第10話
ふわふわして気持ちが良い。酎ハイ3缶を足早に空にして、4缶目の途中で、そろそろスピードを緩めようかと缶を手に取るまでにじれったい間を開け始めた、そんなちょうど良い頃合いだ。
小さな折り畳み机を挟んだ、手を伸ばせば触れそうな場所に、ほんのり赤くなった頰がある。赤くない部分は、冬だということを差し引いても白い。そのせいで、赤みがより目立つのかもしれない。よく見ると目も薄茶色くて、地毛かどうかわからないが眉や髪も茶色みがかっている。前回見たときには気がつかなかったが、色素が薄めな人なのかもしれない。
気づかなかったのは、距離が今より少し離れていたからかもしれないし、店の灯りのオレンジ色のせいだったかもしれない。
「顔赤いよ」
やっぱりそう言って触ってみる。指が少しあたく感じたそのことよりも、どんな表情をしているかが気になる。目を細めている。甘さを控えたデザートのような風合い。そういえば、冷凍庫にアイスがあったっけ。
「もうやめとく」
ほんの2缶の、空っぽになった缶を見下ろしながらそう言う。
「え、じゃあ馨君」
その名前を初めて口に出すと、一文字の漢字が頭に思い浮かんだ。馴染みのない文字だが、読み方を知っている。最初、ご丁寧に漢字で伝えられてしまった名前をどう読んだらいいのか検討がつかず聞くと、読み方とびっくりマークと顔文字で返事が返ってきたからだ。そっちは漢字、どう書くの?と言われ、父から何度も字画がいいんだと説明され尽くした当て字3文字で返事をした。そんなの知りたいか?と思いながら。
「アイス食べる?」
「やった、いるいる」
喜んでいる。
「冬なのにアイス大丈夫なんだ」
「全然大丈夫、むしろ冬のほうがってぐらい」
「わー、一緒だ」
子供みたいな会話をしている。たいして知りもしないし、これから知る予定もない人と。自分のテリトリーのこの部屋で、午後11時を過ぎた時間に。
みずから仕掛けといてなんだけど、不思議だな、と思う。
上滑りする会話によって、これからしそうなことを、わたしたちはわからなかったで済まそうとしてるんだろうか。
わたしたち全然そんなんじゃないですから。みたいな感じか?
ふふふ、笑ってみる。アキラ君みたいに、口をにっこりの形にしながら喉だけで笑う。
ベッドの横に布団を敷く。それをどのような表情で見ているのか、面を上げていないのでわからない。そっちから誘ってきといてずるいとそう思っているだろうか。でもそれを口に出すような強引さは、この人にはないようだ。それをかがめた頭の、前髪の生え際のあたりで感じている。
「じゃあ、おやすみ」
電気の紐を豆電球になるまで引っ張ったあと、ベッドに入りながら、アイスの会話のときと変わらないような口調でそう言うと、向こうも同じような感じで、「うん、おやすみ」と応じた。けど、少しばかり向こうのほうが白々しく聞こえたことに、ちくりと胸が痛んだ。
だから、間もなくして、自分より少し大きな体が隣に横になったのを感じたときには、ほっとする気持ちを感じた。
背後からお腹のほうに回された手が徐々に上に上がってこようとするのを、一度遮る為に、体の向きを変えた。
「心臓どきどきしてるね」
そう言いながら彼の左胸、私からみると右側を触る。
実際本当に強く波打っていたが、この言葉は機会があれば言おうと準備していたものだ。
何度かキスを受ける。
不思議だ、すごく不思議で変な感じだ。自分の体は今、馨君の腕の中にあった。だというのにそわそわしない。それが、すっごく、変だ。
こんなにそわそわしない相手など、しいて言うなら妹ぐらいだ。でもこの人は私の妹ではなくて、むしろよく知らない相手で、だからこそ不思議で驚いているんだけれど、だからこそ驚いている場合ではなくて、この先の展開について考えなくてはならなくて、言わなければならないことを、言えるタイミングで言わなくてはいけない。
「でも私やったことがない」
語弊がある。なんとなく語弊があるけれど、詳しく伝えるには、生々しいあれやこれやを説明しなければならなくなってしまう。だからそう言うしかなかった。
言い訳をするならば、挿入しなければ、場合によってはあれこれしたって良いと思っていた。だからこそ泊まりに来ないかと誘った。けれど馨君は、驚いたように「そうなんだ」とだけ呟いてその手を止めた。よく見えなかったが、目を丸くしていそうだった。私の言い方に語弊があったせいに他ならない。
どうしたらいいか考えあぐねた。けど面倒になってきて、馨君に背を向けてまま、試しに瞼をおろしてみることにした。背後からは、寝息は聞こえてこない。向こうも考えあぐねているのかもしれない。ぼーっという風の音が、斜め上のほうから聞こえてくる。強風に設定してある、エアコンの音だ。たまに、カラカラという音も聞こえる。自分の中に溜まった埃を嫌がっているのかもしれない。
じりじりと、遠慮がちにお腹の辺りに手が伸びてきた。触っている場所がお腹だということに、遠慮が現れている。うん、お腹ならね、友人とかに触られることとか、ないけど。
手が背中のほうにきた。
背中なら、妹になら触られていたことがある。
まだ小学生だった頃、背中に文字を書き合って当てっこすることを妹は好んだ。けれど私のほうはいつもそれが耐え切れなかった。くすぐったいような変な感じに、勝手に体が動いてしまって、1文字すら耐えられないのだ。
それなのに何度も触られると、つい声が漏れてしまうではないか。
小さく笑っているような、嬉しそうな気配を感じた。また少しほっとした。
胸を触られ始めたときは、ほっとする気持ち半分、めんどくささ半分だった。
でもすぐに、めんどくささが消えていく。
好みだった。
好みだ、とはっきり言える行為に出会ったことがないから、それは明確な形をしていないけれど、好みを体現するならきっとこんな風、という感じだった。
「指は入れたことあるの?」
そう向こうから聞いてもらえて、心底ほっとした。自分の言い方に語弊があったことを、ずっと気に止めていたからだ。
「あるけど」
それにしては、「けど」をつけるなんてずるい言い方だ。
「なーんだ」
目の前の人物は、先ほどまでの遠慮を一掃するような微笑みを浮かべて言った。
そのことにちくりと胸が痛んだのは、何故なのかわからない。
そっから先の行為に好みだとか好みじゃないとかは関係なかった。
どこを見ているのかわからなくなるような目が、さっきまでよりも楽しそうに微笑む口元を見えなくさせる。指が疲れて大変そうだと思っているのに、大きな声が自分から出ていくのが不思議だ。勝手に出る高い声をよそに、頭はこのことの"おかえし"について考えている。私も口や手を疲れさせるべきであろう。
"場合によっては"と思ってはいたが、これを自分から言ったりはしないだろうと思っていた。
馨君を舐めてかかっていた。
それが裏切られたということに、ほんの少し、嬉しさがある。
「口でしようか?」
「口でされるのあんまり好きじゃない」
思っていたのとは違う反応だった。先日、自分の頭を強引につかんで前や後ろに動かしたアキラ君のことが思い浮かぶ。
「そ、そうなんだ」
どう、おかえしをしたらいいかがわからない。
腕枕は好きじゃなかった。初めて私に腕を枕にして貸してくれたのも、やはりアキラ君だった。円柱状の形をしたそれは、自分のものと比べれば太いけれど、かつてなにかで見たことのある、昔の殿様が使っていた細長い長方形の枕よりもよっぽど細くて、きっと同じぐらいに硬かった。
その硬さよりも、しびれていないかどうかが気になった。
しびれてるだろう。だっていつだって、一晩中伺っていたって、アキラ君は寝息を立てたことがなかったから。
どうぞと進めると、馨君は私の枕をあっさり使った。私はその少し下のほうで、馨君の腕の中にただ入っていた。馨君の心臓が、先ほどよりはゆっくりと、しかし相変わらず強く打っているのを、その胸と自分の顔との間で重ね合わせた両手の辺りで感じていた。
体が暖かい。ほんのりと、握った手が皺から湿りを帯びていく。
馨君は少しは眠れたのだろうか。そわそわしないせいで眠りに落ちてしまっていたから、私はそれを知らない。
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