第4話




 食後、サラダスパゲティのドレッシングのせいで汚れてしまった手を洗いに教室を出ると、その廊下には何故か壁が半分程しかなく、風が吹きざらしだ。

 吹きざらしの上半分からは、コンクリートで出来た中庭と、薄くなった青色の"70"の文字が見える。


 約3年前、中学の制服を着てここに最初に来たときには、こんな廊下にすら、心をときめかせたものだった。

 でも今はただ、冷たい風と水の冷たさが染みる。

 空になった昼食の容器にをすすいでいるクラスメイトに、「なんで捨てるのにわざわざ洗うの?」と訊ねてみる。

 「え、なんとなく」

 その子が答えた後に、にこりと笑い、その容器を教室の蓋のないゴミ箱に捨てるのを、不思議な気持ちで見ていた。

 この教室の中には、私のわからないことばかり広がっている。


 入学式の日、大量に配られるプリントの1つを後ろに回し忘れた前の席の子が、空き時間になって、謝ってきた。「ほんとごめんね」と、両手を合わせ、綺麗に形の整えられた眉をハの字にしながら。


 私には、それに返す言葉が、一切浮かんでこなかった。

 私の1つ後ろの席に座る子が「全然いいよ」と答えた。

 「全然」と「いいよ」の完璧すぎる組み合わせ、全然思い付かなかった。


 私は私が思っていたよりも、遥かに出来損ないだったと、初日から知ることになった。

 少しでも良い位置に着こうと奮起していなければ、ここでは普通に過ごす権利を得ることも難しいのではないか、と思えた。元々"出来る"人達が頑張ろうとしている中、"出来ない"私が並の権利を与えて貰えるはずがない。

 慈悲で、与えて貰えたとしても、全く嬉しくなんかない。


 私にとっては戦場のように思えたそこでは、「先生が入ってきたらみんなでハッピーバースデーの歌、うたおう」の一声で、途端に見事な和が形成された。ただ手持ち無沙汰に、下手くそな作り笑いを浮かべる、出来損ないの私ですら加える懐の深さを持って。

 先生は花束を持ちながら、目を潤ませて笑った。


 私は、1年も経たずして逃げた。逃げて逃げて逃げて逃げまくった。


 そして今、もう残り過ごす時間も少なくなったこの教室には、逃げなくても良かったのではと思えるほど、適度に肩の力が抜けてしまった戦士達が並ぶ。

 「あ、めぐちゃん」

 いつの間にか変なあだ名を使わなくなったクラスメイトが、気楽そうに話しかけてくる。なんだあなたこんな人だったの。まるで、普通の同じ人間のよう。

 次々と進学先や就職先を決めていったクラスメイト達は、ここで過ごすことに、もうさほどこだわっていないように見える。まるでこの場所を捨て置こうとしているみたいだ。





 黒板に書かれた「住居の快適さ」の白い文字にそって家庭科の先生が話す言葉は、ほとんど動いてないように見える唇に反して、すごく聞き取りやすい。けれど、全然頭には入ってこない。

 それは私だけではないみたいで、食後の眠さに耐えかねるように、首をこっくりこっくりさせている子が何人かいる。

 結んだゴムを境にふっさりと広がる髪が、セーラー服の大きな襟の上で上下している。

 目線を下にやると、膝の上で、紺色のスカートのひだが広がっている。

 元に戻らなさそうなこれが、立つとまた綺麗にひだを折ることを知っている。

 机の中に手を入れて、目当ての物を手に取った。周りにぶつけて鈍い金属音を響かせないよう注意しながら、その電源ボタンに触れる。そうっと手前に近づけていくと、濃い茶色の木目に遮られていた携帯電話の画面が姿を表す。

 逃げている間に見つけた仮の住み家が、その中にいくつかあるようで、ない。


 「なんしてんの?」

 それでもそのたった6文字は、心をいっぱいにした。

 向こうから連絡が来ることはすごく珍しい。

 こっちから送っても7割は返ってこないぐらいだから。

 「授業中」

 私が高校生であることなんか忘れていそうな相手に、アピールの意味も込めて返信する。

 この人にとってなんの意味もないかもしれないその1つの肩書きは、自分を不自由にも特別にもする、といまだに少し思っている。

 一人暮らしの女子高生、この人と一緒で片親育ち。自分が持っているそんな設定は、もうとっくに、風の前の塵に同じ、なのに。


 「しまいましょうね」

 聞き取りやすい、年齢のわりに綺麗な声で、先生が言う。

 いつの間にか教科書を片手に横まで来ていた。

 2年生のとき、2週間携帯電話を没収されっぱなしになったことが嘘のような、あっさりとした咎めだけして、黒板の方にまた戻っていった。






 「バイバイ」

 ざわついた教室で、校内にいるのに、もうスカートのウエスト部分を折り曲げ始めたクラスメイトにそう言って手を振ると、「また明日」と返事が返ってくる。

 残り3ヶ月程しかない高校生活、退学にならない為に必要な出席日数の計算は容易で、「うん、また明日」と返事をしながらも、明日は来ないかもしれない、と思った。



 「そっか、授業中か」

 「うん、アキラ君は?」

 そう返事を返したのに、その後の返信はまだない。仕事の手が放せないのかもしれないけれど、そもそも返事がないことがデフォなんだからその理由は気にならない。来たら嬉しいというだけ。

 ただ、珍しく連絡をしてきたその理由を想像しながら、自転車のペダルを踏んでいく。

 繋がっているだけで十分だし、こちらが祈りを捧げているだけで十分だった。





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