第30話晴れのち虹

 初夏を感じさせる爽やかな朝の光が、眠気にとらわれている呂望リョボウの顔に当たる。


 その眩しさに、呂望リョボウは小さな唸り声をあげ、オモムロを開けた。


 隣には安らかな寝息をたてている少年が一人。


 年の頃14・5歳になる呂尚ロショウであった。


 呂望リョボウ西岐サイキ(後のシュウ)の軍師でありながら、仙界では神官を担っている。


 片や呂尚ロショウは、彼の影武者を務めているが、その正体は畑仕事が好きな、ごく普通の少年であった。


 二人が何故ナニユエそんな関係を結んだのかは、またの機会に話そうと思う。


 さて、呂望リョボウは光に安眠を邪魔されて小さな怒りを感じ、不機嫌な表情カオを浮かべてベットから起き上がった。


 しかし、その感情は窓から遠くに見える畑の緑に圧倒され、瞬時に消えてしまう。


 それは、呂尚ロショウが日頃から手間暇をかけて作り上げてきた風景モノだった。


 そんな日頃からの疲れも溜まっているせいか、なかなか目覚めない呂尚ロショウをじっと見つめ

「若者は熟睡できていいのう……」

と、羨ましそうに呂望リョボウは呟く。


 それと同時に、一日でも早く誰も傷付かない平和な時代が訪れることを願った。


 開かない瞼がヨウヤく開いた頃には、小鳥の囀りまで聞こえ……


「矢張、自然は良い……」


 そう言った呂望リョボウは、大きく背伸びをしたその刹那、思わずを見開いたまま固まる。


 彼のに映ったのは、まだ寝ているかもしれなかった呂尚ロショウが、不機嫌な表情カオをこちらに向けている姿だった。


「おはよう……」


“相変わらず早起きだね”と、掠れた声で挨拶した呂尚ロショウ呂望リョボウ

「起きているなら先にそう言え!」

と、驚きの声を上げる。


「ご免、ご免、怒らないで」


“今度はそうするよ”と、呂尚ロショウは掛け布団を被ったまま謝った。


 まだ頬が膨れている呂望リョボウも、素直に謝罪されたら、いつまでも怒っているわけにもいかず

「次はそうしておくれ」

と、何故か申し訳なさそうにを逸らして言った。


 呂尚ロショウはベットの中で温もりを感じながら、胸を撫で下ろし、カーテンを閉じてくれるよう呂望リョボウに頼む。


 それから、彼は再び眠ろうとして、ゴロンと寝返りを打った。


 だが、一向に光が遮断されないことに、少々苛立ちを感じ、呂尚ロショウは布団からまだ幼さが残る顔を、チラリと覗かせる。


「外は晴れとるぞ」

「……分かってるよ」


 呂尚ロショウは無邪気に笑う呂望リョボウを見て、呆れると同時に二度寝を諦めた。


 それから彼は、寝巻き姿で布団から出した足を、冷たい床に着け、先に窓際に立った呂望リョボウの側に近付き

「本当、晴れてるね」

と、眩しそうにヒトミを細めて呟く。


“畑日和だ”と言葉を付け足した呂尚ロショウ

「会議の前に畑仕事をするとは感心だな」

と、さも面倒臭そうに、答える呂望リョボウ


 そして、彼は間髪いれずに

「畑仕事は会議の後がいいな」

と、空を見てそう提案する。


「えっ、それだと時間が少ないし、疲れて」

「直に雨が降る」

「……えっ?」


 呂尚ロショウ呂望リョボウの台詞に驚きの声をあげた。


「こんなに晴れているのに?」


 思わず反論した呂尚ロショウは、一瞬呂望リョボウに疑いの眼を向け、すぐに外へとヒトミを移す。


 外は初夏を思わせるような風が、優しく吹き始めていた。


 それと同時に、タイミングを見計らい、鳴き始めた小鳥達を一目見ようと、呂尚ロショウは窓にへばりつく体勢で、観察し続ける。


「もっと左かな?」


 なかなか姿が見えない小鳥をとらえようと、葉が生い茂る方へ体を向けていく呂尚ロショウ


 この様子を、隣で見ていた呂望リョボウは、善は急げと言わんばかりに、部屋から飛び出した。


呂望リョボウさん?」


 小さいがしかし確実に呂望リョボウの足音で振り向いた呂尚ロショウは、一瞬何故出て行ったのか分からずにいたが、時間トキが経つうちにその意味に気付く。


 呂望リョボウは、会議の時間を午後から午前に変えるよう、西岐サイキ城の主の代理を一任されている姫旦キタンの元へ提案しに行ったのだ。


 ただの軍師である呂望リョボウに、天気が崩れるからという理不尽な理由で、時間変更を申し出る権利はない。


 だが、そこを何とかしてしまうのが呂望カレの凄いところであった。


「行動が早いよね」


 外の景色を見ていた呂尚ロショウの口から、感嘆の言葉が漏れる。


「本当に会議の時間が変更になったりして」

“資料でも読んでおこうかな……”と、少々拗ねながら呂尚ロショウは窓に両手を押し付けた。


 外と中を隔てた窓は、彼にとって自由を妨げる壁でしかない。


 彼はここへ連れてこられた瞬間トキから、軟禁状態にあり、唯一畑仕事が外の空気を吸える時間といっても、過言ではなかった。


 何故目立った行動をとってはならないのかは、後々分かることだが、今こうして呂望リョボウの予言を待つ彼にとって、この時間はとても退屈で辛い時間モノである。


 今、ここから逃げてしまえば、彼は生涯自由の身であろう。


 だが、普通の暮らしでは味わえない、貴重な時間だと知った瞬間イマ、手放すのが惜しくなる。


 それでも、呂尚ロショウは振り返り、護衛達が近くで見張っていないか確かめた。


 その双眸ソウボウに映る人影はいない。


 逃げるなら、今しかない


 “だから、動け!”と動かない足に呂尚ロショウは必死に命令した。


 その瞬間トキである。


 まるで彼の行動を阻止するかのように、ポツポツと聞き覚えのある音が、耳に届いた。


「雨?」


 呂尚は音の正体を怪訝そうに口から紡ぐ。


「あれだけ晴れていたのに……」


 まるで自分に問うような口ぶりで言った彼の視線は、無意識の中でしっかりとその原因を捉えていた。


 緩やかな風が、大きな雨雲を運んできたのである。


 それが今、ここに雨をもたらしていた。


 恵みの雨となるのか、不幸な雨となるのかは、神のみぞ知るところである。


 雨は時間トキを追うごとに強さが増してきた。


 あれよあれよと言う間に、いつしか一つの滝が出来てしまった光景を目の当たりにした呂尚ロショウは、ただ呆然と事の成り行きを見守るしかなく……


 途切れることのない雨音に、戸惑いながらも耳を傾けていく呂尚ロショウ


 雑音にも似た雨音ソレは、何も抵抗を受けず、すんなりと彼の心の奥まで染み込み、徐々に負の感情を洗い流し始める。


 それにより、目に映る色が灰色に覆われた景色にも拘わらず、彼にはこの世で一番優しく綺麗な光景モノに見えた。


 それと共に、彼は数ヵ月前に呂望リョボウから聞いた話を思い出す。


 雨には400種の呼び名があるそうだ。


 季節や感情に応じて名前が異なる呼び名に呂尚ロショウは夢中になり、もっと知りたい・使ってみたいと思うようになる。


 そして、いつしか呂尚ロショウは今降っている雨に相応しい名前を探し始めていた。


「空から止めどなく降るから、土砂降り?

あっ、バケツをひっくり返した雨かも」


 呂尚ロショウは当分止むことのない雨から瞳を外すことなく、思い付く限りの名前を考えては口に出していく。


 すると、先程まで抱えていた虚しさが、いつの間にか消えていた。


「ふーっ、何か疲れたな……」


 呂尚ロショウは溜め息を吐き、空から近くにある畑へと瞳を移す。


 丹精込めて耕した畑が、この雨でどうなったか気になったからだ。


 しかし、気にしたところで、この大雨ではどうすることも出来ない。


 畑は色ついているものの、灰色のフィルムに覆われていて、幻想的に見えるも、綺麗とは言えなかった。


「いや、そうじゃなくて……」


 畑から窓枠に瞳を移し、呂尚ロショウはポツリ呟いて、これまで自分が何でも出来る呂望リョボウに対して、嫉妬心をイダいていたことに気付く。


 そして、今ならこの気持ちをもっと手放せるかもしれないと考え、降り続く雨にそんな願いを託すように、強い瞳を外へ向けた。


 暫くして、小一時間降り続いていた雨の勢いが、少しずつ弱まってくる。


 それに伴い、雨音の奏でる音楽リズムも小さくなり、ついには聞こえなくなった。


「畑、どうなっているだろう……?」


 雨が止んだことを知った呂尚ロショウが、不安な表情カオで畑の様子を案じた時である。


 廊下に声が響いた瞬間、姿を現した呂望リョボウ

呂尚ロショウ、雨が上がった故今すぐ畑に集合せよ」

と、何処か楽しそうに命令された。


 その彼は、その足で外へと飛び出したようである。


「うん……もう!」


“落ち着いてよ、呂望リョボウさん!”と側にいない彼に声をかけ、寝巻きのまま後を追う呂尚ロショウ


 息を切らして追いかけた先に、辿り着いたその場所は、大雨のせいで所々に出来た小さな水溜まりに支配された畑だった。


 案の定、足場はぐちゃぐちゃで、力を入れると土に埋もれていく。

 

 先に集まった兵士達も、そのことに愚痴を溢していたが、呂望リョボウが目の前に姿を現すと、不満が興味へと代わり、辺りは静けさに包まれた。


 呆れと不満が入りじる呂尚ロショウが、隣に立つのをチラリと確認した呂望リョボウ


 兵士達に背を向けた彼は空を仰ぐや否や、誘導するかの如く、右手である一点を差し

「見よ、呂尚ロショウ……虹だ!」

と、嬉しそうに言った。


「おっきな虹だね!」


 雨上がりの土の匂いが辺りに漂うなか、呂尚ロショウは歓声を上げる。


 気付けば兵士達も感動の声を上げていた。


「雨の後の虹は、一段と輝いていて綺麗だな」


 うっとりとした表情で言う呂尚に

「自然が作る風景は、何処を切り取っても絵になるのう」

と、呂望リョボウは感慨深くそう言った。


「そして、この風景が場合によっては、生きる力にもなりうる」

 

 そんな言葉を付け足して、呂望リョボウはざわざわと騒ぐ兵士達に向き直ると、悠然とした態度で口を開く。


「皆の者、生きておればこんな素晴らしい虹が何度でも見られる。

これからも戦は続くが、どうか自ら死を選び取ることだけはせんように、お願いしたい」

「おぉぉぉ-!」


 呂望リョボウの発した、短いがしかし優しさに溢れたメッセージは、彼等の心に確実に届いたようだった。


 その証拠に、更に歓声の輪が高々と上がる。


 呂望リョボウはニッコリと笑い、再び空を仰ぎ見た。


 あれだけ輝いていた虹は既に消え、青空が広がるばかりである。


 儚くも勇気をくれた虹に感謝している呂望リョボウに、思い出したかのように呂尚ロショウが口を開いた。


「ところで、会議は?」

「それなら、夕方に開催されることになった」

「……本当に時間変更しちゃったんだ」


“訊くまでもなかった”と、訴える呂尚ロショウを尻目に、呂望リョボウは達成感をじっくりと味わう。


 時も忘れ、暫くその場に佇む二人に、涼しい風が熱を奪うかのように、纏わりついた。


 その風に、一人の大人の声が含まれていることに、呂望リョボウだけが気付く。


呂望リョボウ様、我等風伯カハク雨師ウシも、裏で活躍したので、労って下さいな」


 可愛くおねだりする彼等の願いを、呂望リョボウは承諾するかのように、片笑みを浮かべた。

















 



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