第14話
洗面所に行って、棚で重なっているタオルの中から、一番マシに見えるものを手に取る。鼻先に当たる布は、乾燥していて固い。けれどにおいは、家のにおいに洗剤がほんのり混じったような感じで、まあ問題ないと判断した。
階段を上がってドアを開けると、雨の香りが濃くなった。
「はい」と言ってタオルを手渡すと、「あー、ありがと」と馨君は言った。
「1回来ただけなのによく迷わなかったね」
そう言うと、「余裕」と、さらっとした声が返ってくる。さらっとしているのに、どこかピリッとしている。透明なサイダーから炭酸が、小さな気泡を立てて抜けていくのを思った。
胡座をかいているから、固そうな紺色のジーパンは真ん中あたりで折れて、内側には窪みが出来ている。
小さな長方形の机の、長い方の前に座っているから、私は短い側に腰を下ろした。
タオルから覗く目は、まっすぐ前を向いているようで、遠くの方を見ているようにも、こちらの方を見ているようにも見えた。
「私なら絶対迷うな、方向音痴だから」
「ふーん」
この人のする素っ気ない返事は、何故か不思議と心地好い。
「さてと」
馨君はそう言って立ち上がり、部屋を見回すようにした後、テレビの下の、大きな棚に手をかけた。空っぽの引き出しは、軽い音を立てながら簡単に、白の中身を見せた。
「ちょっとやめてよ」
「えー」
いるよなあ、と思った。挨拶みたいに人の部屋を物色したがる人。
大してしたくもないのに、しているように見える。
二段目の引き出しに手がかかると、ほんの一瞬、心臓が固くなった気がした。
2年生の頃、ひどく酔っ払った夜に、引き出しの二段目にゲロを吐いた覚えがあった。窓の向こうは確か濃い藍色で、それが天井のの電気と相俟うせいで、目がチカチカしていた。歪む視界に、吐いたゲロと引き出しにしがみつく自分の手と、垂れた髪が映っていたはずだった。
数日後に意を決し、恐る恐る引き出しを開けると、ゲロは綺麗サッパリ無かったのだった。
あれが夢だったらいいのに、が出し抜けに叶ってしまって、行き場を無くした不安や憂き目は、私の周りにまばらに散らばっていった。
あの記憶は夢や妄想ではないはず、を起点に思考を巡らせてみたが、すんなりとくる答えが見当たらず、その後、何度か引き出しを開けてみたりしながら、しばらく不思議に思ったけれど、結局、あの日実際は吐こうとしたが吐けなかったのだ、という結論に落ち着かせることとしたのだった。
今日もやはりゲロの痕跡の全く無い、空っぽの中身が現れた。
馨君は、先ほどの弱い静止を、開けるなという意だとは捉えていないようだ。
開けるのが挨拶で、やめてと言うのも、挨拶をし返したようなものなのだからそうだろう。
「スーファミあるじゃん」
三段目の引き出しには、ずっと昔からそこに入ったままの、年代物のゲーム機が入っていた。
小学3年生のときにこの家を出ていって、高校1年生でまた戻ってきたから、捨てられる機会を逃したのだ。
「あるけど、まだ使えるのかな」
「カセットは?」
「マリオとヨッシーがあるじゃん」
奥に転がった、灰色の四角いカセットを指差した。
「後でやってみよー」
四段目に手をかけられたとき、本当の制止をした。手で引き出しを押さえた。
「ここはだめ!」
私は自分のテリトリーのこの引き出しに、生理用品のストックを入れていた。大は小を兼ねるから、夜用しか買っていない。大きなそれは、きっと生々しく映るだろう。
「えー、いいじゃん」
そう言いながらも、馨君は引き出しから手を離した。こっちの目を相変わらずあまり見ていなかったから、なにで意を判断したのか不思議だ。
馨君がこちらに体を向けた。
目が合うときにはいつも、うっすらと口元に笑みが浮かんでいるときだと気づいた。
つられて口元が弛んだ。彼に負けてみたらきっと気持ち良いだろうと思った。けど負けるといなくなってしまうだろうから、負けたくはない。
キスをしながら、雨の匂いがまた濃くなったことを思う。視界がぐるっと回って、白い天井に四角い模様がついているのを見た。この模様を頭の中でなぞったときのいくつもの記憶が、単語帳みたいに重なって通りすぎていく。たまたま1番上にきていた記憶が、まるで自分が1番正しいかのような顔をしていたのが気になる。
それは、電話をしていたときの記憶だった。その内容は、寝転がって天井の模様に気をやりながら聞くにしては、いささか真剣なものだった。卒業後の進路の相談をしていた。ほぼ知らないと言ってもいい相手に、だった。車関係の仕事をしていて、ダーツバーを営んでいて、既婚で、27歳だということは、私の頭の中の彼の回りに、ただ文字として浮かんでいた。オーダーを取っている最中に連絡先を聞いてきた男だった。ダーツバーには、1度だけ妹と行ったことがあった。その時そこには、足の不自由なヤンキーと、髪を長く延ばした鮨屋の跡取り息子と、ニートのゴト師だという、男の連れがいた。妙な感じだった。今まで生きてきて、すれ違った覚えのない人たちが、当たり前みたいにそこに泳いでいて、夜の闇はこんなものまで隠していたのか、と瞠目した。眼鏡越しにぎょろっとした目をこちらに向けながら、働かずに生きていけることが本当の賢さだと語ったニートのゴト師は、妹の舌ピアスをいたく気に入っていた。
「例え辞めるにしても、正社員は1度経験しておいたほうがいい」
男が電話で言ったのは、男の連れが言っていたのとはまるで逆のように思える意見だった。
「それはなんで?」
「バイトとしてやるのと、正社員で勤めるのは全然違うから、どうなるにしても1度は経験しておいたほうが絶対いい」
「なるほど、そうなんだ」
真剣に答えてくれたこと、やたらとまっとうな意見をくれたこと、が意外だったから、有難いその内容をつい、さておいてしまった。
こういう人が、こういう相手に、こういう意見を言うことがある、ということだけしか身出来なかったから、何人もの大人に相談に乗ってもらってもなお、私は進路の何一つも決めれていない。
勝てる要素があるかどうかはともかく、負けっぷりでどれほど馨君を喜ばせることができるかどうかにかかっているような気がした。こめかみがギンとするような痛みが胸に走っている。本当かどうかわからないけど、馨君はメールでSだって言っていた。噛まれるのが嬉しいのは、喜んで貰えるかもという期待からと、私がMだからの両方だった。
愉快そうな表情が浮かんでいるのを見ると、私も嬉しかった。私も馨君も、こういう行為が好きな人たちだ。
頭に血が上っているような気がして、真っ逆さまに落ちていく想像に駆られたけど、実際には、背中も腰も、少しかたいベッドに支えられていた。しがみついてもいい腕もある。
止めてと言っても止めないで欲しくて、止めてと言わないでも、止めておいて欲しいという、ややこしい希望は、不思議と叶っていっている。
背中を触られながら、近づいた。
ただ、お互いに好きな行為を楽しめればそれでいいと思っていたけれど、なんか声とか聞いてるだけで全然満足と微笑まれると、一瞬だけれど欲を感じた。
馨君は神様を知っているんだろうか。
テレビ画面を見ながら待っている。
真っ暗な画面が、ただの真っ暗に見えないのは、これからなにかが現れるかもしれないと思っているからである。しかししばらく経っても画面は黒いままで、ただの、なんの信号も受け取っていない入力切替画面だったのだと知る。仕方なくカセットを差し直し、電源を入れ直す。気持ち大げさに電源ボタンをスライドさせると、鳴るカチッという音が大きかった。10年ぐらいぶりなのだから、少しぐらい大げさにしないと、スーファミも気づかなさそうだと思っている。
「もー、ちょっと貸して」
この動作を誰がしても変わらなさそうだけど、そう言うので交代した。
自分のゲーム機みたいな風情で、何度か馨君が操作を繰り返すと、ピコンという音ととももに、白い小さなNintendoの文字が現れた。
「おー、懐かし」
馨君は楽しそうにゲームをプレイした。
このゲームをやったのはだいぶ昔のことだろうに、手際がやたらと良かった。
「ここに裏ルートがあるんよ」
そう言うと、星の形のステージが現れた。このゲームが流行ったのは、確かまだ小学1、2年の頃だった。その頃私は5つ程ステージをクリアしただけで先に進めなくなった。ヨッシーにりんごを食べさせるミニゲームしかすることがなくなり、飽きてプレイするのをやめた。男の子だと幼い頃からこれ程ゲームをやり込むものなのか、それとも上のきょうだいがやっているのをよく見ていたのか、想像していると、細い枝の先に青い葉々を生やした木の、年輪の一部を見せられたような気になった。
星のステージの先に現れた、他に比べると大きめの建物は、クッパ城らしかった。
このゲームをクリアするという概念すらなかった私は、ものの30分程でそれが現れたことに驚いた。
知り尽くされているマリオが少し羨ましかった。私もこのようにお見通しにされてみたいが、それでも好かれていれる自信なんてない。何故マリオは10年経ってもこんなにも覚えておいて貰えるのだろうか。たくさんのステージがあるからだろうか。年輪の一部となっているからだろうか。ゲームやパチンコにあって、私に無い物は、なんなのだろう。
目の前の顔は、やはりうっすら笑みを浮かべている。もっと愛想よく微笑むか、もしくは仏頂面でいればいいのに、と思うと、首の後ろを優しく引っ掻かかれたような気になった。
足の裏に細かい凹凸を感じていた。
観察して、研究しなければならない。首元はどう動くのか、唇はどう反応するのか、前の時より少し緩んだ目元から読み取れるものは何か。ぬくもっているかのような空気に、ただほだされているなんていけない。そんなものはクツクツ笑いに代えて、斜から味わえば十分なはずだ。
馨君がドアを開けると、雨はすっかり止んでいた。
目に見えない程の、ほんの小さな雨粒か混じっていそうな風だけが吹いている。
家々の隙間や遠くの空は、白で覆われているけれど、昨日のように暗くはなかった。太陽がひそやかなだけの、ちゃんとした朝である。駐車場の屋根の下にある、えんじ色の自転車が、首をかしげながら乗り手を待っている。サドルにはほとんど、水滴はついていないようだ。
時計の針を思い浮かべていた。段々と離れていく後姿を見て、すれ違いざまの一時だったのだと知ったからだ。
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