のっぺらぼう

森本 晃次

第1話 第1章

 炎立つ

  かすかに揺れる蝋の先

   風なき夜のもの静けさかな


 生暖かい空気に包まれた室内では、異様な空気が充満していた。アンモニアのような鼻を突く臭いに、頭の芯が刺激を受け、深い眠りから目を覚ましたかのような感覚は、なぜか懐かしさを含んでいた。遠くで響く警鐘は、空腹時に感じたものであり、全身から吹き出す汗が倦怠感を呼び起こすようだった。

 そこは病院の一室。目を覚ましたというのに、そばには誰もいないように思えた。左腕と頭が締め付けられる思いと、脈を打つほどの熱さを最初に感じた。左腕は重みを感じたので見てみると、白い包帯をグルグル巻きにし、楕円形がダサく見えた。ギブスを嵌められ、三角巾で保護されていたのだ。

 頭も包帯が巻かれているようだ。顔の節々が痛いことから、顔面にも傷があるのかも知れない。頭にまかれた包帯が気になって、早く誰かが入ってこないか待っているところだった。

「目が覚めましたか?」

 シーツを片手に白衣が眩しいナースが入ってきた。スレンダーな体系なのに、身体のふくらみを十分に感じさせる雰囲気は彼女自身の魅力なのか、ナース服の魔力なのか分からない。ただ、彼女を見ていれば「白衣の天使」という言葉もまんざら大げさなものではないように思えた。

「はい」

 返事は元気だが、怯えは明らかに相手に伝わっているのだろう。

「大丈夫ですよ。もう心配いりませんからね」

 と、安心させてくれたが、さっきまで寝ていた私には、何が何だか分からずに、

――心配って何を?

 としか思えないのだった。

「お母さんたちも、もうすぐ見えますからね」

と、言う言葉に、私はハッとしてしまった。

「えっ」

――お母さんって、二年前に亡くなったはずだよ――

 という言葉が喉の奥で引っかかっている。

 三年前に引っ越しをして、父が単身赴任で家から通勤できる距離ではなくなってから一年も経たないうちに、母親が死んだことは父をビックリさせた。身内だけで公にはされなかったが、実は自殺だったようだ。もちろん、警察の捜査も入ったが、別に不審なところもなく、単純な悩み、それもストレスからの悩みという平凡な内容で片づけられたものだった。火葬場にも付き添ったのだから、母が来るなど信じられることではない。

 何よりも、自分がなぜ今、病院のベッドの上で目を覚まさなければならないのだろう。それ以前の記憶がないわけではないが、まったく違う記憶であった。想像するのも奇妙なくらいなので、口になど出せるものではないだろう。

 空気に懐かしさを感じるのは、最近よくケガをすることがあり、外科に通うのが日課になっていたからだ。体育の時間に手を脱臼したり、躓いて深い切り傷を作ったり、車に轢かれそうになり、溝に落ちて指の骨が折れたこともあった。

 しかし、それらはすべて紙一重、寸でのところで大けがを回避していた。不幸中の幸いともいうべきであろうが、本人にしてみればたまったものではない。冷静に見て不幸中の幸いなのだから、神様に感謝すべきなのだろうが、こう立て続けでは神の姿も見えることはなかった。

 私は中学二年生。来年には初めての受験を控えて、そろそろ神経質になりかかっている、どこにでもいるような目立たない少年だ。

 学校には好きな人はいても、付き合ったことはない。憧れは異性を感じ始めるよりも前からあり、好きな人に対しては女性としてというよりも、頼りがいのある人に見えていた。元々自分から人を好きになるタイプではない。少しだけ気になっていたら、おせっかいなクラスメイトから。

「お前、あの娘が好きなんじゃないのか?」

「えっ」

「赤い顔して照れなくてもいいって、全部お見通しさ」

 にやけた顔があまり好きになれない悪友から言われると、その気がなくても、その女性のことが気になってしまう。確かに好まざる相手というわけではない。言葉では表現できない魅力は、他の人では感じることのできないものだという何の根拠もない自信のようなものがあったのだ。

 ただ憧れの目で見つめているだけでよかった。悪友に言われるまで気付かなかったが、彼女の魅力は清楚さだった。全体的に見ているだけでは本当の魅力は分からないのだろうが、最終的に、魅力は清楚さに落ち着いた。

 憧れだけで口もきいたことがなかった。口を利く機会があったら、どんな会話になるのかを想像してみたが、想像の及ぶものではなかった。ただ彼女の横顔や後姿を見ているだけで至福の喜びを感じることができる。しかもそれは前からの姿ではないところが、実に私らしいではないか。

 引っ込み持参で、目立たない性格と言われればそれまでだが、ただ臆病なだけである。人とまともに話をすることもできないでいると、話しかけてくるのは悪友だけだった。彼にしても親切心から話しかけてくるわけではなるまい。

「俺がいないと、あいつは一人じゃ何もできないのさ」

 と、言わんばかりの自信を裏付けることしかできない私は、実に情けなく思う。彼を利用してやろうというくらいのふてぶてしさを持てれば、どんなに違う人生が芽生えたことだろう。目立ちたいというわけではない。ただ、今の生活を変えたいと思うだけだったのだ。

 一人でいるのが一番気が楽で、人と一緒にいると気を遣うことだけで疲れ果ててしまう。それなのに、女性と付き合うなどできるはずもないだろうに、なぜか気になってしまうのだ。ただ、今まで気になった女性のほとんどは「頼りがいのある女性」で、姉のような存在の女性をイメージしていたのだ。

 今好きな女性は今までとは少し趣きが変わっている。「頼りがい」というよりも、逆に自分を頼ってくれそうな雰囲気の女性である。それだけ自分が男としての本能に目覚めたのかとも思ったが、声を掛けられないのは同じことだった。同じ声を掛けられないといっても、様子はかなり違う。今までの女性には、もし話しかけて嫌な顔をされても次回にはあっさりしているように思えるのだが、彼女の場合は、睨み返してきそうで、その顔を見た瞬間、私の彼女への運命はそこで終わってしまいそうだった。

 いや、終わってしまうのではなく、さらに最悪になる。睨み返してきた表情が頭から離れず、今後の自分の人生に少なからずの悪影響を与えることは分かっている。下手をすると、女性恐怖症に陥るかも知れない。

 そんな自分の落ち込んだ表情を想像するのは困難だった。だが、表情さえ見なければ、様子だけなら容易に想像はつく。それほど私は自分に対して自信が持てないのだということを思い知らされることが時々あるのだった。

 この病院のナースを見ていると、スレンダーな身体は魅力的だが、それは病院という独特の場所が見せる魅惑なのかも知れない。病院という場所にいるだけで急に熱が出てくるような気がしてくるのは、小学生の頃、いつも風邪をひいて、熱を出していたからだ。

 特に潮風に弱い私は、海水浴に連れて行ってもらった翌日は、いつも風邪をひいていた。熱が出ることもあり、頭がフラフラしてしまった時に、前の日の海の匂いを思い出す。それまで熱がなくとも、海を思い出してしまえばもういけない。熱が出始めるまでには秒読み状態だった。

 内科でアンモニアの臭いはあまり感じなかったが、中学生になって外科に通うようになると、アンモニアの臭いを内科では感じたことがなかったくせに、外科では懐かしいと思えて仕方がなかった。もちろん、求めている懐かしさではなく、なるべくなら感じたくない懐かしさだ。

 薬品の臭いの代表がアンモニアの臭いだった。蜂に刺された時に嗅いだ記憶があったが、それ以降はなかったはずなのに、なぜ外科で懐かしさを感じるというのだろう。蜂に追いかけられる夢を見たことが何度かあったように思っているが、それが臭いと結びついて頭の中に残っているのかも知れない。

――今何時頃なんだろう?

 表からは日差しが容赦なく窓を通して差し込んでくる。それが朝日なのか西日なのかパッとは分からない。しかし、私は日差しが西日である気がして仕方がなかった。それはベッドの横にある点滴のスタンドが、やたらに影として伸びているからだ。奥の壁を伝うように伸びている影が、オレンジ色を思い起こさせ、夕焼けの影を、壁に残すのではないかと思うほどだった。

 夕日だと思った根拠として、やたらと汗を掻いていることで、西日だと思った。朝であれば、まだまだエネルギーが残っているのだが、夕方には燃焼してしまったエネルギーの矛先は身体から発せられる汗でしかない。つまりは汗が出るということは夕方だという少し乱暴な考えでもあったのだ。

 日差しはナースの顔にも当たっていた。少し顔から彼女も汗が噴き出しているように見えたのは、ファンデーションの加減なのかも知れないと思ったが、せわしなく動いている姿を見ると、やはり汗であってほしいという勝手な思いが私の頭を支配していた。

「どうしたんですか? 私の顔に何かついてます?」

 まさしく「天使の微笑み」であった。屈託のない笑顔は、私の思い過ごしではない。大人の女性でありながら、子供のようなあどけなさを残している。病院という環境が見せる贔屓目ではなく、文句なしの美しさであった。私は外科の病気であって、内科の病気ではない。思考能力がいつもと違っているわけではないのだった。

「天使の微笑み」になど今まで馴染みのない私は、すっかり彼女に参ってしまったかのようだった。軽やかな鐘の音を聞いているような涼しげな風を伴う声は、さりげなさの中に温かさを運んでくるかのようだった。ただ、どこか現実離れしたところを感じると、今度は一気に現実に引き戻された気がした。それは忘れていた痛みを思い出させるもので、特に頭の痛みは、時間が経つにつれて深まっていった。

「痛いっ」

 思わず抱えてしまった頭。ナースはそれを見ると、

「あら、大変」

 と、私の顔を覗き込む。さっきまでのあどけなさが妖艶さに変わったかと思うと、涼しげだった雰囲気が冷たさを感じさせるようになっていった。

――なぜなんだろう?

 どこか他人行儀なところが見えてくると、冷静さが見え隠れしている。確かに患者からすればナースに慌てられると不安が増幅される。ナースは常に冷静であるべきなのだろうが、この瞬間に冷静になられると、他人行儀に思えてならない。それが寂しくもあり、これが現実だと思い知らされるに至るのだった。

 妖艶な雰囲気がどこから来るのか分からなかったが。やはり最初に感じた彼女への第一印象が間違っていたのかも知れない。贔屓目には見ていないつもりであっても、実際には贔屓目に見ていたに違いない。そう思うと、自分がいかに浅はかであるかが分かってくるというものだった。

 病室は、あまり綺麗とは言えない。かなり前にテレビで見たサナトリウムの雰囲気にそっくりだ。壁もよく見ると変色しているところがあるようだし、そこは、光によってできた影ではないかと思えるものだった。先ほど感じた日差しの強さも、まんざらでもないのではないだろうか。

 一応個室になっていて。個室としては、少し広すぎるのではないだろうか。室内は蒸し暑く、表の天気からは想像できない湿気を感じる。やはり、この部屋の雰囲気は尋常ではないようである。

 私の顔を覗き込んだナースの唇が怪しく歪む。妖艶な雰囲気を感じたのは、まさしく歪んだ唇であった。

「大丈夫ですか?」

「あ、ええ、大丈夫です」

 声を発すると、最初に感じたあどけないイメージがよみがえってくる。一瞬にしてよみがえったイメージは、私に安心感を与えた。

――今の表情が本当の彼女なんだ――

 と思うことで安心感が生まれたが、先ほどの表情はまるっきりのウソというわけでもない。病室の雰囲気が、私の中で思っていた勝手な彼女のイメージを変えてしまったのかも知れない。私は考えすぎるところがあるとよく言われるが、今こそ、その真骨頂だったのだろう。

 病室の窓は開いていて、表の喧騒とした雰囲気が飛び込んできた。さっきまで閉鎖された中にいたので、開いていたことにしばらくして気が付いた。気が付かなかったのはうかつだったが、気が付かなかった方がよかったかも知れない。部屋には扇風機が回っていて、蒸し暑さの中で、心地よい風を感じていた。その風がさらに懐かしさを感じさせたのだ。

 今まで育ってきて、クーラーをつけない生活は考えたことはなかった。部屋の中を見渡すとクーラーは設置されている。わざとつけていないだけのようだ。部屋の中を見渡している私に気が付いたのか、ナースの目線も、私を追いかけているようだった。

 その目線がクーラーのところで止まった。

「ごめんなさいね。気が付くまでクーラーはつけないようにしなさいという指示だったんですよ」

「その指示というのは?」

「ドクターのですね。私にはその理由が分からなかったんですけども。気が付いて患者さんが暑いのでクーラーをつけてほしいと言えばつけてもいいということを言われておりました」

「じゃあ、つけてもらおうかな?」

「はい」

 先にクーラーのスイッチを入れ、轟音が鳴り響いている。まるで大きな部屋を冷やすための業務用のクーラーのような音に、振動までが響く。ここは何から何まで古いものが揃っているのではないかと思わせるほど、私の頭もアンティークに染まりつつあった。

 懐かしさとアンティークさは、直接に結びついていないはずなので、懐かしさを感じるというのは、感覚的なものでしかない。もし人に説明を求められると答えようがないもの。それがこの時の「懐かしさ」であった。

 ナースが窓を閉めると、部屋の空気が一変した。完全に隔離されたかのような不安感が頭をもたげたのだ。それまで感じてきた頭痛が、閉所によるものであることに初めて気づかされた。解放されていた部屋でも閉め切っていたかのような感覚があったわけだが、本当に締め切ると、さらにそれが不安感を募らせる。

 部屋の空気が動いていないことをすぐに感じた。空気に流れがないと、濃密なものに感じられ、息苦しさを感じさせられる。これが閉所の一番怖いところなのだろう。高所恐怖症、暗所恐怖症と並ぶ三大恐怖症の一つである閉所恐怖症の恐ろしさを、その時初めて知ったのだ。

 私は他の二つをどちらも感じたことがあった。最初に感じたのは暗所だった。小さい時に悪さをして、押し入れに閉じ込められたことがあった。父親が厳格な人だったので、まるで自分が子供の時にされていたであろうお仕置きをされているかのようだった。その時の父親の顔が印象的でもあった。

 何とも言えない悲しそうな顔になっている。情けなさそうな顔だと言ってもいいだろう。まるで自分が押し入れに閉じ込められるのを感じているような表情。それを見ているだけで恐ろしさが倍増する。実際に閉じ込められると、二人分の恐怖を背負っているかのようで。二度と押し入れには入りたくないという思いでいっぱいになっていた。

 それから電車に乗った時には、何があってもブラインドを下ろさないようにしていた。皆日差しが差し込む窓際ではブラインドを下ろしている。私はそれが恐ろしいのだ。ブラインドの向こうでは車窓の奥の飛び込んでは流れていく景色を影としてだけ映し出している。

――表が見えないということは、こんなに気持ち悪いことなのか――

 と感じていた。

 恐ろしさには、さらに光が生み出す影の気持ち悪さを知らなければ感じることのできないものがある。眩しさを目に焼き付けてしまうと、少しでも暗くなると、何も見えなくなる。慣れというのは恐ろしいもので、見えるようになるまでしばらくかかる。その間に何かあればどうしようというのだ。私は光と影が交互に織りなすコントラストの歪みが、何よりも一番恐ろしいと思っていた。

 だが、閉所恐怖症はまた違う。暗所はまったく見えない。空気もこれ以上ないというくらいに濃いもので、閉所よりも暗所がどれほど怖いのかを知っていたから、今まで閉所であっても、それほど気にならなかったのであろう。だが、今は成長時期で身体がみるみるうちに大きくなる。同じ広さでも感じるものは、どんどん小さくなっていくに違いない。感覚的なものは本能と同じで、自分ではどうすることのできないものだ。それだけまわりからの影響を受けやすいのが私だということなのかも知れない。

 部屋の中でクーラーが効いてくると、意識が次第にしっかりしてくるのを感じる。ボーっとしてはいたが、意識がハッキリしていないという感覚はなかったのに、さらにしっかりしてくるということは、身体の変調が精神にも少なからずの影響を与えていて、治癒の影響が出てきているのだと思うと説明もつく。どれくらいの間眠っていたのか分からないが、それ以前のことを思い出そうとしてもなかなかすぐには思い出せるものではなかったが、意識がハッキリしてきたのだから、次第に思い出していけそうな気がしていた。

「だいぶ冷えてきましたね」

 その声に、私はハッとしてしまった。最初に聞いたナースの声とはまるで別人に聞こえたからだ。最初に聞いた声は、まるで寝起きのようなハスキーな声だった。それでも、心地よく感じられたのは、ナースへの思い入れが強かったからなのかも知れない。今聞いた声は鼻にかかったような声で、甘ったるさすら感じる。クーラーが効いてきて、先ほどの生暖かい空気の重要要素である、湿気を帯びた空気を吹き飛ばした中で聞く甘ったるさは、吹き飛ばした湿気を呼び戻しているかのようだった。

 決して嫌なものではない。クーラーだからそれほど気にならないが、あまり乾燥しすぎるというのも私には困ったものだった。乾燥が強すぎると、身体の奥から醸し出される生気が発散されるものを失ってしまうように思うからだ。逆に湿気が多すぎると、今度は発散させた生気が行き場を失って、自分の身体のまわりで右往左往してしまい、その結果、身体に纏わりつく気持ち悪さになってしまう。

 どちらがマシかと言われれば、乾燥している方がマシなのだが、湿気があまりないと、空気の薄さが感じられ、想像以上の呼吸運動を必要とされる。重苦しい息苦しさとは逆の呼吸困難が容赦なく襲ってくるのである。

――俺の身体って、こんなにもデリケートだったんだ――

 過去の記憶は定かではないが、自分の本能に関する部類は、意識できていた。それは普段の平時では別に意識する必要がないもの。意識しすぎて、本当に考えなければいけないことがおろそかになってしまうことで、敢えて考えないようにしようとしていたのかも知れない。

 そんな意識の元、ナースの声に反応していると、目が覚めてからクーラーが効いてくるまでの一連の時間が、一つの区切りのように思えてきた。

――母親が来ると言っていたが、どういうことだったんだろう?

 その時にすぐに聞いていればよかったのだろうが、後になればなるほど聞きにくい。しかも、最初に比べて甘ったるさを感じさせる声の相手には尚更のことだった。意識だけがハッキリしてきたにも関わらず、相変わらずの記憶はない。中途半端な感覚がさらに不安を募らせる結果になっているのだ。

 身体は相変わらず動かせない。ただ頭痛は少しずつ収まっていった。実際には収まったというより時が経つにしたがって、感覚がマヒしてきているのかも知れない。それでも痛みが消えていくのは、一安心であった。

――余計なことを考えると、また頭痛がしてくるかな?

 せっかく収まってきた頭痛である。今さら痛みを覚えさせることもあるまい。それを思うとまわりを見るのもやめた方がいいかも知れないと思うようになっていった。

 ただ、一か所、壁に気になるものがあった。最初に病室を汚いと感じた根源になったであろうシミが、へばりついていたのだ。もう少し暗ければ浮き上がって見えるのではないかと思うほどで、気持ち悪さは妖気を帯びているかのようだった。

――最初に見た時よりも縮んでいっているように思うな――

 ビックリしたこともあって、大げさに見えたのだろうが、贔屓目を差し引いたとしても小さくなっていくのを感じた。明らかに縮んでいるのだ。

 だが、その割に浮き上がって見えているのはなぜだろう? 最初はすぐに分からなかったが、浮き上がって見えるのは、シミのさらにふちの部分に、影のようなものがあるからだ。少しだけ濃く映っているのが、まわりが明るいためか、分かるまでに時間がかかった。そのせいもあってか、小さく見えているわりに、時間が経つにつれて気になるようになっていったのだ。

――何の形だろう?

 何かの形を示しているようだが、パッと見た感じでは、アメーバのように形があってないような雰囲気である。ひょっとすると、最初に見た時と、後で見た時とでは、微妙に形が変わっていっているのかも知れない。まるで下等動物が高等動物に進化しているようで、考えられないほどの長い時間を一瞬にして飛び越えているようにすら思えてくるから不思議だった。

――それにしてもどうしてこんなものに目が行くんだろう? 俺の頭がどうかしちまったんじゃないか?

 余計なことを考えていると思う自分に、半分呆れていた。

 壁をじっと見つめていると、ナースもそれに気づいて、

「何を見ているんですか?」

 と、その眼は好奇に満ちていた。私の視線の先が気になるのか、それとも私自身が気になるのか、とにかく不思議なナースだった。

 いや、この場面では不思議なのは私の方なのであって、それでも不思議な世界に入り込んで一番戸惑っているのは自分だということが頭から離れなかった。

 彼女は、壁の汚れには気付いていないようだった。私と同じ視線を壁に向けているのに、何も表情が変化しない。見えているのに意識していないのは、灯台下暗しということわざにもあるように、一番目につきやすいものが一番気にならなかったりするものなのだろう。それが「慣れ」であったりすることで目の錯覚を呼ぶのと同じ作用ではないだろうか。

 胸のネームプレートには、「浅間」と書かれていた。

「浅間さんは、ずっと僕のそばにいてくれたんですか?」

「ええ、そうですよ」

「じゃあ、僕は何がどうしてここにいるのか分かりますよね?」

「ええ、大体のことは聞いてますよ。もうあなたがここに来て、一週間近くになろうとしていますから、目が覚めなかったので、皆さん心配していたんですよ」

 一週間目が覚めないというのは相当なものだ。左腕の感覚がマヒしてしまうくらいに四六時中の点滴だったのだろう。子供の頃から病院通いが日常茶飯事であったが、入院はしたことがなかった。それがまさか一週間も目が覚めない大きな病気というのはどういうことだろう。交通事故にでも遭ったとしか思えない。

 それにしても、この病室の汚さも気になるところだ。まわりには何もなさそうだし、病院というよりも、雰囲気は完全に療養所である。

――俺の頭がどうかしちゃったんじゃないだろうな――

 と、思っても仕方がないほどに、病室の雰囲気は異様だった。

 個室というのも、異様さに拍車をかける。どれだけの広さのある建物かも分からず、どれだけの人間がいて、どんな治療を受けているのか、目が覚めてからまだ少しだけだが、ナースと二人きり、やっと話しかけることができたくらいで、それまでの間、自分が何者であるかすら忘れてしまっていたかのようだった。

――そういえば、俺って誰なんだ?

 断片的な記憶は存在している。名前を訊ねられると、ハッキリ自分の名前が記憶から出てくるか、不安だった。思い浮かぶ名前はあるのだが、それが果たして自分の名前なのかどうか、ベッドの上では自信が持てず、自分への疑念が膨らむばかりであった。

 浅間さんは、手を休めることはなかった。絶えず何かをしていて、それがすべて必要なことであるように思える。ベッドの中で身動きも取れず、拘束された状態で見ていると、もどかしさがこみあげてきた。

 人の行動が羨ましく見えてきた。こんなことは今までになかったことだと思ったが、以前にもあったように思えたのは、小さかった頃に、母親がせわしなく狭い家の中で、休む間もなく部屋の掃除をしていた。

 あまり見ないようにしていたのは、目を合わせると、何を言われるか分からないという思いが子供心にもあった。整理整頓が苦手な私は、

「掃除しなさい」

 と言われるのが一番嫌だった。まだ、勉強を促される方がマシだったのだ。

 母親にはそういうところがあった。なるべく何も言わないようにしているところはあったのだが、一たび気になってしまうと、口を開かざる負えなくなるようだ。義務感のようなものとは違うと思うのは、口に出しながら、

「どうして私がいちいち言わなきゃいけないのよ」

 という、愚痴にも似た言葉が平気で口から洩れているからだった。

 神経質なところがあったのは、ひょっとすると、厳格な父親の影響があったからなのかも知れない。いつも監視されているプレッシャーから、自分にも子供にも厳しくなければいけないという意識が働き、余計なストレスを溜めないための苦肉の策として、子供に当たっていたのかも知れない。

――母が死んだのは、そのあたりに原因があったのかも?

 自殺と聞かされて、最初から違和感はなかった。なぜ違和感がなかったのかは、子供心には想像も及ばなかったが、中学に入った頃からは、何となく分かってきたような気がする。

 自殺する人間は、「自殺菌」という菌が原因だという話を小説で読んだことがあった。だから、自殺という言葉が本当にふさわしいのかどうか疑問である。しかも、自殺は特定の人に限られたものではない。誰がいつ、どこで自殺しても不思議ではないというのだ。何しろ、本人の意思如何を問わず、時と場所を選ばないのだから……。

 ただ、前兆はあるのかも知れない。自殺した人の多くは、

「なるほどね。あの人なら自殺しそうだ」

 といかにも自殺しそうな人が自殺している。菌には潜伏期間があるのだろう。そう考えれば、菌が原因で自殺するという考え方も、まんざら笑い事ではないかも知れない。世の中には、科学で解明できないことが数多く存在している。それを思うと自殺のメカニズムも病気のメカニズムと似ていると思う人の思考から生まれた菌という考え方も信憑性はあるというものだ。

 母が自殺したと初めて聞かされた時、信じられないという気持ちと、何となく予感があったという気持ちと半々だった。複雑な心境だったと言っても過言ではない。ただ、同じ一瞬といっても、引き伸ばして考えれば、最初に信じられないと思い、次に、何となく予感があったと感じたのだ。そう考えれば心境の流れも不思議ではない。

 自殺の原因が父親だけにあったとは思っていない。死ぬ前の母親の行動で、幾分か不審なこともあった。後から考えればおかしな感じだったというわけではなく、その時にすでに感じていたものだった。

 まず気になったのは匂いだった。部屋の中に充満する化粧品の匂い、なるべく消そうとしているのか、消臭剤を振りまいていることで、私の鼻は却って不自然さを感じたのだ。父親がいないので寂しいというのなら化粧を施すのも分かるが、父親がいないにも関わらず、部屋の中から匂いを消そうとするのは、不自然で仕方がない。

 一か月ほど化粧品の匂いを感じていたが、すでに途中から、鼻の感覚がマヒしていた。それなのに、今度は急に薬品の匂いがしてきたのである。臭さは化粧品の匂いとは少し違う。ただ、この病院で懐かしいと思った薬品の匂いとも少し違っているように思う。やは病院の匂いはこの環境が独特で、家で嗅いだ薬品の匂いがいくら近かったとはいえ、直接的に病院の匂いと結びつけることは難しいだろう。

 あれだけ子供の頃には、

「掃除をキチンとしなさい」

 と言っていて、自分も潔癖症だったはずの母親が、部屋の匂いを強烈に漂わせているのはいかにもおかしなことだ。不自然という言葉がピッタリで、そんな不自然な中で、

「自殺した」

 と言われれば、何となく分かっていたというのも不思議のないことだ。

「信じられない」

 と、感じたのは、少しニュアンスが違っているのかも知れない。母親が自殺することは分かっていたが、時期が今だということに、信じがたいものを感じたように思う。いきなり何の予備知識もなしに自殺したと聞かされた方が、しっくりくるくらいである。

 母が自殺したと聞かされてからしばらくは、母がふいに帰ってくるのではないかと思ったこともあった。自殺したのに死にきれなくて、ふいに戻ってくるという感覚、それが自殺者に対しての感覚だった。

 宗教によっては自殺を許さないものもある。死の世界から、

「あなたはまだここに来てはいけません」

 と言われる人もいるだろう。手術中に市の世界との狭間で行ったり来たりしている話をドラマとかで見たことがあるが、それも死の世界の裁判官のような人が裁定することで、生死が決まってしまうという話もまんざら笑い話で片づけるのは安直すぎる気がして仕方がなかった。

――自分の命は自分のものであって自分のものではない――

 と言われる。

「生まれることは選べないけど、死ぬことくらいは自分で選べる」

 と、戦国モノのドラマで見たセリフを思い出したが、戦国時代など、

「死に場所を得たり」

 などと、格好いい武将のラストシーンも美化されるものの一つとなっているだろう。

 浅間さんの話では、もうすぐ母親がやってくるという。ということは、浅間さんは母に会ったということだろうか。

 浅間さんの顔を見ていると、どこか懐かしさを感じると思ったのは、母に雰囲気が似ているからだった。

 私は母親にはきっと不倫相手がいたのだと思っていた。子供だったのでそれがどれほど悪いことなのか分からなかったが、後ろめたさが他人に与える影響が大きいのは分かっていた。それがいかに悪いことなのかは、自分が同じような態度をされたら嫌だからである。子供にはなるべく後ろめたい雰囲気を出さないようにしていたことだろう。何しろ上下関係に近いのが親子の関係だと思っているからである。

――親にはいつまで経っても子供は逆らえない――

 この思いが母親という存在を形成していたのだ。

――親が隠そうというのなら、子供の俺が余計なことを知らない方がいいんだ――

 身のためだというセリフではない。どれほど他人事であってほしいと思ったか、他人事であれば、手綱がない状態で、遠心力に吹き飛ばされそうな状況になっているようであった。

「この病院には、他に患者さんがどれくらいいるんですか?」

 私に背を向けて掃除をしていた浅間さんの手が初めて止まった。すぐにはこちらを振り向けるという感じではない。それでも意を決したかのように振り向くと、笑顔を向け、

「三十人くらいじゃないですかね。重傷者というのは、それほどいませんからね」

 三十人という人数が多いのか少ないのか分からない。分からないのに聞いたのだ。どんな反応を示すのかということにも興味があったし、人数よりも、どんな病状の人がいるのかの方が気になった。誘導尋問をしたつもりではなかったが、浅間さんは口を滑らせたのだろうか?

 いや、口を滑らせたというよりも、私の聞きたいことを前もって察していて、答えられそうなことだと思って、答えてくれたのかも知れない。

「いやいや、重病人があまりいないというのは何か分かる気がするんですよね。この病院の雰囲気からすればですね」

 と、皮肉めいた言葉を発した。いかにも冷たさそうな言い方だったのかも知れない。浅間さんは、しばらく悲しそうな表情になっていた。

「そんなに悲しそうな表情しないでください。僕も少し意地悪な言い方をしましたね」

「いえ、いいんですよ。あなたが思っていることとたぶん私の悲しそうな表情とは、違う意味だと思いますからね」

 その言葉で、さっきまで親近感を覚えていた浅間さんが急に遠い存在の人に感じられた。まるで住む世界の違う人と一緒にいるような気分だ。元々、この病室も今まで知っている病院の中でも想定外であった。まるで半世紀ほど昔にタイムスリップしたのではないかと思うほどだった。

 そういえば、浅間さんのナース姿もどこか古臭い感じがあった。色がピンクで、浅間さんのあどけなさからナース服に対してのこだわりがなかったこともあったが、私は以前からナース服に対しては、気になるものがあったのだ。

 確かに体調の悪い時に見るナース服は、どこか温かく感じることがあるが、それも紙一重、ナース服を見ると、熱がないにも関わらず、発熱しているような気分がしてくるくらいで、それだけ自分が自己暗示にかかりやすいことを示していた。浅間さんに対してはさほど自己暗示を感じることはない。眠っていた時間が長すぎたことで、現実の世界に戻ってくるまでにしばしの時間が必要だったのだ。だが、自分と住む世界が違うと感じるとなれば話は別であった。

「もうすぐ、先生の回診になりますよ」

 おもむろに腕時計を見た浅間さんが、呟いた。

――おや?

 この部屋には不思議に思えることがいくつかあるのだが、その中でも一番最初に気付くべきものを今になって気が付いたのもおかしな話だった。部屋があまりにも殺風景で、花弁はシミがあったり、必要以上のものが何もないことで、部屋が広いのか狭いのか、ベッドの上からでは想像がつかなった。

 キョロキョロとあたりを見渡しているのをそんな私を見て、浅間さんはにっこりと笑いながら余裕の表情を浮かべている。不安になっている患者の気持ちをまるで楽しんでいるようであった。ナースとしての仕事上の彼女の立場であれば、彼女の笑みは頼もしく感じられる。何も心配などしなくてもいいという証明なのだからである。

 しかし、ナース服に隠された内面は分からない。ひょっとすると、いたずら心満載の女性なのかも知れない。そう思ってみると、見えなくもなかった。部屋の様子から感じるのかも知れないが、妖艶さを含んだ大人の女の笑みである。

 私は患者で、「まな板の上の鯉」状態ということもあり、簡単に逆らえない。しかも、彼女が言うには一週間目が覚めなかったことで、その間、私はまだ一週間前から一歩も進んでいないのだ。その間に何がどれだけ起こっているのか、誰にも詳細な説明などできるはずもない。一人一人の話をうまくつなぎ合わせれば時間を追うこともできるかも知れないが、物理的に不可能なのは分かりきっていることであった。

 この部屋の空気が次第に乾燥してくるのを感じた。少しずつ寒くなってきているので、夕方が近づいているようだ。さらに何とも言えない静寂が支配する世界。風が通り抜ける音が、普段と違ったイメージで聞こえてくるかのようだ。それは、風が空気を押しのけて進もうとする、風の音を普段想像しているよりもさらに重低音であった。

 風の音を、「ビュー」と表現するが、擬音というものは、人によっていかようにも想像がつくものだ。誰か一人が、

「こういう音なんだ」

 と定義づけてしまえば、誰も疑うことなく信じてしまう。だからこそ、音へのイメージはいい加減にしか思えなかった。静かに耳を澄ませていれば、その時にこの部屋の一番最初に感じなければいけない違和感に、今さらながらに気付かされたのであった。

「時計がないんだ」

 本当に今さらである。

 今がどの時間なのかを考えたのは一番最初ではないか。その時に時計を探したという記憶はない、無意識にではあったなら考えていたかも知れないが、それ以上に時計がないことの違和感を、最初に気付くことすらできないほど憔悴していたのかも知れない。

「浅間さん、今何時ですか?」

「今ですか? 今は夕方の四時半になります」

「昼下がりから、夕方にかけてという時間ですね。でも、どうしてこの部屋には時計がないんですか?」

 少し間があって、

「時計はわざと置いていないんですよ。患者さんに余計な不安を与えないようにしようというのが一番の目的ですね」

「不安というか、時計がない方が不安に感じると思うんですが」

「このお部屋で、患者さんが一人になるということはないんですよ。四六時誰かがいます。私も昼間はここにいますが、夜はまた別の方がお世話する形になるんですよ。時間が気になれば、いる人に聞くというのがここでの決まりのようになっていますね」

 午後四時半と言われれば、なるほど、確かにそれくらいの感じがする。

 先ほど感じた日差しは西日だったのだ。

 朝日が西日に見えたことはあったが、西日を朝日と勘違いしたことなどない。小学生の頃は、休日には、いつも昼寝をしていた。うたた寝から始まって、気が付けば夢を見ている。夜の就寝よりも夕方にかけての昼寝の方が夢を見る確率からすれば多かったように思う。

「夢というのは、目が覚める寸前のちょっとした時間に見るものだ」

 という話を聞いたことがあるが、深い眠りではないと見ることができないと思っていた。だが、昼寝のちょっとした時間の方が夢に陥る確率が高いということは、昼寝の方が眠りが深いということだろうか。目が覚めると、頭痛に襲われることも少なくない。痛みを堪えるというよりも、呼吸を整えることで頭痛を収めることができる。気が付けば収まっていることがあるが、それは見た夢を思い出そうとしている時だった。夢の内容を覚えているのも夜見る夢より鮮明で、夢を見るには眠りの深さに「ツボ」のようなものがあって、眠りの深さにはあまり関係のないことなのかも知れない。特に昼寝の夢から覚める時、時計の時を刻む音が聞こえる時がある。

「これは夢なんだ」

 と気付く時であり、目覚めが近い証拠であった。眠りから覚め、現実の扉を開く時、時計の音は重要な役割を果たしているようだ。

 目が覚めてから、どれくらいの時間が経ったというのだろう。時間の経過とともに意識はしっかりしてきたが、それにつれて疑問点も次々に湧いてくる。疑問点をひとつずつ聞いていく、解決していけばいいのだろうが、それ以上に増えてくるから厄介だった。

「そろそろ先生が参ります。気を楽にしていればいいですからね。そして、余計なことを疑問に感じないこと、まだ目が覚めて少ししか経っていないのですから、無理に頭を働かせる必要はないでんです。私はもしあなたが目覚めたら、そう言えと、先生から言われていましたからね」

 目を覚ましてからの自分は、まるで生まれ変わった人間になったかのようだ。何もかもが新鮮で、不安よりも期待の方が大きいのはどうしてだろう。ひょっとすると、今は記憶を失っていて、それ以前が自分で納得のいく人生ではなかったのかも知れない。そのことだけを覚えていて、ワクワクしているのではないだろうか。

 だが、まわりのことが何も分からないと思っていた間、確かに小学生時代のことや、家族のことを覚えていた。記憶に新しいものもあれば、忘れかかっているものもある。だが、時系列にできないところが、「夢を見ているような感覚」だったのである。

 さっきから呼び起こしていく記憶の中で、本当に自分の記憶なのかと疑問に思うところがある。元々の根幹になる記憶が普通にあって、少しだけ記憶が抜けているとしたならば、疑問になど思わないかも知れない。何を疑問に感じるかと言えば、記憶の中でつながりがないのだ。

 時系列がつながっていないのでつながらないのは分かるのだが、自分の記憶として意識していると、夢で見た記憶と混在しているように思えたからだ。夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだが、中には記憶として一番強く残っているものがある。それが普通の記憶と混在してしまったことで、自分の中でつながっているつもりの意識が勝手に暴走してしまっているかのように感じるのだった。

 暴走が不安につながる。特に今ここには自分を始めとして、自分を知っている人は誰もいない。完全に浦島太郎状態だ。だが、浦島太郎は自分の知っているところに戻ってきたのだ。そして、狂ってしまった運命を受け入れるかのように玉手箱を開いた。

――物事には、必ず着地点というものがあるんだな――

 と感じたが、私のこの状態に、納得のいく着地点はあるのだろうか。

 浦島太郎にしても自分では訳が分からなかったはずだ。物語なのだから、まわりが納得すればそれでいいとことでいいのだろうか?

 本を読む時は、たいてい、自分が主人公になった気分で読むことが多いはずだ。ラストシーンが意外であればあるほど、主人公になりきった読者にはどこまで耐えられるものかと思えてならない。中学生であるはずの私が、こんな難しいことを考えていることすらおかしなことだ。

 夢にしても、本を読んでいる時にしても、主人公になりきりたいという気持ちがあるにも関わらず、客観的に見ている自分を感じる。しかも冷静に、時々瞬時に主人公と客観的な自分とが入れ替わっているきがすることがある。それも気付かないうちに入れ替わっているのだ。

 浦島太郎の気持ちが分からなくもない。途方に暮れた時、玉手箱を開こうとしたのは、衝動的ではなかったのだろうか。どうしようかと悩んでしまうと、きっと開けられなかったかも知れない。悩んでいる時間が、失ってしまった時間に匹敵するくらいで、自然に年を取っていくまで、悩み続けるのではないだろうか。それが実は恐ろしいことであって、玉手箱を開いた方が、どれだけ幸せだったのかと私は感じるのだ。おとぎ話には必ず落としどころがあり、目に見えていることだけが真実だとは限らない気がする。正反対の目線から見ても真実だったりする。

「逆も真なり」

 という言葉があるが、まさしくその通りだ。特に病室のベッドの中で、身動きが取れずにいると、いろいろ考える。歩いたり走ったりして進んでいる時は、前ばかり向いているのだということに、気付かされる。

 後ろを見ているわけではなく、反対方向から自分を見ている。目が自分の身体を離れて、違う方向から見ているのだ。それを感じるのは、時間の流れがゆっくりと感じられるからだ。時計がないので分からないが、少ししか時間が経っていないと思っていても、結構経っているのではないかと思える。

 それこそ、浦島太郎の感じている感覚ではないだろうか。一週間も眠り続けて、その間の記憶は飛んでいる、一瞬にして時間を飛び越え、目が覚めたのだ。しかも、それ以前の記憶が中途半端、今の自分もどこまで信じられるのか分からない。時間に身を委ねている瞬間だと言っても過言ではない。

 浅間さんの手が止まった。さっきまで静寂な中にもざわついたものを感じていたが、今は静寂すぎて、耳鳴りが起こっているかのようだった。遠くから乾いた音が規則正しく響いているのが聞こえた。それが靴音であることが分かると、さっきまで他に人はいると分かっていても、浅間さんとの二人だけの世界を真実として受け止めていた。

 靴音はそんな私の気持ちを違う方向に目覚めさせるものだった。

「あれっ?」

 遠くで響いていた音は、最初一人だと思っていたが、近づいてくるうちに、二人、いや三人と増えてくるかのようだった。

 途端に、恐怖が頭をもたげた。せっかく浅間さんと二人きりの間に失った一週間を落ち着いて考えようと思っていた矢先だっただけに、これからどうなるのだろうという不安がよみがえってきた。

 乾いた靴音はそれぞれに重みや、繊細さのようなものがあった。同じように歩いていても、音が微妙に違い、乾いた音のコントラストが奏でられている。

 廊下の広さが感覚的に分かってきた。思ったよりも広い廊下で、何よりも、天井が高いのではないかと思えてきた。ゆっくりとしたストライドの靴音は、明らかにその人が落ち着いていることを示していた。それでいて、ただ歩いているだけではなく、絶えず何かを考えている、しかも、前を向いて先だけを見ているように思った。重みのある靴音は、前を向きながら現在の足元をしっかりと見据えているようだ。それがこれからの私の運命をいかに決めていくのか、不安は募るばかりであった。

「コンコン」

 扉をたたく音がやたらとゆっくりに聞こえ、まるでこだましているかのようだった。

「はい」

 浅間さんが答えた。その声は若干身構えたように感じられ、私の方を一瞥し、扉の方に向かっていった。歩くスピードもゆっくりで、宙に浮いているかのように見えた。だが、決して軽やかとは言えない。夢遊しているかのようだった。

「ギーッ」

 蝶番でも錆びついているのか、今日の湿気を物語っているように、余韻を残す音が響いている。

 いよいよ扉が開かれる。影が扉の向こうに見えたが、実際の姿はまだまだ見えない。

――別世界に飛び出していきそうだ――

 実際に飛び出したのかも知れない。いや、元々、この世界だって、異次元のようなものに思えている。夢だってきっと異次元なのだろう。異次元の世界に飛び出したのがこの病室であるとすれば、扉が開いたその先は何なのだろう。今までいた世界であるということかも知れない。

 今までいた世界に対する怯え、それが記憶を失う前、つまり一週間前のことだったのかも知れない……。

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