第3話
「あの」
声をかけられる。無視した。
「すいません。ここらへん一帯に線上降水帯が出てまして」
「出てない」
出てない。海は多少荒れるけど、それは今ではない。曇っているけど、雨は降らない。なにより、上空に風がない。天気は固定されている。
「まいったな。いちおうここは退去していただかないと」
男の声。途中で止まる。
そういえば。聞いたことのあるような。声だったか。
「おい。待てよ」
男。そっと逃げようとしていたらしく、声ひとつでびびるのが。わかる。あの男は、いつもそう。びびっている。何かに。
「ひさしぶり」
波の音だけ。
「挨拶」
「おひさしぶり、です」
敬語。
「ずいぶん丸くなったね?」
波の音だけ。
「返答」
「いや、ちょっと、驚いてて。声が出ない」
ああそう。
「逃げるなよ」
いちおう、釘を刺しておく。背中越しに。びびっているのが、伝わってくる。この期に及んで、なんでびびってんのか。わからない。
「座れ」
「あの、線上」
「座れよ」
となりに、あのとき付き合っていた、どうでもいい男が。座る。砂。沈み具合から見るに。
「まだ鍛えてんの?」
「ええ、まぁ」
付き合っていたとき、すでに人を殴りころせるぐらいには身体ができあがっていた気がするけど。
「なんで?」
「え、なんでって、言われても」
この口調は、まぁびびってない。本人もなんで鍛えてるのか分からないのだろう。じゃあいいや。
「今なにやってんの?」
「今。あなたに退避勧告を」
「今。なにやってんの?」
こういうところが、融通がきかない。この男の好きでもない部分が、ここだった。何か、目的に対しての意識が低い。人生に対する姿勢が、逃げでできている感じがする。気にくわない。人生の指針が一度もぶれたことのないわたしにとって、この逃げの姿勢はノイズ。
「ええと。この街で、便利屋みたいなことをやってます」
「敬語」
「便利屋をやってる。ネオンの掃除から退避勧告まで。妖怪と戦ったりもする」
妖怪。まぁ、嘘は言っていなさそうなので、まぁよし。
「線上降水帯が、なんだって?」
「あの」
肩を殴る。ぱちっ、という、いい音。細身のなかに、しっかりと筋肉が詰まっている。いい鍛え方だった。細まっちょ。
「次に嘘をついたら、ころす」
という、嘘。この男にころすだけの価値はない。
「ごめんなさい嘘です」
「敬語」
「嘘つきました。ごめん。だって、海見てるから。天気のこと言えば従ってくれるかなって」
「なに?」
「おまえだとは、思わなかった」
「わたしも、あなたがここにいるとは思わなかった」
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