第5話
以前友達に見せてもらったぽこぽこと丸い穴のいくつか空いたものと違い、ギザギザしているうちの鍵を、引き戸の鍵穴に差し込むと、はめ込まれたガラスが音を立てる。今日も鍵をかけ忘れていなかったことに安心しながらドアを開けて、誰もいない家の玄関に「ただいまー」と間延びした声を響かせる。
この間延びには、40分自転車をこいだ自分を労る意味があった。
それでしか、労ってやることができなかった。一息つく暇はない。5時からバイトが入っているから、すぐに準備をしなくてはならない。
1階のカーテンレールに掛けてある物干しから黒のバイト着をとって、湿っていないか確認する。この部屋に似合わない薔薇柄のカーテンは、ほとんど常に閉まったままで埃を厚くかぶっていて、その埃が洗濯物に移らないか心配だ。けど外に干すのはめんどくさいからいつも部屋干しをしている。
服を持って階段を上がり、正面のドアを開けて中に入る。お茶を沸かすのも面倒だから、ヴォルビックとかクリスタルガイザーの空きペットボトルがごろごろその辺に転がっているけど、ここは自分のテリトリーだから片付けない。片付けるのはアキラ君が来るときぐらいだ。だから半年にいっぺんぐらい。
縦長の鏡の前に置かれた、小さな折り畳み机の上のペットボトルを少し避けて、化粧ポーチを手前に持ってくる。
中にあるいくつかの化粧道具、その中からまずファンデーションを取って顔に塗っていく。バイト先の先輩がブログで言っていたのを真似して、まずティッシュの上にお粉を出してから、それをパフに取って顔にはたいていくけど、それで直接容器から取るのとなにか違いがあるか、わかるようでわからない。
チークやマスカラや、アイシャドウも塗って、完成。完璧には程遠い、けれど、どうぞ可愛がっていいですよ、と言いたげな「顔」だ。
家から自転車で10分ほどの場所にある居酒屋。大きな黒い換気扇のようなものがごうごうと音を立てる裏手に自転車を止める。従業員専用の裏口から中に入り、その「顔」のまま、店長に挨拶をすると、にこやかに返事が帰ってきた。
調理場のタイルの床に、汚れた運動靴の底を重ねる。靴の底の型がつきそうでつかないタイルに目をやりながら、この床と運動靴どっちが綺麗か、汚しているのはどっちか考える。
きっとどっちもどっちだ。
1年半以上前、ここで働き始めた初日は、土曜日かなにかで、お客さんが多く忙しい日だった。まだほとんど何も出来ることのない私に「裏からおしぼりの入った袋を取ってきて」と店長は言った。大量におしぼりが入った重たい袋を、余分に3つ程取ってきたとき、「お前は自分で考えることが出来る奴だ」と誉めて貰えた嬉しさはたぶん、もうはるか彼方の星になって消えてしまった。
「お疲れ様です」
キッチンで素振りのようなポーズをしている、店長の腰巾着の先輩にも挨拶をする。丁寧にワックスで固められていそうな髪の先を触りながら「お疲れ」と言った後、また素振りのようなポーズに戻った。
タイムカードを押して、腰にエプロンを結びながら、銀色の大きなキッチンの棚に磁石で止めてあるシフト表を見る。
今日あと来るのは、もう1人のキッチンの、真面目を絵に描いたような先輩と、面白カップルと、モデルみたいに美人の先輩と、洗い物専任のおばあちゃんだった。気を遣う相手は美人の先輩だけ。それもきっと面白カップルの1人がうまいことフォローしてくれそうな感じだ。
予想通り、という感じで、彼女がいると、話の中心は彼女になった。化粧の仕方を見知らぬ人にまで丁寧に教える美人の先輩ですら敵わない。彼氏の方はにこにこと相槌を打っているか、優しく突っ込みをいれるかのどちらかだ。
杏ちゃん。彼女は私より後にこのバイトに入ってきた。家は結構遠くて、いつもバリバリという固いエンジン音を鳴らしながら、原付に乗ってやってきていた。私と一緒で父子家庭。長女。そのことをここで会って間もない頃に教えてくれた。初めてバイトで2人にきりになった日だった。「桜井君の高校の制服好きだから、実は桜井君のことちょっと気になるの。告白してみようかな」というのもその時に言われた。だから実は、二人が付き合った理由のそもそもは、杏ちゃんが私と仲良くなりたかったからなんじゃないかとも思っている。
「いいじゃん」と、その話に相槌をうっている最中、「めぐみちゃんって天然に見えるけど天然じゃないんだね」と言われた。
汚い部分を見せるのが下手な私のことをわかってくれるなんて、と思った。
アキラ君のことをすぐにでも杏ちゃんに話したくなった。「すっごく好きな人がいて、9歳歳上なんだ」
その話をしたときの杏ちゃんの反応は、とても良いものだった。抑揚の効いた声で相槌を打った。反応に困っているような間を、一切開けなかった。私によって断片的かつ主観的に話される"アキラ君"のことを、少し褒めて、「めぐみちゃんは、その人のことが好きなんだね」と言った。
平日で空席だらけのホールから、ピンポンという呼び出し音が鳴る。このメンバーだと行くのは私だ。話の中心の2人を奪うわけにはいかないし、まして私より先に美人の先輩を動かすわけにもいかない。
仕事帰りに見える作業服の男性2人は、予想通りに、「生2つ」と言った。注文を取り終わり、転送ボタンを押すと、キッチン用とホール用の両方の機械から、伝票が出てくる。ホール用のそれを磁石で張り付けて、冷蔵庫を開け、冷えたジョッキを手に取る。斜めに傾けながら注いで、注ぎ終わる少し前に真っ直ぐにすると、ちょうど良いぐらいの泡が立つ。
お盆に置くと、「俺行ってくるわ」と言って、桜井君がそれを手のひらの上に乗せた。
「いらっしゃいませ」と杏ちゃんの声が響いたのは、そのすぐ後だった。入口の方を見ると、お客さんの姿が数組見えた。
裏にいた店長がバックヤードの前の方に出てくる。
「焼鳥盛り合わせ」と言ってキッチンから出された皿をお盆に乗せ、伝票の"焼鳥盛り合わせ"の横にチェックをつけながら、今日アキラ君からメールがあった話、杏ちゃんに出来そうにないな、と思う。それを言ったときの、大袈裟に喜んでくれそうな杏ちゃんの顔を想像しながら。
そんな極小話では済まなくなりそうな、驚きの言葉を聞いたのは、シフト表どおり9時にバイトを上がって、家に帰り、寒いなかシャワーを浴びた後、カピカピのバスタオルで体を拭き、ドライヤーで体を暖めている途中に鳴った電話でのことだった。
「今日行くわ」
「え?今日?」
息が止まりそうな驚き。これが現実なのか、喜んでいいのかわからない。けれどじわじわと、跳ね回りたいような嬉しさが込み上げてくるのがわかる。命が体の中に入ってくる。アキラ君と出会ってから生まれてきたほうの命だ。
「でも、今日って大丈夫なの?」
今日は、水曜日なのに。
「なにが?」
「いや」
あの事は言わない暗黙の了解。それに本当に毎週絶対に決まった曜日に会っているかどうかなんて、私には知るよしもない。
「うれしい?」
「うん、めっちゃ嬉しいよ」
「ふふふ」
きっと、いつもみたいに鼻と喉で笑っている。少し目線を下に向け、目尻にシワを寄せた表情が想像できる。
「じゃあ待っといて」
「うん」
大急ぎで1階からごみ袋を取ってきて、ペットボトルを集めていく。
普段出来ないことがこんなにてきぱきと出来るのは、今だけ体に入れられた命のおかけだ。
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