第2話

 免許が無事取れた。免許証に写し出された、小さな、今しがた撮ったばかりの写真は、予想を超えてくるだろうと思っていたその予想をも超えて変な顔でがっかりした。




 久しぶりの車での通勤は、もう乗ることはないだろう自転車へのノスタルジーをすっかり消し去る程の快適さだった。

 片足を少し踏み込むだけで、大きく移動する便利さ。その便利さを手にしたら、やろうと思っていたことがあった。


 半年程前から勤めている職場は、彼のかつての家からさほど遠くない場所にあった。意図して選んだというわけではまったくなく、その地域に、勤めたい業種の事業所が多かったからだった。

 帰り道、普段は曲がることのない道を曲がる言い訳を頭の中で考える。曲がった先には、ペットショップの他には作業服屋さんぐらいしかないのだから、「おっとっとー」という独り言しか出てこない。右手にあるペットショップを通りすぎ、転回する為に道路の中央に寄りながら、「あー、こっちだったか」と、独り言を続けた。Googleマップで見たばかりでもその細道は分かりづらく、

「えーっと、えーっと」と更に独り言が続く。

  実際にそこを目の前にしたときは、息を潜め、車の中にいる自分の気配を消した。 

 家を眺め、気配を消す必要がなかったことを確認すると、安心するよりも、悲しくて涙が溢れた。うわーん、と、声をあげて泣いたのだった。明らかに空っぽの家なのに、ポストはご丁寧にビニールテープで塞がれていた。そんなに空き家を主張しなくてもいいじゃないか。そんなことしなくたって、この家が空っぽだということは、わかっている。

 ハンドルを握り直し、泣きながら、かつての彼の家の前を後にした。アクセルを少し踏むだけでよかった。

 これでいいのだ。

 この土地でたまたますれ違う、何億分の1の可能性すら絶たれていることを自分に見せつけて、こてんぱんにやっつけられて、朝昼晩あの人のことを考えて辛くなることもなくなれば良い。




 最寄りの激安スーパーは、駐車場から店までの距離が長い。

 煤を塗り拡げたような汚れがある入り口前には、子供用のイスのベルト部分が擦りきれたカートや、持ち手部分がたまに取れたカートが、寄せ集められたみたいに並べられている。上を見上げれば、年季が入っていそうなアーチ上の屋根には、夏からある虫の死骸が挟まっている。それらの景色が、合間を抜ける寒空をより寒々しく感じさせたとしても、よっぽどダルい日以外はここを利用する。

 もこもこの上着の前を合わせると、あの人はこれよりもっと寒い風を感じながら、今日は暖かいなんて言っているんじゃないかと思い浮かんでゾッとした。その怖さを振り払う為に空想する。

 このスーパーの中に、もしかすると紛れていて、ふと前から歩いてこちらにくるんじゃないか。少し長い前髪のせいで鬱陶しそうに上目遣いしながらこっちを見るんじゃないか。そしたらありったけの笑顔をしよう。


 そんな風な想像をしながら、実際は、彼の顔をはっきりと思い出すこともできない。



 2日分の買い物だけでも、ビニール袋3つ分になった。

 段ボール箱や、ランドセルやらで散らかった玄関は、買い物袋を3つも置けば、ほぼ足の踏み場はなくなる。

 部屋の中に入ると、朝家を出たときのままのリビングが広がっている。

 ストーブの前にある、朝取り込んだ分の洗濯物を、ひとまずソファーの上に上げ、なんだかよくわからない、ハッピーセットだとかのおもちゃを片付けて、クローゼットの中から掃除機を出す。2年程前に買ったこの掃除機は、家にある家電の中では1番新しいもので、いまだにほんの少しは掃除が楽しいという気持ちにさせてくれる。

 昨日の夕方以降に落とされた子供達の食べかすは、床にたくさん散らばっていて、掃除機をかけると、バリバリという音を立てて吸い込まれていく。その間、邪魔な買い物袋を玄関に置いておいても、食材が痛まないのだから、冬は良い。



 保育園のお迎えは、いつも次女が先だった。1階の、入り口から1番近い場所に1歳時のクラスの部屋がある為、通り過ぎて、2階の長女を迎えに行くことがしづらいからである。たまには先に長女を迎えに行ってあげたら喜ぶのではないかと思うが、難しい。

 今日も先に次女を迎えに、たんぽぽ組の教室に入っていくと、先生達からお帰りなさいと声がかかる。

 どう返すのが正解か未だにわからないが、ただいまではないだろうし、「お世話になります」と小さな声で言う。

 私を見つけた次女が、にっこり笑ってわざと逃げようとするのを、先生が「またわざとそんなことして」と言いながら抱き上げる。


 たんぽぽ組の教室を出ると、姉を迎えに行くことがわかっている次女は、私より先を歩き、手すりを上手いこと持ちながらゆっくりと階段を上っていく。

 余計に迎えが遅くなってしまって、長女には申し訳ないが、抱っこしようと手を伸ばすと、その手をはたいてくる次女を、そんなことで振り払えると思っているのか、と、面白く思っていまい、ゆっくり歩くその後を着いて行ってしまっている。

 「お世話になります」と再び口の中で言いながら教室に入って、長女を探すと、棚の裏のほうで、おままごとをしていた。大好きな病院セットが目の前に出ている。「ママー」と微笑んでくれるが、なかなか帰る準備をしてくれないのは、いつものことだった。

 それでいて、最近お昼寝がなくなったからなのか、疲れた顔もしている。「スモック着たら?」「着なーい」というこれまたいつものやり取りをする。「先生さようなら!」という姉の真似て、「ら!」と頭を下げる次女を引き連れて、教室を出た。

 そして、一筋縄ではいかない次女をなんとかしてチャイルドシートに座らせることに疲れはてて、保育園を出る。




 「なんで最近丸くなったの?」

 このところ、より道をせずに帰ってくる夫に、ビールを飲みながら尋ねる。

 こんな質問を急にするようになったのは、自分のコミュニケーション能力に少しは自信を持ち始めたからなのか、それとも心が落ち着かなくて聞かずにいられないからなのか。

 「丸くなってねーよ」

 「なってるよー、前だったらイライラしそうなこと言っても怒らないし」

 さらに、なってねーよと答える夫は、理由を言う気や考える気はないようだった。

 「ねえ、勝君は結婚する前実家暮らしだったから、結婚してからのギャップが大変じゃない?」

 「いや、つーかそんな段階とうに過ぎたけど」

 夫が、訝しげな表情を浮かべている。そりゃそうだ、結婚生活が始まったのは、10年以上も前のことなんだった、と思い、改めて自分の状態のおかしさを自覚する。


 「最近、何か楽しいことある?」

 これは、以前は夫の方から私によくしていた質問だった。

 私が、「お酒を飲んだり、子ども達を見ているのが楽しい」と答えると「すげーな、そんなんでよく生きていけるな」と返ってきたものだった。

 今思えば、その時夫は私に、楽しいことがなくてつまらないと答えて欲しかったのかもしれない。

 「いやー、別にないけど、今度ダイビングに行くのが楽しみかな」

 そう言う表情に、不満な様子は見てとれない。

 けれど、その我が家には不釣り合いなリッチな趣味で、彼がずっと不満に言っていたつまらなさは、本当に解決したのだろうか。


 「そっかー、いいなあ、私はないなあ、皆どうやって生きてるんだろう」

  酔いに任せて、まるで以前の夫のようなことを言っている。

 お酒に酔った人間の発言に寛大な夫が、少し嫌そうな顔をしている。

 「少し前までは、クレヨンしんちゃんってみさえとひろしにとって人生の1番良い所で時が止まってるなあと思ってて、私は長いことそれを味わえてるなと思ってたんだけど、今はなんか違うかもと思えてきた」

 しかし私には、相手が機嫌を損ねると、更に余計なことを言ったりしたりしてしまう癖があった。

 「ねえねえ、なんで最近離婚したい離婚したい言わなくなったのか聞いてもいい?」


 夫は、以前はよく離婚を申し出ていた。

 多分今までで30回以上は離婚したいと言われている。

  私は、理由のいまいちはっきりしなかったその申し出に、今までで1度しか同意をしたことがない。

 拒否するときによく言っていた、「だって勝君、本当は離婚したいと思ってなさそうだもん」という自分の言葉が、もしかしたら思い違いだったのではないかと、最近思い始めた。

 「えー別にそんなに言ってなくない?」

 「言ってたじゃん、涼ちゃんができたときなんか、認知すらしたくないって」

  怒らせないように笑いながら言うと、罰が悪くなったのか、夫も誤魔化すように笑う。

 「あー、まあ歳とってなにもかもどうでもよくなったんだろ」

 自分でもはっきりとはわからないが、夫から聞き出したい言葉があるような気がしている。

 「なんかちょっと思ったのは、菊池君のとこが実際に本当に離婚したから、言えなくなっちゃったのかなって」

 そんな本心を隠す為の言葉を添えると、それにも夫は、「いやーどうだろ」と曖昧に返し、逃げるように娘たちのいる部屋のほうに行く。

 「あーちゃん、何してるのー?」

 デレデレした顔で話しかける夫に対し、

「パパあっち行って!」とその頬を叩きながら、長女は長女なりの愛情表現をする。

 「痛い、なんで叩くの」

 痛くなさそうな猫なで声でそう言った夫を娘がさらに数発叩くと、最後の一発が、ぱん、という子気味の良い音を立ててクリーンヒットした。

 娘が、やばいという感じの高笑い声をあげる。

 「いったあ、もう許さん」

 そう言いながら夫が、かなりゆるいプロレスワザをかけて、娘は笑いながら、あっさりと、私が悪かった、と言う。


 「もー、大丈夫?2人とも」と言って笑ってみながら、私はテーブルにいくつも転がる、空っぽになったビールの缶を片付け始める。

 夫が集めている、空き缶のタブを、申し訳程度にいくつか取り外しながら。








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