりも頭ひとつ分高く、暗がりでもわかるほどの美貌だった。年は二十代前半といったところか。佇まいにはシェパードのような気品が感じられ、どこかかなしみの漂う目元と、上品な角度で笑う唇が特徴的だった。

「ご利用は初めてですか?」

 低く芯の通った声で尋ねられ、私は自分の身なりを恥じた。毛玉の目立つパーカーで来ていい店ではなかった。

「ごめんなさい。出直します」

 酒を浴び続けてやけた喉で、なんとかそれだけ言って踵を返そうとした。バーテンダーはしかし、落ち着いた動作で私の腕を掴むと、

「大丈夫です。ここにあなたを笑う人はいませんよ」

 そう言って店内に目をやった。つられてそちらを見ると、みな私のことなど気にも留めず、酒やタバコを楽しんだり、隣の女を口説こうと息巻いたりしていた。

 ね、とバーテンダーは柔い目で微笑み、私をカウンターの端に座らせた。

「なににしますか」

「なんでも。強い酒なら」

 酒焼けの声にバーテンダーは一瞬だけ眉を曇らせたが、何も言うことなく、

「分かりました」

 といくつかの酒を優雅な手つきで混ぜ、細いグラスに注いでくれた。毒々しいほど赤いカクテルは、それなのに口触りが滑らかで、それなのに強い酩酊感を与えてくれた。

「お姉さんのこと、なんて呼んだらいいですか」

「鎌田でいいです。あなたは?」

「姫川です。でもあまり苗字は好きじゃないので、雅って呼んでください」

 確かに彼女は姫というには凛々しく、雅やかであった。名付けた両親には未来視の能力でもあったのかもしれない。

 その後いくつかの会話をしてから、雅は私の元を離れ、他の客の相手をしに行った。やはり誰にも好かれているようで、何人かの客からは露骨にセックスアピールをされていた。雅はそのたびに少し困った顔をして、それでも期待を持たせるような言葉を使って、うまく断っていた。

 何度か私のところに戻って来てくれたが、その度に言葉に詰まった。彼女の声に聞き惚れていたのだ。その点、私もあの下品な客の一人であることが悔しくてたまらなかった。

 酒を飲み干し、グラスについた水滴を嘗めるような時間が続いた。最後に雅の声を聞いて帰ろうと待っていると、目敏く気づいた雅が戻ってきてくれた。

「おかわりはされますか?」

「いや、もうやめとく」

「そうですか……」

 雅は本気で悲しそうな顔をした。後ろ髪を引かれる思いを振り切りながら、私は席を立った。

「最後に一ついいですか」

 背中にかけられた声に、鼓動が早まるのを感じた。もしかしたら恋人の有無で尋ねられるかもしれないという期待と、私が他の客を睨んでいたことを注意されるかもしれないという不安が、不安の比重の方が大きく、私の中で膨らんだ。

 しかし、飛び出した言葉は、

「このお店ってどうですか?」

 というものだった。

「どうって……」

「今日初めていらしたのに、こんな質問答えづらいかもしれないんですけど、できるだけ色んな人の居心地のいい店になってほしくて」

 言われて、もう一度店内を見回す。暗い照明。控えめな音量で鳴る似合いのジャズ。よく磨かれたカウンター。周囲と隔絶されたボックス席。

「落ち着く店だと思うけど」

 率直な感想だった。

「さっきも話したけど、私学芸員でさ。洞窟に行くことも結構あるから、こういうところ好きだよ。落ち着く」

 雅はホッとしたように、あの上品な唇を緩めた。

「それならよかったです。私、いつでも鎌田さんのこと待ってますから。これからも通ってくださいね」

 ただの営業トークなのは分かっていた。でも酒や雰囲気を、あるいは、涙の枯れるまで泣いたいくつもの夜を言い訳にして、彼女の上品な唇を、目を、その奥にあるものをすべて、自分のものにしてしまいたくなった。

 さっきまで蔑んでいたあの客たちと同じ視線を、雅に向けてしまっていることに気がつき、そして雅もそれに気がつき、あの困ったような顔で笑った。

 私は顔から火が出る思いだった。いやいっそ私の下劣な目を、鼻を、歯を、焼いてくれたらいいと思った。

「もうここには来ません。不快な思いをさせてすみませんでした」

 早口にそれだけ行って店を出た。

 このとき、追いかけて来た雅が私の腕を掴んだりしなければ、あの低い声で甘やかな言葉を囁かなければ、私がその声を受け入れなければ、電話番号を渡されなければ、それを捨てていれば、電話しなければ、ホテルになんて行かなければ、行為に及ばなければ、付き合ったりしなければ――元恋人と洞窟で遭難しなくても済んだのかもしれない。

 あの時の喜びと快楽の延長に、足の骨を砕き折った今がある。


 その夜から私と雅は付き合うようになった。正確には夜ではなく、翌日の早朝だった。私たちは互いの体を、とけてなくなるほどに舐め、バラバラに分解するほどに噛み、体力の続く限り求め合った。最後はほとんど意識のない状態で、腰回りに鈍痛すら感じながら、それでも互いを貪ることだけを考えていた。

 これほど優越感と承認欲求の満たされる夜は、後にも先にもこの一回だけだった。疲れ果てて眠る雅の髪を撫で付けながら、私は下卑たあの客に、雅の元恋人に、世界中の恋に恵まれない人々に、心の中で勝ち誇っていた。彼女の唇や、視線や、そこから発せられる愛情と紐づけられた一切合切は私だけのものになったのだ。

 本当に幸せだった。過去の恋愛が全て、遠い思い出として流されてしまうくらいには。

 そして本当に不安だった。こんなにも幸せで、私は後の人生全てを不幸なまま過ごさなくてはならないのではないかと。

 そしてそれは間違っていなかった。

 順調なのは一ヶ月くらいで、徐々に雅と合わないことに気づかされた。些細なものまで挙げればキリがない。礼儀作法や、政治への関心や、支持する政党、政策、人前で手をつなぎたいか、キスの長さ、爪の切り方、ため息をつく回数、寝息の匂いに至るまで、とにかく私たちは相入れなかった。

 最も大きな差は、子どもを欲しがっているかどうかだった。私は生まれたときから子どもを欲しいと思ったことは一度もない。雅は生まれたときからすでに子どもを欲しがっていたのではないかと思うほど熱烈に子どもを欲しがった。それを私の前で口にする残酷さに気づけないはずはなかったのに。

 三ヶ月も経つころには、互いが義務付けられたような連絡を送り、月に一度だけ会い、恋人である証明のようなセックスをした。子どもを成さないセックスに雅はうんざりした様子を見せ、私も彼女の自己意思のなさに辟易していた。もはや互いを求め合うこともなく、上澄みだけを掬う淡白な作業に成り果てていた。舐められ、噛まれ、吸われ、指で弄ばれているとき、感じているふりをしていたのは、雅も同じだっただろう。

 あらゆる物語が教えてくれるように、奢侈を尽くした者の道は破滅しかない。早朝のベッドの中で優越感に浸っていた私には、そして男と浮気をしていた雅には、これが相応の報いなのかもしれない。


 浮気の発覚から別れるまではそう時間は掛からなかった。もともと気の変わりやすい私と、バイセクシュアルの雅が、恋人関係の自助努力を放棄していたのだ。浮気は始まるべくして始まって、関係は終わるべくして終わった。

 浮気を疑うきっかけは、間抜けな彼女の癖だった。会わなかった時間なにをしていたのか、行為を終えたベッドの上で義務感から聞くと、必ず彼女は視線を右上に逃して、髪をかき上げた。そして当たり障りのないことを言って、話題を変えたがった。スマートフォンを盗み見て証拠を手に入れるまで、さして時間はかからなかった。

 浮気を責める気は起きなかった。私も他の女に手を出したことは何回かあったし、相手が仕事の上司の男であったからと言って責められるわけでもない。

 本音を言えば、私はもう少し私自身に期待していた。浮気を疑っていたときから、決定的な証拠を見つけたらきちんと傷ついて、雅との別離を悲しめると。

 しかし証拠を見つけてから私がやったことといえば、当てつけのように、雅とは正反対の、肉付きがよく、身長が低い、チワワのような女をたらし込むことだった。

 雨の日のコインランドリーで出会った女子大生もその一人で、名前を友梨奈と名乗った。口が固く、指を入れてもなかなか声を出そうとしないくせ、ホテルを出る段になると、堰を切ったように話し出した。

「鎌田さんの中にはずっと、雨が降っているみたいですね」

 いやに詩的な言い回しに、古典文学が好きと言っていたことを思い出した。何かの引用かと聞くと、彼女は首を振った。

「そのままの意味です。私のこと抱きながらずっと悲しそうにしていて、この人には傘が必要なんだって」

「あなたがその傘になってくれるの?」

 冗談めかして聞いた。友梨奈は真剣な顔でまた首を振った。

「わたしにはその役目を果たせません。鎌田さん、恋人いるんですよね。大丈夫です。何があったかは分かりませんが、きっと上手くいきますよ」

 二十歳の女の子に慰められ、私は不覚にも涙ぐんでしまった。恋人の浮気には泣けなくても、人の優しさには泣けた。

 それだけで私の心は決まった。

「ありがとう、友梨奈ちゃん。でももう別れるから。傘がなくたって大丈夫よ。私、雨好きだし。私のは浮気だけど、あの子のは本気だから」

 友梨奈と別れた後、私は雅へ電話をかけた。電話を嫌っていたことを思い出したのは、不機嫌そうな声が応答してからだった。

「なんですか」

「前から言おうと思ってたんだけどさ」

 この時点で察していたのだろう。雅は口を挟もうとすることさえなかった。

「もう別れよう」

 一瞬だけ間があった。しかし雅は会ったときから変わらず、今なお私が好んでいる、低く芯の通った声で、

「分かりました。今までありがとうございました」

 と言った。そのまま電話は切れた。連絡先はすぐに消した。

 かげろうみたいな恋はそうして終わった。

 傷ついていないはずなのに、こうなることを望んでいたはずなのに、心は空しさでいっぱいだった。友梨奈がいたら、私の中に凪を見たかもしれない。

 それ以来、私は心の間隙を埋めるため、またがむしゃらに仕事に打ち込むようになった。私を見放した上司はいつの間にか退社していて、労働環境は随分と良くなっていた。

 ビアンバーに行くことにも抵抗がなくなり、今では馴染みの店が何軒かあるほどだった。そこで知り合った女としたりしなかったり、友達になったり、恋敵になったり、果ては複数人でやってみたり、何一つ不満のない、規則的で爛れた生活を送っていた。

 しかし日が経つにつれ、かつての鬱が姿を見せた。養分となる怒りも、悲しみも、喜びも、何一つないところにすら、彼はでかい顔をして居座り、すくすくと成長した。次第に気力は削がれ、死への渇望は強くなり、雅と別れてから三度目の梅雨に入ったとき、仕事も、バー通いも、セフレも、全てを放り出して、狭い部屋で一人、鬱を睦み続ける生活に転がった。

「あなた、人生に迷ってるのよ。それなのにあたしを、かがり火を失って、どうやって生きていくつもりなのよ」

 一番良くしてくれた人妻は、私が別れを告げると一方的に怒り狂い、泣き喚き、最後には鼻水をダラダラ垂らしながらそう言った。

 私はその直前まで、彼女への申し訳なさと愛おしさでいっぱいだったが、その言葉を聞いた途端に冷めた。

 まるで分かっていない。私があなたのかがり火であっただけで、あなたが私のかがり火であった瞬間なんて一度もなかった。空しさだけを詰め込んだ心の苦しみを、離別を悲しめない悲しみを、耐えるための強さを与えたのは、煌々と淑やかに輝く、あの洞窟のような店で感じた、顔を焼かれるような恥だった。かげろうのように刹那的な、黒点のように燃えたぎった、あの一夜の幸福だった。優柔不断な雅の笑顔だった。あの一回が、私をここまで生きながらえさせたのだ。

 私は人妻にいくらか金を包み、もう二度と会わないことを誓わせた。

「あなたは錯乱してるわ。いつか後悔するときがくる」

 憐れむように言い捨て、彼女は去っていった。

 私は錯乱している。血迷っている。道に迷っている。それは分かっていた。死にたいのに死んでいない、生きたくないのに生きている私にはけじめが必要だったのだ。一人になればいずれは死ぬ。私は私を看取るために、数珠の代わりに鬱を引っ提げ、そのときを待っていた。

 だが、だらだらと続いた夏が、秋の忍び足に姿を消そうとしても、私は依然として死ねず、恥じらいもなく生きていた。このころになると鬱の方からも匙を投げられて、もはや死ぬことも生きることも諦めていた。

 そんな折、雅から電話があった。

 あれだけ電話を嫌っていた彼女が、私に電話をよこした。そして、あの芯の通った低い声で、私の唯一嫌いになれなかったあの声で、数年ぶりに私を呼んだ。

「鎌田さん、私を洞窟に連れて行ってくれませんか」

 

 翌日。軽装の雅は、やつれた顔とやけに大きなボストンバックを引っ提げて、私が指定した森に現れた。

「久しぶり。痩せたね」

「鎌田さんこそ、具合悪そうですよ」

 お得意の困ったような笑顔で、雅は言った。やつれていても、瞳と唇には愛らしさと上品さが漂っていた。

「それ、重そうだけど、中身はなんなの」

「……必要のないものです」

 雅は煩わしそうに肩を動かした。それ以上追求はしなかった。ただ、重たいボストンバックは、体制を崩させるのにうってつけだと思った。

「なんで洞窟になんか来たの?」

 本当は電話があったときから薄々勘付いていたが、私は尋ねた。目的を悟っていることを悟られたくなかった。

 雅は間抜けな顔で髪をかき上げ、

「気分転換をしたくなって」

 そう言った。

「私、あのあと結婚したんですよ。浮気相手の男と。彼は同性愛者を心底嫌っていて、ちょっと前にそれがバレちゃった。なんでだと思います?」

 私は少し笑ってしまった。

「私が電話をかけたからかな」

 実は規則的で爛れた生活を送っていたとき、一度だけ雅に電話をかけたことがある。部屋の掃除をしていたら、はじめて会った日に渡された電話番号を偶然見つけたのだ。

 今さら復縁をしたかったわけではない。ただ、もし電話が繋がったら友人くらいには戻れるのではないかと思った。

 結局電話は繋がらず、最後の連絡手段であったその紙も捨ててしまった。

 今になって思うと、あれがきっかけだったのかもしれない。無意識のうちについていた傷を化膿させ、鬱を再発させたのは、あの軽率な行動だったかもしれない。

「あの電話、そんなにまずかったんだ?」

 雅は頷いて、へらりと笑った。

「それからはずっと喧嘩の毎日ですよ。彼が鎌田さんに電話をするって聞かなくて、阻止できたからよかったけれど、もう少しで修羅場になるところでした」

 そうなった未来を想像して、今よりはそっちの方がマシだったかもしれないと思った。

「だから、理由があったわけじゃないです」

 雅はまた髪をかき上げる。やつれた体躯も、喧嘩の毎日も、全て私のせいなら、どのように恨まれていても不思議ではない。

 だから、彼女の不器用な嘘も、杜撰な計画も、全て許そうと思った。

 元恋人に殺されるのもそんなに悪い死に方ではない。私たちの命を照らしたかがり火の思い出には、それだけの価値がある。

「それじゃあ行きましょうか」

 雅は覚悟を決めた目を森の中へ向けた。

 このとき、洞窟での注意事項を伝えていれば、彼女のスニーカーがすり減っていることに気が付けば、私が不眠症でなければ、この洞窟以外を指定していれば、今ごろ、雅は温いベッドの上で、私は冷たい石の上で、眠っていた。

 でも、そうはならなかった。フェンスの奥の、森の奥の、洞窟の奥、私は寝不足から足を滑らせ、雅は咄嗟に手を伸ばし、手近な石に体をぶつけ、彼女も足を滑らせ、そのまま地下奥まで転がり落ちた。

 幸か不幸か、死ぬことはなかった。ただ、私の足の上に石が落ちただけだった。足の骨が砕けただけ。雅に責任を感じさせただけ。二人で出口を目指して歩き、疲弊し、口喧嘩をして、私を置いていかせただけ。お互いの目的を果たしただけ。

 あとには死だけが残っている。


 しかしいざ死の実感が真隣に迫ると、恐怖が襲いかかってきた。感覚が蘇った足には気が狂いそうな痛みが宿り、私を殺すのに力を貸した。

 まだ死にたくない。いつも一人の部屋で思っていたことだ。もう死にたい。これも本当に思っている。

 死にはいつだって、痛みを先頭に、恐怖と安寧が互い違いに並んでいる。

 そういえばあのボストンバックはどこにいったのだろう。

 私は、雅がボストンバックを持っていなかったことを思い出した。それなりの重さがあったから、なにか役に立つものが入っているかもしれない。死の予感から気をそらせるもの、あるいは死により近づくことのできるもの。

 私は這々の体でぬかるんだ道を引き返した。人生もこうして引き返すことができたら、幾日幾夜の私が救われたか分からない。少なくともこうして、脳を焼くような痛みを生やした足を引きずらずに済んだ。

 ボストンバックは私たちが転がり落ちたところに放置されていた。痛みはいよいよ脳を焼き切ってしまいそうなほど強くなっていて、私は中身が何であるかも気にせず、しがみつくようにして口を開けた。

 その瞬間、痛みを忘れた。恐怖だけが残った。

 ボストンバックの中には、産着に包まれ冷たくなった胎児が収められていた。

 なぜ、こんなものが……

 答えはすぐに分かった。

 同時に、どうしようもない笑いが腹の底からこみ上げてきた。笑うたびに喉がひきつり、腹がよじれ、身体の振れは砕けた足を痛めつけたが、なかなか収まらなかった。

 やがて涙がにじんだ。溢れ出したらもう止まらなかった。

 本当は薄々勘づいていた。かげろうの恋に、かがり火の思い出に、私自身の命に、価値を見いだしていたのは、私一人だけだった。でも、それを認めてしまっては本当に傷ついて、本当に死んでしまうことになる。だから私は目を背けるために鬱を飼って、傷ついて、現実逃避のために死にたがっていた。

 でも彼女の愛の行き先を目にしてしまったからには逃れられない。男を作って私を捨てた雅は、子どもを作って、今度はその子どもまで捨てた。あれだけ好きと言ってくれた私を捨てたように、あれだけ熱烈に欲していた子どもを捨てた。

 すべては浮気相手の男に捨てられないために。

 もちろんこれは全部想像だ。もしかしたらのっぴきならない事情があったのかもしれない。どうしても、愛していた元恋人に頼ってまで、愛する我が子をボストンバックに詰め込んでまで、こんな洞窟にまで捨てに来なくてはならない事情が。

 しかし雅は、私のために夫との修羅場を作ってくれることはなかった。子どもの入ったボストンバックをどういう気持ちであろうと必要のないものと言った。最後には一人で、洞窟を出て行った。それが答えだった。

 雅にとっては、私は無価値で、子どもも無価値で、どこの馬の骨とも分からない一人の男だけがかがり火だったのだ。初めから私を殺すことなんて微塵も考えていなかった。ただ生活に要らないものを捨てに来ただけだった。私はそれに利用されただけ。間抜けで夢見がちだったのは私の方だった。雅は私を恨んでさえくれていなかった。

 あるいは、優柔不断な雅が、思い直して迎えに来てくれる可能性を想像する。外はひどい大雨なのか、それとも私の中で聞こえるのか、雨だれの音がうるさかった。 

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濡れぬ先の雨 冬場蚕〈とうば かいこ〉 @Toba-kaiko

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