第2話 第2章

 残りたる

  朽ちた前脚蜻蛉の

   破れ障子の大きいことかな

    

 その日の私は朝出かける前から、少し寒気がしていた。

 前の日から少し熱っぽさを感じていて、汗を掻いては何度も目を覚まし、シャツを着替えていた。風邪をひいて熱を出す時はいつも高熱が多く、微熱だと風邪からというよりも疲れからの発熱が多かったのだ。

 最近疲れていることを自覚し始めた。目が覚めてから頭痛を覚えたり、喉が痛かったりして、風邪の前兆ではないかと思っていたが、一向に高熱を出す気配がない。気だるさを感じ、何よりも、身体の節々に痛みを感じることが気になっていたのだ。

 身体中が敏感になっている。特に首筋から右耳にかけて痛みを感じる。それが頭痛の原因となっていた。

 前の日に、電話で付き合っている彼女と些細なことで喧嘩をしてしまった。

――あそこまで言わなければよかった――

 売り言葉に買い言葉、口に出してしまったものは仕方がないのだが、なるべく気を付けようと思っていたことが思わず口から出てきたのだから、後悔しても後悔しきれないというものだ。

 ただ自分から電話をして詫びを入れようとは思わない。どちらが悪かったかと言えば、むしろ、彼女が悪かったことなのだ。些細なことを気にしてしまった彼女に対し、私がそこですぐに話題を変えてようとしてしまったことが、逆に彼女に言い訳をする機会を与えてしまったようだ。

 彼女との喧嘩はいつも彼女の言い訳で始まる。自己防衛本能が強すぎるというのか、喧嘩をしても言い訳をすればすべて許されるという感覚になっているようだ。些細なことだけに、本当に子供の喧嘩のようである。私も一緒になってレベルを下げてしまっているので。こちらから折れるようなことはしない。そのために、その日一日が憂鬱になってしまうことも少なくなかった。

 学校に行くと、彼女はお休みだった。彼女とは小学生の頃から一緒だったので、めったに学校を休むことはなかった。少々の風邪でも無理して学校に出てくるくらい、ある意味頑張り屋だった。私が彼女を好きになったのは、そんな頑張り屋なところが、大きかったのかも知れない。

 私が彼女に求めるもの。それは自分に持っていないものだった。いつも風邪をひいては、すぐに学校を休んでしまう自分とは違い、タフなところも気に入っていた。ただ、話をしていると、実の子供っぽいところがある。甘えん坊なのだ。もっとも、女性から甘えられるのが嫌いではない私は、それも嬉しさの一つになっていた。

 ただ、甘えられても、自分のレベルが低いことでしょっちゅう喧嘩になっている。彼女の中では

――喧嘩をしても負けない――

 という自負があるのかも知れない。いつも勝てるわけではないと思っているのだろうが、負けないことが一番大切なことだ。容易に喧嘩に持っていき、自分の立場を少しでも優位に進めようとする気持ちが表れているのだろう。

 彼女が休んでいることで、余計に私の体調は悪くなっていった。今までにも朝起きて体調が悪かったことは何度もあったのだが、学校に着く頃には、普段と変わらなくなっていることも数多かった。学校に来てからさらに体調がひどくなるなど、今までの記憶にはないことだった。特にそばを人が通ったというだけで、その風が身体を差すように思えるのだった。

 学校が終わって家に帰る途中、今まで建っていた洋館が、取り壊されているのに気が付いた。その建物は立派な壁が、中の要塞を守っていて、無造作に生え揃った草木が建物を覆っていた。覆われた草木によって中の様子はまったく分からないほどに、朽ち果ててからかなりの年月が経っていたに違いない。放置状態のまま、何ら変化のない要塞は、いつしか目に入ってきても、気にならない存在になってしまっていたのだった。

 壁はおろか、長年のうちに培われた要塞を守る草木や、私にとってお披露目されることのない要塞もすべてがなくなり、更地になっていた。一気に片づけられた証拠に、地面にはかなりの隆起が残っている。

 ここまで完璧に取り壊されているのなら、昨日までにも気付いたはずだ。もちろん、毎日通っている。通学路を変えたりもしていない。以前は帰り道を変えることもあったは、今は毎日同じ道だ。

――最初から何もなかったかのように、忽然として消えてしまった――

 という感覚だけが残ったのだ。

 私は彼女の家に電話を掛けてみた。彼女の家族とはすでに懇意になっていて、私が電話をしても、別に怪しまれることもない。逆に娘の心配をしてくれる仲のいいクラスメイトだと思ってくれているようだ。

 その日の電話もお母さんが出たが、

「疲れているんでしょうね。風邪をこじらせたみたいで、少し吐き気もあるらしいの。せっかく心配してくれ電話まで掛けてくれたのにごめんね」

 さすがに吐き気がしている人を、電話口まで引っ張り出すのは気が引ける。治ってからゆっくり話をすればいいことだった。ただ、いくら些細なことで、いつものことだとはいえ、喧嘩の仲直りをしていないことが気になっていた。こんなことなら、最初に謝っておけばよかったと思ったのだ。

――いや、そんなことはない。ここで自分を曲げてはせっかくここまで築いてきた彼女との仲も壊してしまいそうな気がする――

 と、思った。物事には、何事にも「均衡」というものがあるだろう。いわゆるバランスというものである。喧嘩をしながらでも、離れることなくずっと付き合っていっているのには、それなりに喧嘩を含めたところでの均衡が保たれているからではないだろうか。

「喧嘩するほど仲がいい」

 と、夫婦間で言われている言葉があるが、交際期間においても同じことがいえるのではないかと思う。喧嘩をしても、最後は仲直りしているが、仲直りにもパターンがあるだろう。

 自分から折れるカップル、相手が必ず折れるカップル、そしてその時々によって折れる相手が変わるカップルである。私たちの場合は最後の、その時々によって折れる相手が変わるカップルなのだろう。

 自分から絶対に折れないようにしようと思っていないと、きっと、絶えず自分から折れることになっていたように思う。そうなれば、立場関係は完全に固まってしまうだろう。それはもちろん、相手が必ず折れるカップルにしても同じだ。どちらかが、必ず上位にいて、見下ろしているようなパターンだ。

――俺には無理だな――

 絶えず上位にいるというのは、大変なプレッシャーだろう。よほど自分に自信がなければできない。いや、性格的なものなのかも知れないと思う。自分が絶えず前に立って相手を導いていく人間というのは、生まれつきに持っているものがあるはずだ。信じて疑わないものを持っていることで、優位に立てるのだ。それが自信となり、人を導いていくことになるのだろう。

――誰か一人にでも優位に立てれば、不特定多数にも優位に立てる素質があるのかも知れないな――

 いや、逆にリーダーになろうとするならば、一人を大切にできる人間でなければ絶対に無理なことなんだと思うようにもなっていた。

 私にはとてもリーダーになる素質などあるわけがない。人それぞれ考え方が違い、個性を持っているのだ。その個性が好きなので、一つにまとめようなどというのは、自分の気持ちに逆らうことにもなるのではないだろうか。

 その日、彼女から連絡はなかった。電話がダメなら、メールだってあるのだから、メールでもよかった。ただ、喧嘩をした時、彼女はメールを使わない。

「いくら喧嘩中だといっても、メールだけっていうのは失礼に当たるでしょう?」

 と、彼女は言うのだが、私もまったくの同意見だった。喧嘩をした時には、メールを使ったことはない。ただ、連絡がない時は、相手が心配しているのではないかという気持ちになったことがあったが、今まで使ったことがないので、今さら使うというのもおかしな気がする。照れ臭いというよりも、今度は他人行儀な感じがして嫌なのだ。

 待ち続けるというのは、想像以上に体力を使うものなのか、十時を過ぎると睡魔が襲ってきた。普段は日付が変わるくらいまで起きている。起きていて何をしているというわけではないおだが、テレビを見ている時もあれば、ゲームに熱中している時もある。それでもゲームもたまにするくらいで、我を忘れるほどの熱中することもない。

「ゲームに熱中しすぎて夜更かしし、頭がボーっとしている」

 と言っている連中の気が知れないくらいだ。

 私は熱中すると言っても我を忘れたことはない。我を忘れて熱中できる連中を、ある時は軽蔑することもあるが、基本的には羨ましいと思っている。夜更かしで頭が冴えないと言っているのを聞くと、バカみたいだと思いながらも、気持ちの奥で、

「そこまで熱中できるなんて……、俺にはできないよな」

 と、自問自答を繰り返していた。

 睡魔に襲われると、一気に眠ってしまうのも私の特徴だった。普段はなかなか寝付かれないと思っているのに、いつ襲ってくるか分からない睡魔を待っていることもあるくらいだった。

 睡魔に襲われて眠りに就くと、必ず夜中に一度目が覚めて、夢を見たことを覚えているものだ。そこからが、今度は一気に眠ることができない。どうしてすぐに眠ってしまいたくなるかというと、夢の続きを見たいからだった。

 夢の続きが見たいと言っても、いつもいい夢だとは限らない。嫌な夢であっても、続きが見たいと思うのだ。普段ならきっと続きを見たいなどと思わないはずの夢なのに、たぶんその時、私は一連の夢の中で何かを追い求めているのかも知れない。

 その日も夢を見た。決して楽しい夢ではなかった。お約束通り、夜中に目が覚めた。時計は二時過ぎを差している。

「いつもと同じくらいだな」

 微妙な違いはこの際関係ない。目を覚ましたことが重要なのだ。夢の内容が気になるのか、やはり、すぐには寝つけようもない。

 苛立ちが襲ってくる。眠たいのに眠れない。そんな時は、目を見開かないようにして、再度眠りに就くまでの時間を、ゆっくりとやり過ごそうとするのだった。

 気が付けば眠りに就いている。夢の続きが見れたのだが、その時になって、初めて、夢の中に昼間気になった更地になる前の屋敷が鮮明な記憶としてよみがえってくるのを感じた。

「昼間は思い出せなかったのに」

 今度は、更地になったというイメージは頭の中にあるのに、夢で見ることができないのだった。

「イメージだけでは、想像を映像としてよみがえらせることはできないんだ」

 それが夢の世界であり、現実の世界との一番の違いではないのだろうか。

 中学生になった頃も、よく夢を見た。それは小学生の頃の夢で、環境の変化が、ここまで大きな影響を自分の中に植え付けているとは思いもしなかった。思い知らされたと言ってもいい。睡魔に襲われ、一気に眠りに就く。そして、必ず夜中に目が覚め、見ていた夢の続きを見たくてたまらないのに、なかなか寝付けず、いらだちを覚える……。そんな一連の感覚と感情も、環境の変化で感じた影響と、似たような感覚があるのではないかと思わせるのだった。

 要塞は、夜の光景だった。一度目覚める前はというと、夕方だったように思う。夢の続きだと感じてはいたが、どこか違和感があったのは、光景の時間帯による違いだったのだ。潜在意識が思わせるのか、

「夢というのは潜在意識が見せるものだ」

 と言っていたテレビ番組の偉い先生の話を思い出した。見たいと思っていたわけではないのに、耳に入ってきた話に漠然としてだが、テレビをつけたまま、気持ちは明後日の方向を向いていたくせに、そのセリフだけは、しっかりと頭の中に入っていたのだった。

 夢の中の屋敷は、確かに聳えていた、今までに見た西洋の城の雰囲気を醸し出されるようで、とんがり帽子のような屋根が印象的だった。

 色は基本的に白が基調で、アクセントに赤が使われている。白は一番高貴な色で、他の色が混じれば混じるほど、高貴さが失われていくように思われた。だが、アクセントで使われている赤い色はコントラストが微妙で、高貴さを失わせるには至らなかった。

 囲碁将棋クラブに所属している友達が、

「将棋の手で、一番隙のない布陣というのは、どんな布陣か分かるかい?」

 という質問をしてきたことがあったが、私が分からずに首を振ると、彼はしてやったりの表情になり、

「それはね、最初に並べた形なのさ。一手打つごとに隙ができるんだ。だから、将棋は典型的な減点法なんじゃないかな?」

 と話してくれた。

 なるほど、確かにそうだ。戦にしても、それぞれに決まった布陣というものがある。兵を動かすごとに情勢は変わっていく。どちらに変化するかは、その時の布陣や自然現象にもよるだろう。運も味方につければ、情勢は一気に変化してしまう。それを思うと、第一印象というのは、結構大切なものだと思うのだった。

 夢が時間とともに流れていく。夢というのは、時間の感覚を曖昧にさせるものだとばかり思っていたが、まんざらそれだけではないようだ。時系列がしっかりしている夢もあるようで、ただ、刻んでいる時が、いつも同じ長さとは限らない。それがほんの少しであっても、見ている本人には相当な違いになってしまうのだろう。

 自分が動いているわけではないのに、屋敷が流れていくように見える。それが夢の中での独特な「時間の流れ」というものではないだろうか。夢を神秘的なものだとしか思えなかった時は、よもや夢の中で「時間の流れ」などという感覚はないのだろうと思っていた。流れる屋敷は、夢から覚める前兆ではないかという思いさえ起こさせ、それが、夜中に一度、目が覚める前兆だと分かったのだった。

 夢から覚める兆候もあり、気が付けば目を覚ましていた。まだ起きる時間ではないのに、目が覚めてしまったことを、少し残念に思う。

 これから二度寝を試みるが、実際に二度寝をして目が覚めると二度寝をしたことがよかったのかどうかは、目覚めの気分で決まる。

 実際によかったと思うのは半分くらいであろうか、あとの半分は、眠りが中途半端でまだ眠りの足りなさを感じていたり、夢を見そうで見れなかったことへの苛立ちのようなものがあったのだ。

 その日は、二度寝をしたことで夢を見ることができた。しかも、それは同じ夢の三度目であり、こんなことは今までになかったことだった。

 眠りを通り越して、遅刻しても構わないとさえ思えた。眠っていても現実世界の壱岐氏が働くのは、二度寝の時くらいだろう。眠りの時間が限られていると、どうしても現実への意識とは切り離せなくなってしまう。

 二度寝で同じ夢を見ることができたのは、ひょっとすると、二度寝をする時間が早かったからかも知れない。逆算すると、それだけ夜寝る時間が早かったからで、前の日の夜は、普段より床に就いてから、眠りに入るまでが早かったのだ。

 夢の中で私は誰かを追いかけていた。追いかけて屋敷の中に入っていった。もちろん一度も入ったことのない屋敷である。しかもこんな豪邸に実際にも入ったことなどなかった。今では博物館か、重要文化財にはなっているがレストランとして開業されている建物を想像するしかなかった。

 その時の想像は、レストランになっている国の重要文化財に指定されている建物であった。中に入ると真っ赤な絨毯が敷き詰められているが、階段も踊り場も、すべてが白を基調に作られていた。

「思ったより狭いな」

 というのが印象だった。表から見ると、完全な豪邸で、玄関フロアだけでも十分に大きなマンションの玄関フロアに匹敵するくらいのはずなのに、入ってみると、それほどでもなかった。

 それでも白い色が眩しくて、目が慣れてくると、次第に広さを感じられるようになった。追いかけている人の影を感じて追いかけていたが、なかなか追いつけないのは、狭いと思っていたはずの奥行きが、広かったことにびっくりさせられるのだった。

 白い壁に黒い影が大きく見えた。その実態は見えずに、影だけが蠢いている世界は、異様な世界だった。

――時間的には何時頃なのだろう?

 差し込む日差しは朝日なのか西日なのか、夢の中だという意識があることで、ハッキリと分からない。建物の立地から考えると、どうやら西日のようだ。西日だと思うと、蠢いて消えたはずの影が、くっきりと残っている。

 近づいてみると、残像に見えた影は、私が最初に感じたものではなかった。大きさも次第に小さくなっていき、このまま消えてしまうのではないかと思えるほどになってくると、本当に消えてしまった。残像は私が見失わないようにするための残像のように思えた。やはり自分が見る夢なので、想像も自分中心になっているのも、無理のないことだろう。

 階段を駆け上がった突き当りの部屋に入っていったようだ。そのことを残像となった影が教えてくれた。

 しか少しだけ扉が開いていたのだが、私が入るのを助けてくれているようで、急いで扉の前までやってくると、今度はそこから中に入るまでの戸惑いが襲ってきた。中には何があるのか、そして何かが飛び出して来たらどうしようという不気味さがこみあげてきた。本当に私が追いかけている人がそこにいるという保証もないではないか。

 しばし戸惑って扉を開けたが、夢の中での戸惑いは、どれほどの影響を心境に与えたことだろう。扉の向こうに広がっている景色は、想像していたものとまったく違ったことで、さらなる戸惑いを生むのだった。

 不思議なことに、初めて入ったはずの、想像もしていなかった部屋を、懐かしく感じられたのだ。部屋の中はさっきまの白が基調だったはずの建物の雰囲気を一変させた。部屋に入った途端に飛び込んできたのはピンク色が印象的なまるでメルヘンの世界のような部屋だった。

 女の子の部屋に入ったことのない私は、大げさに感じたが、中学生の女の子の部屋であれば不思議のない雰囲気であった。ベッドの上には熊のぬいぐるみなどが置かれていて、部屋の中から何とも言えない温かさがにじみ出ているようだった。

 甘い匂いもこみ上げてくる。懐かしさをかんじたのは、この甘い匂いにであることに気付いたのは、しばらくしてからだった。どこかで嗅いだことのある匂いだと思っていたのだが、以前庭に咲いていたきんもくせいの香りにそっくりだった。夢は潜在意識が見せるものだとすれば、きんもくせいの香りというのも、不思議のないことであろう。

「ここには、彼女と二人きり」

 と言っても、そんなロマンチックなものではない。夢の中とはいえ、二人きりの世界なのだ。

「好きな人と二人きりでいられるなら、他に何もいらない」

 という人もいるが、私の場合はその考えは当てはまらない。あくまでも考えは現実的であって、まわりの世界があっての好きな人なのだ。

 まわりからの圧力で、自分の立場がどうしようもなくなってしまい、どこかに逃げ出したいと思ったとすれば、好きな人との二人きりの生活を望むかも知れない。だが、しょせんは一人なのだと思うと、却って好きな人と一緒にいることが辛くなることもあるのではないか。

「だけど、彼女は本当にこんな部屋に住んでいるのだろうか?」

 少し雰囲気が違うような気がする。中学生の女の子の部屋というのを漠然と想像したというのであれば、ここはまさしく想像通りの部屋である。しかし、彼女の性格からすれば、この部屋はおおよそ違っているだろう。

 夢の中での私は、彼女を普通の中学生に当てはめようとしているのだろうか。いや、そんなことはない。要塞のような洋館に怪しげな影を見た。それを彼女だと思ったところまでは、いつもの彼女を想像すれば、あながち突飛な発想でもないだろう。

 誰かを型にはめて見てみようなどという発想は今までの私にはなかったことだ。普段から奇怪なことを想像することもあったのだが、何かの根拠に基づいてのことだった。

 そういえば、

「私は、武士の生まれ変わりらしいの」

 と言っていたことがあった。

 歴史が好きな彼女が戦国武将に憧れるのは不思議のないことだが、それは彼女の前世が、本当に戦国武将であって、そのイメージが心に残っているから、歴史に興味を持ったのかも知れない。

 生まれ変わりは、何にでもなれる。ひょっとして、自分が生まれ変わったら、路傍の石になっているかも知れないなどと思ったこともあるが、じゃあ、石が今度どうやって生まれ変わるというのだろう。石に寿命などあるのだろうか?

 生まれ変わりにも限りがあって、三度まで最高生まれ変われるとしたら、最後はきっと命のないものかも知れない。最後は死ぬのではなく、永遠に死なないというのもあり得ない話ではない。もっとも、死なない代わりに、生きているとも言えないかも知れないが。

 私は夢を見てきた中で、一番怖かった夢を思い出していた。

 夢には二種類ある。一つは自分が主人公になっている夢、そしてもう一つは全体的に大きく、冷静に見ている自分は外にいるという夢であった。

 一番怖い夢は、まず、自分は主人公になっていた。その時の夢は、やたらとリアルな気がしたのだ。狭い世界の中にいるのだが、それだけ現実に忠実で、鮮明に描かれている。主人公になっている私は、次第に夢を見ていることも忘れ、現実との世界を行ったり来たりしている。

 しかも夢であるだけに、自分の都合のいい世界が描かれている。それには、現実を忠実に描いた背景は必要不可欠だったのだ。

 夢であることを忘れると、えてして、登場人物は誰もいない。一人でも登場させてしまうと、本当に夢であることを思い知らされることが分かっているからだ。

 途中までは楽しい世界が広がっている。楽しいといっても都合のいい夢なので、信じて疑わない自分が新鮮に思えるだけで、実際は心の中で寂しさがこみあげてくるようだ。それが登場人物が皆無なことに繋がっているのだろう。

 次第に意識が朦朧としてくる。発熱しているのか身体の痺れが感じられるようになると、気が付けば布団を敷いて、横になっている。身体を動かすことができず、身体の節々に圧迫されるような痛みを感じる。

「俺は縛られているんだ」

 どうして縛られているのか分からないが、拘束されていることが分かると、その後のクライマックスに向かっての夢の続きが瞼の裏に浮かんでくるようだった。ここまで来れば、自分が実は怖い夢を見ていたのだということに気付くようになる。和室に布団を敷いて寝かされている。仰向けになっていて、天井がやたらと遠く感じられ、そのわりに、部屋の狭いのなんのって、夢でしか感じることのできない歪な自分の部屋だった。

 襖がゆっくりと開かれた。襖の向こうにある部屋は普段は物置としてしか使っていない三畳の部屋だった。襖を開けると、人の足を踏み入れる隙間もないほど、所狭しと雑多なものが置かれている。襖を開けると、きっと雪崩を打って、物置から物がはみ出してくるに違いなかった。

「そんなところから人が出てくるなんて」

 と思っていると、見覚えがないにも関わらず、恐怖心が湧き上がってくる。

――一番身近にあって、一番見ることができないもの――

 そう、その答えは「自分」であった。

 何が怖いと言って一番怖い夢は、もう一人の自分が出てくることだ。主人公として出ている自分と、客観的に表から見ている自分の存在は別に気にならないが、主人公のじぶんが、もう一人の自分が夢に出てきたのを感じた時、恐ろしいと感じる。

 もう一人の自分はまったくの無表情だ。冷静で何も言おうとせず、主人公の自分を見ようともせず、ただ、佇んでいるだけだ。存在に気付いていないわけではない。時々見下すような目線を浴びると、背筋に脂汗を感じてしまう、

 自分であっても、「その男」という表現がふさわしい。

「自分であって、自分でない」

 その男はいつも狭いところから現れる。今回も物置になっている三畳の部屋から現れた。ひょっとすると、私の中にある潜在意識は、今を狭い世界だと思っていて、そこから飛び出したいと思っているのかも知れない。夢自体が大きさの分からないもので、その大きさの中に、時間軸というものが含まれているのかも知れない。目が覚めて考えることは、夢の中ではあっという間に時間が過ぎてしまったこともまったく意識するころはない。目が覚めてから、

――夢って、一瞬だったな――

 と思うのだ。

 もう一人の自分が表れた時の夢は、その日一日現実の世界で意識し続ける。次第に不気味さは消えていくが、次の日以降も、ふいに思い出すことがある。その時に不気味さが消えているが、そのための冷却期間として、夢を見たその日一日、もう一人の自分を意識する必要があるのだろう。

 夢の中での彼女はどこに行ってしまったのか。その存在を忘れてしまうくらいに衝撃的なもう一人の自分の出現。まるで私をもう一人の自分に誘うために、彼女が一役かったかのようであった。

――もう一人の自分と、彼女とどういう関係なんだろう?

 夢の中の二人も現実世界の二人のような関係なのだろうか。いや、もっと泥臭いものかもしれない。だが、まったくの無表情であったもう一人の自分、何かを語り合っているという雰囲気も感じられない。彼女に至っては、顔も見ていない。あくまでも雰囲気から感じたことだったのだ。

 そこまで考えてくると、半分目が覚めていることに気付いた。屋敷の記憶が遠い彼方へと追いやられている。ただ記憶の中に、もう一人の自分が残っているだけだ。

 それも次第に消えていく。怖い夢を見た時は、えてして何かから逃げ出したい気分になるものだが、何から逃げたいと思っているのか、一向に見当がつかない。

 目が覚めるにしたがって、見えてくるものがある。今日はそれがないのだ。目が覚めた途端、いったいどこに飛び出すのか、不安と期待が入り混じった複雑な気分になっていた……。

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