第11話
目の前には水滴のついた角の丸いグラスがある。中には氷も入っている。その水滴をそっと潰しながらグラスを掴んで、口元に運んだ。
耳に入ってくるのは、どう聞いても真面目ぶっているだけの、同じ抑揚とリズムを繰り返す声だ。雑談以外のとき、説教したいとき、教育したいとき、店長はいつもこのような話し方をする。そのように話しながら、目はちらちらと口元ばかりを見ている。開店前の会議の内容を全く頭に入れず、昨夜のことを反芻している私の口元だ。
寝不足なのか、店長の目はいつも血走っていた。肌は健康そうだが、1度真っ赤に腫れ上がっているのを見たことがある。百足に刺されたと言っていたときだ。百足に刺されるとこんなことになるのかと驚いたんだけれど、その顔でお客さんの家まで謝りに行ってきたんだと言われたのにも驚いた。その時のクレームは、私のよくない接客態度によるものだった。店長は文句1つ言わず、説教1つせず、「もう本当に岸本は」と言って笑った。
変だと思った。起こした出来事と結果が伴っていないように見えるとき、そこには必ずなにかが存在している。
私は店長に"おかえし"をきっといつかしなくてはならない。けれど、大丈夫だ。きっとまだ大丈夫。
2人掛け用に思える席は、3人で座ると少し狭かった。隣には杏ちゃんと稲葉さんが座っている。内側に寄せたせいで少し前に出た肩は、隣の2人にぎりぎり当たらない。この肩は、いつもの肩ではなく、昨晩、あの男の子の腕の中に入っていた肩である。
そう思うと、縮めた体が更に一回り小さくなったような気がした。
1枚のハガキがテーブルの上に出された。
「HappyBirthday」のうねうねした文字と、ケーキの絵が目に入る。誕生日の月に送るんだと店長が言う。それが出されたら割引を、というのは、今までの話の中でたぶん唯一頭に入れておかなければならないことだ。
「じゃあ、今日も頑張りましょう」
店長をこなすように店長が言う。
「じゃあ、山咲はモップやって、岸本はトイレ掃除して、俺は席やるわ」
ひょろりと長い腕を方々に伸ばしながら、稲葉さんが言う。
同じように細長い扉を開けようとした杏ちゃんに体をぶつけそうになって、ふふふと笑う。
「なんか今日機嫌いいな、めぐ」
「そう?」
扉を開けるとまず飛び出してきたモップを杏ちゃんに渡して、下の方にいくつか置かれた洗剤の中から、ガラス拭きとトイレ用洗剤を手に取る。
奥が女子トイレで手前が男子トイレだけれど、なんとなくいつも、奥から掃除したくなる。手前からというのは、なんだか心地が悪い。
ドアを開けながら掃除して、きちんとやってますアピールをするか、ドアを閉めて自分だけの空間を作るか考える。
今日は自分だけのトイレにしよう。
ドアが閉まっていくのは、胸を下に向かって撫でられるのと似ている。
さあ、叫んでもいいし変な顔をしたっていい、寝不足だから寝たっていいんだけど、鏡に向かってガラス吹きを吹き掛ける。鏡の隣に備え付けられたペーパータオルを何枚か引き抜いて、形を平らな長方形に整えた後、鏡を擦っていく。
元々汚れていたようには見えなかったし、吹き掛けられた洗剤のせいでぼやけてしまった鏡は綺麗になったのか、そうじゃないのかわからない。
移る顔は、鏡の汚れを探すように上の方を目上げていながら、ちらちらと自分の顔を確認している。
来る前にアイロンをかけた髪が、斜めに分けた前髪が、そのときとほとんど変わらない形を保っているか、一部だけ茶色く染めた髪が、隠れずちゃんと見えているか、を見ている。
前髪に手をかけて、おでこを少し出した。
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