第13話




 きれいに全体がくすんだ洗面台は、日に焼けたようなクリーム色をしている。

 隣にある洗濯機の上の棚に置かれたバスタオルからは、魚の煮物みたいな生臭い香りが立っている。

 台の棚の左側にある取っ手を開くと、そこには小さな楕円形の穴が4つ並んでいる。今は白にピンクのラインの入った歯ブラシが1本差し込まれているが、ここに小さな歯ブラシをぴったりとはめるのが好きだったと、その穴を見るたび毎度、一瞬の懐かしさを感じる。

 鏡の前にあるスプレー缶には、細い斜めの書体で"白髪かくし"と書いてある。まるで「白髪かくしです」、と丁寧且つ控えめに、両の手を添えて差し出しているかのようなデザインだが、あいにく私はこれを白髪隠しには使わない。

 少し下を向き、目線だけ鏡の方にやりながら、前髪の生え際の少し上の方、一部分だけ茶色く染めた髪にスプレーを吹き掛ける。そうすると黒く細かい粉が舞って、茶色部分がテカテカした黒色に染まる。

 左右上下角度を変えて、茶色が残っていないかよくチェックする。

 今日は絶対に学校に登校しなければならない日だった。

 少しでも残っていたら、それだけでえらくめんどくさいことになるのだ。




 朝の白い空が広がっている。

 午前8時前という時間帯でも、家の前の通りはしんとしている。

 周りには、まるで住んでいる気配を消しているような家ばかりが並んでいる。

 どこからかほんの少し響く自然のものではない物音、平屋の小さな窓の磨りガラス越しに見える、ぼやけた醤油のボトルやプラスチック製のざる、緑色の物干しでひらひら揺れる、くすんでいるのにバリエーションは豊かな色の布々だけが、静かにそこにある。

 通りを抜けると、吸い込む空気に排気ガスが混じってくる。

 すれ違う為に停まっていた車の脇を曲がる。

 等間隔でコンクリート上に空いた小さな穴に自転車のタイヤを滑らせると、ポコっという気持ちの良い音がする。

 このコンクリートの下の空間は結構広くて、底には水が流れていることを昔から知っている。

 でも絶対に崩れて下に落ちたりはしないだろう、という安心感が、アスファルトにぴったりとはめ込まれたこのコンクリートにはあるのだった。

 左側には新築の2階建ての家々が、右側には年期の入った橙色の平屋が並んでいる。

 登っている途中の太陽が、平屋にしては長い影を作りながら、新築の2階部分を光らせている。

 新築側のゴミステーションの手前で一旦停まると、さっきの車が横を通りすぎて行く。

 その白と赤の後ろ姿を見ながら再びペダルに体重をかける。力んだ太ももや膝、ふくらはぎは、冷たい風のせいでぴりぴりしている。

 交差点を過ぎると、少し道幅は広くなる。住宅街の中の、ナンバープレートのない車が並ぶ倉庫を通りすぎ、用水路に沿って進んでいくと、また狭い道に出る。

 その狭い道を、前後にゆっくり進んで行く車の脇を通り過ぎながら進んでいくと、田んぼがある。うっすらと線の残る、もこもことした薄茶色の土に所々、切り取られた後の稲穂が混じっている。つん、とする臭いがかおっているような気がした。

 大通りの手前には小学校がある。緑のネット越しに見える運動場の黄土色は、鼻をむずむずさせる。

 大通りに出ると、車のタイヤの音やエンジン音が、ずいぶんと大きくなる。ここまできてやっと、歩道が現れる。自転車同士も余裕ですれ違える幅の広い歩道に、すんなり入っていく。ずっと真っ直ぐ進んでいくと、横断歩道の手前でちょうど、信号が赤に変わる。

せっかくなので、ここで右側に渡っておく。

 やっと体が暖まった矢先に、目的地は現れる。現れたと思ったら長い体育館があって、その先がやっと校門なのだった。




 「やっぱり歯科専門学校も辞めます。」

 持ってくると言った書類の影も形も、私の両手にはない。だから、職員室に入ってからこれを言うまで、短い間ではあったが居たたまれなかった。

 「ああ、そう」

 そう言った担任の先生の椅子の、灰色のつるっとした背もたれから、きい、という音がする。

 口の片端がほんの僅かに曲げられている。

 片目が、ほんの少し押し上げられている。

 進学すると言ったときあんなに喜んでいたにも関わらずその一言しか返ってこないことに、そんなことだと思ってた、はなから期待してなかった、あなたのことで心情を左右されたりはしません、の三つの意があるように思える。

 私は視線を少し下に落とした。なるべく自信なさげに見せたかった。内心、あれこれ理由を聞かれなかったことにほっとしている。辞めることのうまい理由は考えてきていなかった。父がやっぱりお金を出してくれなくなった、というのも今更嘘っぽいだろう。つまらない嘘をついていると思われたとき、先生の中で、"わけのわからない厄介な子供"より"ただの餓鬼"が優位になるだろうことが厭だった。

 ただ単にお金を出してくれなくなったというわけではなかった。進学するんだったらこれからは言うことを聞けよ、と言われ、「ならしない」と2つ返事で答えたからそうなったのだ。

 自由を手放すもんか、と思っている。その自由が、父の出してくれる光熱費や家のローンで賄われていることは知っているけれど。


 先生の後ろに着いて、コンクリート色をした階段を上っていく。ただでさえ少し急な階段を一段飛ばしでのぼるから、白のピッタリとしたズボンがお尻の形に押し上がる。その上の方、背中の真ん中辺りまであるウェーブがかった髪は、陽を通さなさそうに真っ黒いのに、やけに堂々と揺れている。いつもそうだ。一度も海外に行ったことがないのに、はっきりと英語を発音するときもそう、部活の顧問をしているテニスの話をするときもそうだし、休み時間にお菓子を食べ過ぎなクラスメイトを叱っていたときもそうだった。体を鍛え、肌を真っ黒くしながらテニスをしているにもかかわらず長く伸ばされた髪は、洋画に出てくる女優みたいにうまいこと波打っていて、それでもその色は日本人を主張するみたいに真っ黒くて、堂々と揺れているのに邪魔をしたりもしないのだ。


 その一段飛ばしを見ながら、なんていうか、体を鍛えているような人間に、自分の気持ちは絶対に一生理解してもらえないと思った。


 とはいえ、体を鍛えていなければ理解してくれるのかというと、それも違う。

 私は、休み時間にお菓子を食べ過ぎだなんていう、簡単で分かりやすい注意を誰かにしてもらうことが出来ない。

 私が誰かと居るとそわそわするのは、その誰かが私と居るとそわそわしていそうだからに他ならない。

 片手間でもいいから、上手く扱ってもらえたら、どんなにいいだろう。

 でも実際は、私は和の中に入れて貰ってはいけない人間で、誰も彼も、私のことをもて余している。

 夜になると、そのことへの寂しさがどこからともなくやってきて、まるで私の中から生まれたかように、胸の中に収まる。暗さは同時に、浮かれた気持ちも連れてくる。2つが合わさると、胸の中は太鼓の音が鳴っているようにせわしない。

 囃し立てられて、誰かしらにメールを送れば、隙間を埋めるみたいなメッセージが返ってきたりするのはおもしろい話だけれど、あの人もあの人も、私じゃないほうが良さそうなのが滲み出ているのだから、つまらない。

 つまらない以上で辛い未満のものってなんなのか考える。

 今までだと考え付かなかっただろうそれが、頭にピンときた。

 それは、"良いものを見つけた"ではないだろうか。


 電話が鳴った。一昨日ぶりの電話だ。ペットボトルが散乱した部屋の、もたれ掛かったベッドの前で、通話ボタンを押す。

 「もしもし?」

 さらっとした声が聞こえる。喉仏の引っ掛かりをあまり感じさせない声だ。一度泊まりに来てからというもの、話す内容は、その声に似合わない生意気さがある。

 この声は良いものだ。調子に乗った話し方も、おやすみと言い合うメールも良いものだ。



 前回の馨君の帰り際には、当然2回キスをした。

 馨君は、玄関に降りて靴を履いていた。灰色のタイルから、小さく砂の擦れる音がした。私は玄関マットの上に立ちながらそれを眺めた。何年も前に母によって買われたのであろうマットは、模様が複雑すぎて細かな凹凸が足の裏に伝わってきた。

 こちらを向いた馨君に少し顔を近づけた。

 唇に感じる感触が、マットの凹凸を消していく。

 唇と唇を合わせるなんて不自然な行為なのに、顔を近づけると、条件反射みたいに馨君は自然とこちらに唇を寄せた。条件反射といってもきっと、本能ではなくて経験から後天的に身に付いたものだ。

 その証拠に、一度離した後、また近づけると、条件反射は一歩遅れた。

 そのことは、私の空っぽさにじんわり染みたのだった。



 踵の部分をつぶしながら靴の上に乗り、がらがらと音をたてながら引戸を開けると、そこには1週間ぶりに見る人物が立っている。

 ざー、という音のするその背後を見ると、透明な壁を隔てた先で降る雨脚は、想像していたよりも強かった。

 馨君の前髪の先は、水分のせいで少し重くなっていた。

 うっすら笑っている。この顔がデフォなのかもしれない。

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