第17話


 捨てたはずだから、絶対にもうないことはわかっている、わかっているのにここに来てしまったのは、いても立っても居られなくなってしまったからに他ならない。

 滅多に誰も帰ってこない家のポストにどんどん貯まっていく郵便物を家の中にいれる為、という口実を果たそうと、ポストから貯まった封筒やらチラシを取り出す。いつも入っている「家売りませんか」のチラシが1度雨で濡れた後乾いたのか、びらびらと波もようを立てている。

 少しコツのいる鍵を奥に押し込みすぎないように入れて回し、外れるんじゃないかと思うほど立て付けの悪くなった引戸を開け、 郵便物を玄関マットの上に置く。

 いつもだったらここですぐ回れ右して帰るのだけれど、今日は靴を脱ぎ、日の当たらない階段を上っていく。

 階段を上った正面にある、少し開きづらくなったドアを、詰まった空気を押し出すみたいにぐっと押して開けると、そこは汚いピンクの絨毯が敷かれた部屋だ。

 左側にはテレビのなくなったテレビ台と、右側にはマットレスのなくなったベッドが、捨てられるように置いてある。

 部屋中をざっと見回して見ても、水を入れて使うタイプのダンベルだとか、ユーキャンの教材が山程入った段ボールだとかしか見当たらない。

 ベッドの下を覗いて見ると、昔好きだった漫画や本、かつて夫の為に買ったサンタさんの衣装の包装袋などが転がっている。

 黒い服の袖が埃だらけになることを承知で手をつっこんでみても、目当てのものは見つからない。

 ベッドの上にはマットレスはないが、きたない枕だけは置かれたままだ。

 この枕を、彼が使ったことがあったかもしれないが、その後に絶対夫が使っている。

 小さな水色のテーブルもそう。

 この部屋での思い出は全部上書きされていて、ここで彼を感じとることは、ほとんど出来ない。

 やっぱり彼は存在しなかったのかもしれない。いや、確実にしたのだけれど、彼のことを示すものが私にはなに1つとして残っていない。

 昔使っていた携帯電話探しの、続きを始める。部屋の隅にも、テレビ台の後にも、ただ埃が溜まっているだけだ。

 テレビ台の引き出しを開けてみると、ほとんどが空っぽで、大きい方の引き出しの1ヵ所だけに、物が入っていた。

 何で捨てずに取っておいたのかわからない、配線もなくなってコントローラーもなくなったスーパーファミコンだった。


 何故彼に会えないし、連絡も取れないのか。

 私の中にこんなにも彼の思い出と彼への思いが残っているのに、この部屋は何故こんなにも空っぽなのか。やっぱり私だけが非現実なのか。

 子供の頃、お母さんにはもう会えないかもしれないよ、と父に言われたときよりもよっぽど悲しい。

 親なんて、考えてみれば、そもそもその存在を越える人が現れるまでの繋ぎなんだった。

 かつてはそう思っていたはずなのに、どうして自分をそんなに偉大だと思ったんだろう。


 埃だらけのカーテンを少し開けて、空っぽの部屋を後にする。

 遅くなった分、急いで子供たちを迎えに行かなければならない。






 お風呂を終わらせ、ご飯もあらかた済んだ頃、夫が今日あった仕事の話をし始めた。

 私も、今日も職場の人が溜め息ばかりついていて怖かっただとか、友達の家の家計が苦しいらしい、とかそんなふうな話をした。

 こんな風に、ごく自然に自分の話ができるようになったのは、いつからだろう。本当に最近のことのように思う。

 自分のことを話すのはずっと苦手だったけれど、夫が、何度も何度ももっと話して欲しいと言ったので、何故話せないのかどうしたら話せるようになるのか考えた。

 長男が赤ちゃんの頃は、働いていないことを負い目に感じているという勝手な理由で、昼寝ができる自分の生活の話をすることが苦しかった。

 長男が半年を過ぎ、働き始めてからも、冗談を言うのが苦手だからどうオチをつければいいのか、話の途中に友達や職場の人を無断で登場させていいのかもわからなくて、それが不安だった。

 数年前から仲良くなったママ友は、日常のなんでもない写真をよく送ってきた。雪が降っている外の景色や、車に表示されたマイナス何℃とかの気温、食品を何袋も買いだめした買い物袋。それらの写真を見ても、それがつまらないとも嫌だとも思わない。

 きっと夫がして欲しいのはこういうことなんだろう。

 ただ私と何かを共有したいだけなんじゃないだろうか。

 そう思い始めてからはだんだん、自分の話が出来るようになってきたし、夫の話を聞いて相槌を打つことも、難しく思わなくなった。

 「ふーん、じゃあその子の家は今どうやって暮らしてんの?」

 「なんか独身の頃の友達の貯金とか、友達の親からお金貰ったりとかだって」

 友達の家の事情を勝手に夫に話してしまうことにも、今はほとんど抵抗がない。

 「へー、旦那かっこい」

 そう言って夫が笑う。

 「でもさ、勝君も結婚してから長い間ずっと、家にあんまお金入れなかったよね」

 こんなこと、今言うことじゃないかもしれないけど、でも今これを夫にこれを言わないと、今夜もまた彼への思いでつらくなる気がした。

 「あー、まあそっか、そういえば菊池くんがさ」

 「なんでなん?」

 話が変わってしまいそうだったので、大きな声を出す。酔っぱらってるから別に変じゃない。しかも夫は機嫌を悪くするでもなく、へらへらしている。

 「なんで、何度も何度ももうちょっとお金を入れてって、そうじゃなきゃ少しでも家のことをしてって言ったのに」

 何事かと長女がやってくる、夫に抱っこされながら長女が大笑いする。

 「えぇ、ママ泣いてる、パパ、ママが泣いてるのに笑ってるし、でもわかる、私も好きな人が泣いてたら笑っちゃうもん」

 そういうことを言う娘は、好きなキャラクターがトラブルにあっていたら、目の色を変えてすぐに録画ボタンを押すし、病院ごっこをするとやたらと座薬を入れる流れに持っていきたがるし、どう考えてもそういう感じだ。そのどう考えてもそんな感じな所が、彼と重なって胸が苦しい。











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