忘れられない人
@kumonooukoku
第1話
ドライバー歴11年目にして突然に免許を失った。
この免許証半年前に切れてますけど、とにべも無く警察官に言われたとき、とりあえず道路の端の側溝の、灰色の蓋の上にしゃがみこんで、夫に電話を掛けた。
「無免許運転ということになると、2年は免許が取れないかもしれない」そう言うと、夫は驚くでも焦るでもなく、調べてみると早口で言って電話を切った。10分程後にかかってきた電話で言うには、今回の場合は、わざとではないし、失効してからの期間もそこまで長くはないので、無免許運転扱いにはならないだろうとのことだった。
何故更新をしていなかったのかを警察官に聞かれ、免許証の住所変更をしていなくて更新のハガキが来ず、期限切れに気づかなかった旨を、なるべく必死に見えるように伝えた。そうすると、不承不承という感じでもって、免許証の裏にボールペンで「うっかり失効」と書かれる。
こちらはというと、予想通りの結果を、有難いことのような反応で受け止める。
警察官は、免許センターに行って免許を返却した後、また免許の取り直しをするように言った。
最悪の事態は免れたが、私の住む場所は、ほどほどに田舎である。免許を再取得するまでの数ヶ月とはいえ、車のない生活は想像するだけでもキツい。下から1歳、5歳、11歳の子供もいる。パートだけど、仕事もしている。職場もそんなに近くない。早く再取得する為にお休みも多く貰わなくてはいけない。今まで何度も子供の熱で休んできたけど、更新を忘れていて免許がなくなってしまったからお休みが欲しいなんて言えない。言うしかないけど。
保育園には歩いて送り迎えをして、職場には40分程かけて自転車で通うことになった。
自転車に乗るのは意外と楽しかった。でも、そう思わないとやってられなかったからかもしれない。取り敢えず、漕いでいる間は色々考えるのをやめて、イヤホンの音楽に耳を傾ける。そうしていると、まるで高校生の頃に戻ったみたいだ。
本当に戻ってしまった。なんでだかはわからない。自転車に乗ってあの道を走ったせいかもしれないし、12年ぶりに自動車教習所に通ったからかもしれない。
自動車教習所に通うには20万のお金がかかった。大きすぎる自分のミスに対して、なにか対価が欲しかったのかもしれない。
だとしたなら、教習所に通う20歳ぐらいの子達を見ると感じるようになった、この悔しい気持ちや羨ましい気持ちは、プラスの価値があるものなのか。わからない。
ただ、直接感じる思いに体を震わせられることが嬉しいのは確かだった。
高校生の頃というより、長男を産む前の自分に戻ったのかもしれない。
子供と自分とが別々になっている。
親というものがさほど偉大なものとは思わなくなった。所詮は自分だと思えた。11年たってやっとこさそう思えたと思った。
卒業検定の日が来た。
この教室に、これほど人が多く入っているのを初めて見た。紐のついたブーツを履いてきている女の子の、コツコツという音がやけに響く。高校生や大学生ばかりの中で堂々と顔を上げられるわけもなく、うつ向きながら48番と貼られた机まで歩いた。
教官が前に立ったのを窺って顔を上げると、目の前に、茶色みがかった頭があった。男の子にしては珍しく、後頭部に丸みがない。絶壁だ。
なんかこういうのを見たことあるような気がする。
そこまで似ているわけじゃなかった。きっと、たまたま昔のことを思い出している最中だったからだ。
風が吹くみたいに、懐かしさがきた。
こちらを見下ろしたその表情を思い出したというより、体に回された腕の感触がよみがえったというより、そのとき感じていた幸せが、ぶわっときた。
なんかまずい、なんかまずいぞ。
だってこの思い出し方は、今胸にきたこの気持ちは、まるで、目の前に居もしない十数年以上昔の知り合いに対する、"好き"だ。
朝も昼も夜も、その人のことが頭から離れなくなった。
目をあまり使わない微笑の、その目がこちらを向いていたことや、後ろから覆い被さった重さが、頭から離れない。
見紛うことのない"大好き"だ
もうずっと遠くにあったはずの思いが、我が物顔でここにいる。なのにその相手は側にいないということが、不思議で、苦しい。
現実のほうから、この思いに近づいてきてくれるんじゃないか。
またいつか会えるんじゃないか。一緒にいれるようになるんじゃないだろうか。
今どこにいるのだろう、と考えた。
きっとこの土地には居ない気がする。私とは違って、全く見知らぬ場所でも生きていける人のような気がする。
知っているのは、高校を卒業後、ものすごく遠くの寒い地方に引っ越していったということだけだった。
その地は、1つの名称で呼ぶにはあまりにも広くて、そこに行ったとしても絶対に見つけることはできない。
あの時言っていた理想に見合うような、美人の彼女を見つけて、それで上手く行かなくなって別れて、結局そこそこだけど気の合う人と結婚でもしただろうか。
年末年始にはこっちに帰ってきたりするんだろうか。
その人の家には一度しか行ったことがなかった。
私の家のほうが誰も居ないことがほとんどで、都合がよかったからだ。
寝息を立てる長女と次女の横で、スマホの明かりが漏れてしまわないように布団を頭まで被って、かすかに記憶に残るその道をマップで検索した。
大きなペットショップが近くにあって、家の前には確か駐車場があった。その駐車場の辺りで借りていた漫画を返したんだった、とその時見上げた顔が、口角が上がっていたのに少し悲しそうに見えたことを思い出す。
車が通れるのかどうか曖昧に思える細い道を、指で何度も行き来し、その場所を見つけた。
ああ、ここだ間違いない、ドアの形で確証を得たが、その人の家のドアの形を覚えていたことを、今認知した。
ドアの先が、思い浮かぶ。
入ってすぐの1階の部屋が、当時はその人の部屋だった。
窓際にはパソコンがあった。薄い白のカーテン越しに、庭が窺えた。そのとき、平日の昼間だったので、太陽が明るいだけの、ごく静かな庭だった。
床は畳で、中央には布団が敷いてあって、大きめの本棚が、その横にあった。
その中にたくさん入っていた漫画のほとんどは、今の彼にとってはなんでもないものなんだろう、と実感する。とっくの昔に、彼のもとを離れただろうか。
現実で近付いてみようとすると、距離は果てしなく遠くなった。
こんなにも好きなのに、もう一生会えないんだ。
目の前に居たことがあんなにも幸せだったのに、もう一生会えないんだ。
信じられない。信じられないと思っていることもまた、信じられない。
馬鹿みたいだけど、顔の辺りにある布団がべちゃべちゃになった。
当時気づかなかったけど、外観の同じ戸建がいくつも並ぶ、その家は明らかに賃貸用物件だった。
マップの左下に出た7年前という文字と写真。その写真を押すと、カーテンも車もなく、外に何も物が置かれていないその家の画像が表示された。
少なくとも7年前、そこは空き家だった。
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