第一話 梶之助の幼馴染はかわいいだけじゃない

「貝殻をジューサーに入れたら故障するだろ」

 五郎次爺ちゃん特製ドリンクは即効台所の流しに捨てて、梶之助は学校に行く支度を済ませる。

「梶之助よ、カルシウムが含まれているんじゃが……僕の特製ドリンク、そんなに不味いんかのう」

それを目にした五郎次爺ちゃん、再び寝室に閉じ篭って寝込む。自分の思い通りにならないとすぐこんな風に拗ねる子どもっぽい一面もあるのだ。

 まもなく午前七時五五分になろうという頃、ピンポーン♪ とチャイム音が鳴り響く。

「おっはよう、梶之助くん、学校行こう!」

 その約一秒後、ガラガラッと横開き玄関扉の引かれる音と共に威勢のいい声が聞こえて来た。

「おはよう白山ちゃん、すぐ行くから」

 梶之助は通学鞄を肩に掛け、玄関先へと向かう。

 訪れて来たのは、三星白山(みつぼし もんぶらん)という女の子。鬼柳宅から徒歩一分足らずのすぐ近所に住む、梶之助の同い年の幼馴染だ。

学校がある日は、いつもこの時間帯くらいに迎えに来てくれる。フランス人形みたいにくりくりとしたつぶらな瞳で丸っこいお顔、まっすぐ伸びた一文字眉で、おでこはちょっぴり広め。身長は一四五センチと梶之助よりもさらに十センチほど低くほっそりとした華奢な体つきで、サラサラしたほんのり栗色な髪をいつも栗色の花柄シニヨンネットでお団子結びに束ねているとってもあどけなく可愛らしい子なのだ。

 だが、その守ってあげたくなるような外見とは裏腹に、梶之助とは真逆でスポーツ万能。中でも特に信じられないのが、その体格で〝相撲〟を愛好していることなのだ。しかもかなり強い。バク宙、バク転もこなせるアクロバットな身体能力で小柄さがむしろ武器になっている。梶之助は昔から練習相手として度々標的にされ、何度も何度も何度もぶん投げられた苦い経験がある。白山が髪型をお団子結びにしているのは、力士が結う髷を意識しているからなのだそうだ。

おウチが洋菓子店を営んでいるからなのか、フランス菓子のケーキの名前と同じで、きらきらネームっぽいけれど、白山は純真無垢でとっても良い子だとみんなから愛されている。

「では、五郎次お爺様、行って来まーすっ!」

「じゃ、行ってくる」

 七時五五分頃、梶之助の両親はこの時間には既に出勤しているので、齢九〇の五郎次爺ちゃん一人残し白山と梶之助は家を出発。この二人は高校へ入ってからも徒歩通学だ。ここから二人が通う県立淳甲台(じゅんこうだい)高校まで二キロ近くあり、自転車通学も許可されているのだが、白山が足腰を鍛えたいからという理由で梶之助も無理やり付き合わされているのだ。

 じつは入学式当日、梶之助は徒歩は嫌だと断ったのだが、白山と腕相撲勝負をしてあっさり負けてしまったため、以降白山の希望に従わざるを得なくなってしまったというなんとも情けない経緯があった。

 二人は門を抜けて、通学路を一列で歩き進む。この時、白山が前を行くことが多いのだ。

「梶之助くん、今日までに提出の数Ⅰの演習プリントは、全部出来てる?」

「まあ、一応」

「じゃぁあとで写させて。私、分からない問題多くて空欄いっぱいあるんだ」

「いいけど、自分の力でやった方がいいよ」

「それは重々承知なんだけど、私、数学めっちゃ苦手だし、私一人の力じゃ無理だよ。英語も高校に入ってから急に難しくなったと思わない? 幕下の下の方の力士がいきなり幕内で取らされるような感じだよ」

「また相撲に例えてる。確かに覚えなきゃいけない英単語や英熟語、中学の時と比べ物にならないくらい増えたよな。文法もややこしいし。それにしても、今日は朝からけっこう暑いな」

「そうだね、半袖でもいけそうだよね。学校着く頃には汗びっしょりになりそう。夏服にすれば良かったよ」

他にもいろいろ取り留めのない会話を進めていくうち、学校のすぐ側まで近づいて来た。この二人以外の淳高生達も周りにだんだん増えてくる。この高校では今日から五月いっぱいまで制服移行期間。まだ梶之助と白山のように冬用の紺色ブレザーを身に纏っていた生徒の方が多く見受けられた。

二人は校舎に入ると、最上階四階にある一年二組の教室へ。幼小中高同じ学校に通い続けている二人は小六の時以来、久し振りに同じクラスになることが出来た。芸術選択で同じ書道を取ったため、なれる確率も高かったのだ。

「モンブランちゃん、おはよー」

「おはよう白山さん」

 白山が自分の席へ向かおうとすると、幼稚園時代からの大の親友、南中秋穂(みなみなか あきほ)と安福利乃(やすふく りの)が穏やかな声で挨拶してくる。梶之助にとっても古い顔馴染みの子達だ。

「おっはよう! 秋穂ちゃん、利乃ちゃん。二人ともまだ冬服だね」

白山は爽やかな表情と明るい声で返してあげ、席に着いた。座席はまだ入学した当初のまま出席番号順に並べられている。

 秋穂は面長ぱっちり垂れ目、細長八の字眉がチャームポイント。ほんのり茶色なふんわりとした髪を少し巻いて、アジサイなどの花柄シュシュで二つ結びにしているのがいつもヘアスタイルだ。すらっとした体型で背丈は一六〇センチちょっとあり、おっとりのんびりとした雰囲気を漂わせている。

利乃は、背丈は一五〇センチをほんの少し越えるくらい。まん丸な黒縁メガネをかけて、濡れ羽色の髪を肩より少し下くらいまでの三つ編み一つ結びにしている。とても真面目そうで賢そう、加えてお淑やかで大人しそうな優等生らしい雰囲気の子だ。

二人とも文化系っぽい子だが、白山も見た目は文化系女子なので釣り合いの取れた仲良し三人組といえよう。

梶之助が自分の席に着いてから五分ほどのち、

「やぁ、梶之助殿ぉー」

いつものように彼の親友の大迎光洋(おおむかい こうよう)が登校して来てのっしのっしと近寄ってくる。光洋は完全夏用のポロシャツと薄手の灰色ズボンという組み合わせだった。 

「おはよう光洋。やっぱいきなり夏服か。暑がりだもんなぁ」

梶之助は光洋と小一の頃から九年来の親友だ。同じクラスになり、出席番号が梶之助のすぐ前になったことがきっかけで自然に話し合う機会が出来、お互い仲良くなったというわけである。その後も小二、小四、中一、そして今学年で同じクラスになり出席番号も前後した。ただ、梶之助は光洋が前では黒板の字が見えにくいので、座席順は過去四回なった時と同じく担任に頼み前後逆にしてもらった。

なぜなら光洋は身長一八六センチ、体重はなんと一三〇キロ以上の大相撲力士としても申し分ないたいそう恵まれた体格をしているからである。小学校を卒業する頃にはすでに一七〇センチ、百キロ以上に達していた。

あまりに太り過ぎているためか、光洋は梶之助と同じくスポーツ全般超苦手なのだ。先月、体育の授業で行われた新体力テストでも、結果は梶之助と同じく全ての種目で同学年男子の平均以下だった。握力やハンドボール投げでさえも。五〇メートル走に至っては一一秒台後半と、同級生の足の速い子の百メートル走よりも時間がかかってしまうという有様だった。けれども彼は、たまに鬼柳宅を訪れ、メロンやスイカなど買うとけっこう高い果物を無料で譲ってくれる気前の良いやつでもある。そんなことが出来るのは、彼の家が果物屋さんを営んでいるからではあるが。

この無駄に大柄な体格のせいで、光洋は五郎次爺ちゃんにかなり気に入られてしまっている。訪れる度、五郎次爺ちゃんが角界入りを熱心に勧めてくることに光洋はうんざりしており、おいらは新弟子検査には間違いなく受かるだろうけど、相撲界の厳しいしきたりや稽古に耐えられるはずはないよ。たとえ式秀部屋でもと五郎次爺ちゃんに決まり文句のように言い張っている。

「おっはよう、光ちゃん」

「……おっ、おはよぅ」 

突如、白山に明るい声で挨拶された光洋は、思わず目を逸らしてしまった。彼は白山に限らず、三次元の女の子がよほど年上でもない限り苦手なのだ。裏話、光洋は小学校時代、休み時間や登下校中に白山にしばしばいっしょにお相撲ごっこしようとかって懐かれ、対戦をさせられいつも白山にバランスを崩され投げ飛ばされていた経験がある。その度に周りで見ていた多くの他の女の子から弱過ぎとか泣き虫とかって言われ笑われバカにされていたのだ。

光洋が三次元の女の子に嫌気がさして二次元美少女の世界にのめり込むようになったのは、そんな理由なんだろうなと梶之助は推測している。 

「梶之助くん、数Ⅰの宿題写し終わったよ、サーンキュ。これからもよろしく頼むね」

「いや、だから自分の力でやった方が……」

梶之助が呆れ顔でそう言ったちょうどその時、八時半の、朝のホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。白山他、立っているクラスメート達はぞろぞろ自分の席へ。

「皆さん、おはようございます」

ほどなくして、クラス担任で英語科の寺尾先生がやって来た。背丈は一五五センチくらい。面長ぱっちり瞳。ほんのり栗色ミディアムボブヘア。二九歳の実年齢よりも若く見え、女子大生っぽさもまだ感じられるそんな彼女はいつも通り出欠を取り、諸連絡を伝え、このあと八時四〇分から始まる一時限目の授業を受け持つクラスへと移動していく。一年二組では、今日は数学Ⅰの授業が組まれてあった。


「梶之助殿ぉ、おいら、数学、速過ぎてついていけんわー」

九時二五分、一時限目が終わり休み時間が始まると、光洋が後ろからため息交じりに話しかけてくる。

「ちゃんと予習して来ないからだろ」

 梶之助は笑顔で指摘する。

「この間の小テストも二点しかなかったし、このままやとおいら、中間やべぇな、本気出さんと。一週間前からマンガとゲームと深夜アニメとラノベ封印して」

「ボクは高校生活最初の中間テスト、とっても楽しみにしているよーん。科目数も増えるしぃ」

 二人の会話に、とある冬服姿の男子クラスメートも割り込んで来た。

「さすが秀平殿、余裕の構えであるな。この高校の新入生テストでも学年トップだったし。国数英の三教科合計二九八(にーきゅっぱ)だったよな?」

「はいぃ、その通りでございますぅ。ボク、じつは三〇〇点満点を狙っていたのですが、国語で文法問題一問落としちゃいましたよ。トホホ」

秀平という名の子だった。彼はしょんぼりとした表情で言う。光洋にとって秀平は、梶之助と同じアニメ部仲間だ。中学の頃も同じパソコン部だった。

「それで不満そうにするなよ。秀平は相変わらずの天才振りだよな」

 梶之助は感心していた。同じ幼小中出身のため、秀平のことは昔からよく知っている。つまり白山や秋穂、利乃も彼の古い顔馴染みというわけだ。

「おいら達とは次元が違い過ぎるぜ。秀平殿、灘高行けてたんじゃねぇの?」

「いやいや、さすがに灘はボクの学力程度では絶対無理だよーん。というかボク、将来は京大理学部を目指してるけど、それまでの過程において、べつに有名私立に行く必要はないのでは、と考えてるからね。中学受験も一切しなかったよーん」

「それで高校もおいら達と同じ公立に来たってわけであるか?」

「イエス。淳高はボクんちから一番近いので通学の手間も省けるしぃ」

 光洋の質問に、秀平は自宅から持って来たラノベを読みながら淡々と答えていく。

「それは才能が勿体ないぜ。というか東大じゃなくて京大なのだな。おいらも秀平殿みたいな天才的頭脳が欲しいぜ。吸収っ!」

 光洋は秀平の頭を両サイドから強く押さえ付けた。

「あべべべ、大迎君、すこぶる痛いので止めてくれたまえぇぇぇぇ」

 秀平は首をブンブン振り動かし抵抗する。

「中間では、どれか一科目だけでも勝ってみせるぜ」

 そう宣言し、光洋は手を離してあげた。

秀平のフルネームは助野秀平(すけの しゅうへい)。一六九センチの背丈は高一男子としてごく普通だが、体重は約五〇キロと痩せ型。新体力テストの結果も梶之助や光洋と同じく全て平均以下の運動音痴振り。しかしながら現時点ですでに東大理Ⅰに合格出来そうな学力を有する秀才君なのだ。坊っちゃん刈り、四角眼鏡、丸顔。まさに絵に描いたようながり勉くんな風貌である。

「秀ちゃん、北大の過去問当てられて、あっさり解いちゃうなんて凄いね。大関級の難問なのに」

「先生も驚いてたよね。超天才だよ、シュウちゃんは」

「秀平さんは、淳高始まって以来の天才だと思います」 

 白山と秋穂、さらに利乃も、この三人の側へぴょこぴょこ歩み寄って来た。

「いっ、いえ、それほどでもぉ……」

 秀平は俯き加減になり、謙遜する。彼も光洋と同じく、物心ついた頃から三次元の女の子を苦手としているのだ。光洋よりも早く小学四年生頃にはすでに二次元美少女の世界にどっぷり嵌っていた。しかしながら、秀平がそういった趣味を持っているということは、梶之助は中学に入学してパソコン部に入部するまで知らなかったのだ。


        ○


「それじゃ、梶之助くん。また後でね」

「うん」

 放課後、部活動の時間が始まると、梶之助は白山といったん別れた。

白山は柔道部もしくはその他の運動部……ではなく利乃や秋穂と同じ文化部の代表とも言える文芸部に所属している。

じつは白山は、今でも幼い子ども向けの絵本やアニメや小説が大好きで、将来は絵本作家になりたいとも願っているのだ。白山が相撲に嵌ったきっかけも幼稚園に入って間もない頃に、金太郎のお話が大好きだったから金太郎さんの真似をしてお友達とお相撲ごっこをしてみた、という単純なものであった。梶之助のおウチがかつての力士一家だったことに対する影響よりも大きかったのだ。

白山のおウチ自室にある本棚には、幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本などが合わせて二百冊くらい並べられていて、普通の女子高生が好みそうなティーン向けファッション誌は一つも見当たらない。クマやウサギ、リス、ネコといった可愛らしい動物のぬいぐるみもたくさん飾られていて、お部屋の様子はあどけない女の子らしさが醸し出されている。 

梶之助と光洋、そして秀平の男子三人組は週一回木曜日だけ活動しているアニメ部の部室、情報処理実習室へと向かった。そこには最新式に近いデスクトップパソコンが全部で五〇台ほど設置されてある。

アニメ部の主な活動はその名の通りアニメーションの創作活動。他にもゲーム製作やDTM作曲活動なんかもしている。パソコンを使って作業をするため、ここを部室として使っているのだ。

ところがこの三人は、ウェブサイトの閲覧やアニメ鑑賞だけをして過ごすことがほとんどである。顧問はいるものの、放任状態となっているため特に咎められることはないという。三十数名いる他の部員達(大半は男子)もゲームで遊んだり、動画投稿サイトや某巨大ネット掲示板を眺めていたりと本来の活動内容とは全く違ったことをしている者は多い。真面目に活動している者は半数に満たないくらいなのだ。

三人は一台のパソコンの前にイスを寄せ合い、近くに固まるようにして座る。梶之助が電源ボタンを入れ、彼のパスワードでパソコンを起動させた。

「まずはこれから見ようぜ」

 光洋はとある動画配信サイトを開き、女の子達がいっぱいなアイドル系アニメを再生した。 

「光洋、俺にはこういう系のアニメ、どれも同じに見えるんだけど……この間見たやつとは違うんだよな?」

 流れてくる高画質かつ高音質な映像を眺めながら、梶之助は眉を顰める。

「梶之助殿はまだまだ稽古不足であるな。おいらは日々睡眠時間を惜しんで深夜アニメを三時間以上は凝視してるから、キャラ、キャラデザ、声優含めどれも全部違うアニメに見えるというのに」

 光洋は大きく笑った。

「その分を教科の勉強に費やせよ」

 梶之助はやや呆れる。 

「まあ鬼柳君は、ボクや大迎君のようにまではのめり込まない方がいいよーん。もう戻れなくなるからね」

 秀平は自嘲気味に警告する。

 同じ頃、文芸部の部室【視聴覚室】。

「あっ、また折れちゃった」

「モンブランちゃん、握力強過ぎだよ。もっとそーっと握らなきゃ」

白山と秋穂は、色鉛筆やクレヨンを用いて絵本作りに励んでいた。

「あー、ダメだぁ。もうストーリーが全然思い浮かばないよぅ。まだ二〇ページも書いてないのに」

一方、利乃はパソコン画面に向かいながら、嘆きの声を上げた。

文芸部の主な活動は漫画、小説、詩、絵本などの創作活動だ。アニメ部とは対照的に、部員のほとんどが女子である。

「利乃ちゃん、小説書くのに行き詰ったみたいだね」

 白山は楽しそうに話しかける。

「うん、わたし、高校最初の目標はラノベレーベルの新人賞に初挑戦することなんだけど、まだわたしにはハードルが高過ぎるよ」

 利乃は苦い表情を浮かべた。

「ラノベの新人賞って、ものすごい文字数書かなきゃいけないもんね。最低八万字以上も書くなんて、ワタシには絶対無理だなぁ。原稿用紙五枚から十枚くらいでいい童話賞のしか書けないよ」

 秋穂は、利乃が応募しようとしている新人賞の応募要項と選考結果の載せられたホームページを開き、眺めながら呟く。

「私なんて読書感想文を五枚分埋めるのすら無理だよ。ラノベ賞の選考過程って、大相撲の番付昇進に通じる所があるね。こんな感じで」

 白山はそのページを眺めながらにこにこ顔で呟き、黒のボールペンを手に取った。そしてメモ用紙にこう書き記す。

 一次選考落ち=幕下以下。一次選考通過=十両。二次選考通過=前頭。三次選考通過=小結・関脇。最終選考=大関。受賞デビュー=横綱。 

白山は新人賞の選考過程を大相撲の番付になぞらえたのだ。

「白山さん、相撲に例えるなんて、本当に相撲好きね。けど確かに通じる所があるよ。番付も降格するように、選考過程も降格するからね。一度最終選考まで残った人が、次に書いた作品では一次も通らなかったりすることはよくあるみたいなので。それどころか著書を何冊か出しているプロ作家さんですら、改めて賞に応募すると一次で落とされるケースはけっこうあるみたいよ」

 利乃は笑顔で伝えた。

「プロ作家でも一次で落ちちゃうのかぁ。まるで三役経験のある力士が幕下まで陥落して、幕下相手にも全然勝てなくなるような落ちぶれ方だね」

 白山の呟きを聞き、

「白山さん、また相撲に例えてる」

 利乃はくすっと笑った。

「ねえリノちゃん、ライトノベルの新人賞って、競争倍率も物凄いよね。何千作も集まってくる中で、受賞してるのは三作か四作くらいしかないもん。大学入試の五倍とかの倍率がものすごく低く感じるよ」

 選考結果を眺め、秋穂は思ったことを率直に述べてみる。

「わたしもそう思うわ。さらに大学一般入試とは違って正しい解答、明確かつ公平な採点基準が無いからね。現代文の記述問題、小論文試験以上の不明確さよ。でも、だからこそ挑戦し甲斐があるの。わたし、高校在学中に受賞は無理にしても一次選考くらいは通ることを目標にしてるわ」

 利乃はきりっとした表情で打ち明けた。

「頑張れリノちゃん、ワタシ、応援してるよ」

 秋穂は温かくエールを送る。

「でもさぁ、利乃ちゃん、まずは完成させなきゃ応募すら出来ないじゃん」

 白山はにっこり笑いながら指摘した。

「そうなのよね、まずはその壁を突破しなきゃね。ネット小説大賞みたいに、書きかけの連載中でも文字数少なくても応募出来る賞もけっこうあるから、それを目指そうかな」

 利乃は苦笑い。

 そんなやり取りから一時間ほどが経った頃。アニメ部の部室では、

「次はこれやろうぜ」

 光洋が通学鞄から、一つの箱を取り出した。

「こっ、光洋、これは、非常にまずいだろ」

 パッケージに描かれたアダルトなカラーイラストを目にした瞬間、梶之助の顔が引き攣る。

「おいら的法律によれば、十八禁とは〝十八歳以上はプレイ禁止〟ってことだぜ」

 光洋はきりっとした表情で言い張った。

「おいおい。真逆の解釈をするな」

 梶之助は呆れてしまった。

「良いではないか、梶之助殿。高校生の兄と中学生の妹が仲睦まじくいっしょにエロゲープレイしてるラノベもあるんだし、全く問題ないって」

「そうだよね大迎君、いまどき小学生でもエロゲをプレイするものだしぃ」

 秀平も肯定派だった。

「そういう子達の将来が心配だ」

 梶之助は頭を抱える。

「梶之助殿、このエロゲはエロシーンは少ない方なんだぜ。七月からはサ○テレビでアニメも始まるし」

 光洋が、肝心のゲームが収録されてあるDVD‐ROMを箱から取り出し、投入口に入れようとした瞬間、

「光ちゃん、何しようとしてるのかなぁ?」

 背後から誰かにそのDVD‐ROMをパッと奪い取られ、阻止された。

「うぉっ!」

 光洋はビクーッとなる。

 正体は、白山だった。 

「光洋さん、これらは不要物よ。先生に見つかったら没収どころか停学処分よ」

「コウちゃん、こんなエッチなものに手を出しちゃダメだよ。お母さんが悲しむよ」

 利乃と秋穂もいた。二人とも頬を赤らめて、パッケージに描かれたイラストを眺めながら注意してくる。

「わっ、分かりましたぁ。すぐに、仕舞います」

 光洋は白山からDVD‐ROMを返してもらうと、素直に従う仕草を見せた。

「今度持って来たら真っ二つに割るからね。梶之助くんも、こんないやらしいのを好きになっちゃダメだよ」

 白山は心配そうに忠告する。

「分かってる。俺、こんなのには全く興味ないから」

 梶之助は安心させるように答えた。

「じゃあ梶之助くん、いっしょに帰ろう」

「うっ、うん。いっ、いたたたぁ」

 白山に腕をぐいっと引っ張られ、情報処理実習室から強制退出させられてしまう。

「梶之助殿も大変だな」

「今しがた邪魔者は去った。それでは、再開しますか」

 秋穂と利乃も退出したのを確認すると、光洋と秀平は先ほどの忠告は無視してエロゲープレイに興じたのであった。

 帰り道、

「私、あとで梶之助くんち寄るね。五郎次お爺様から借りてた大相撲のビデオ、返したいから」

「分かった」

 白山からの伝言を、梶之助は快く承知する。五郎次爺ちゃんは毎朝白山が訪れる時間には梶之助の例の行動によって寝込んでいるため、直接会うことはないのだ。

「九〇年代の取組は今よりも面白いのが多いよね。舞の海が曙とか武蔵丸とか小錦とか、超大型力士に挑んで勝つ取組は私にとっても励みになるよ。水戸泉が豪快に塩を撒くシーンも最高だね。あと、旭道山が久島海を張り手一発で倒した取組もすごく燃えたよ。私がまだ生まれる前だよね、リアルタイムで見たかったなぁ」

 白山は興奮気味に感想を語る。

 五郎次爺ちゃんは一九七〇年代末以降、現在に至るまでテレビ中継される大相撲の取組の一部を録画保存しているのだ。白山が今回借りていたものはVHSで録画されたものだが、五年ほど前の取組からはブルーレイディスクに録画するようになった。ちなみに操作方法を五郎次爺ちゃんに教えたのは梶之助である。九〇のご老人にはごく普通のことだとは思うが、五郎次爺ちゃんは最近の家電製品には疎いのだ。

「ただいま、五郎次爺ちゃん」

「おう、おかえり梶之助」

梶之助が帰宅後の挨拶をすると、五郎次爺ちゃんは明るい声で返した。こんな風に梶之助が帰宅する頃にはいつもの機嫌に戻っている。五郎次爺ちゃんは、夕方頃は茶の間でテレビを見てくつろいでいることが多いのだ。

 それから二〇分ほどのち、

「こんばんはーっ、五郎次お爺様ぁ」

「ぅおううううう、白山ちゃんじゃぁぁぁーっ。ワッホホゥゥゥゥゥーッイ! モンプティタミーッ。ボンソワール」

 白山がやって来ると、五郎次爺ちゃんは犬は喜び庭駆け回るように歓喜し、白山にガバッと抱きついた。

「えーいっ!」

 その刹那、白山は五郎次爺ちゃんの腕をサッと掴み、一本背負いでいともあっさり空中へ投げ飛ばした。柔道の技として有名だが、大相撲の決まり手の一つでもある。

「わーお!」

五郎次爺ちゃん、くるり一回転、茶の間の畳にズサーッと着地。その衝撃で入れ歯ふわり空中遊泳。

「もう、五郎次お爺様ったら。でもそこが素敵です♪」

 白山は照れ笑いする。

「フォフォフォッ、僕とっても嬉しいな、白山ちゃんみたいな若い娘さんに投げ飛ばされてもらえて」

 吹っ飛んだ入れ歯を見事口でキャッチし、付け直した五郎次爺ちゃん。

「五郎次お爺様、相変わらずハリウッドスターのようなアクションですね」

 白山は嬉しそうに微笑む。

「五郎次爺ちゃん、受け身の取り方だけは横綱免許皆伝級だな」

 梶之助は呆れ返った。

 五郎次爺ちゃんは大昔、かの双葉山が大活躍していた頃からの大相撲ファンだ。幼少期はラジオで大相撲中継を熱心に聴いていた。昭和二〇年代後半、テレビが普及するようになって以降は毎場所テレビ中継を楽しんでいる。三月の春場所(大阪場所)の時は生で観戦しに行くことも多い。だが彼には、大相撲以上に熱心に観戦しているものがあるのだ。

それは、この地域で六十数年続く伝統行事、年一回開催され白山も幼稚園の頃から毎年出場している〝女相撲大会〟である。

「白山ちゃん、久し振りに梶之助と相撲を取ってくれんかのう。僕、お二人の対戦が久し振りに見たくなったんじゃ」

「OK! お見せしてあげるよ、五郎次お爺様。大会も間近ですし練習も兼ねて」

 五郎次爺ちゃんの突然の依頼を、白山は快く引き受ける。

「ごっ、五郎次爺ちゃん、そっ、そんな急に……」

 梶之助はたじろいだ。

「今年のお正月の時に取って以来、かなり久々に対戦することになるね」

 一方、白山はかなり乗り気な様子だ。

「梶之助、マワシじゃ。力士と同じようにこれ付けてやれ!」

 五郎次爺ちゃんは自室のタンスから水色のを取り出して来て、梶之助の眼前にかざす。

「梶之助くん、付けてあげるからおズボンとおパンツ脱いで!」

 白山から藪から棒に大胆発言。

「五郎次爺ちゃん、白山ちゃん。俺、マワシ姿になるなんて恥ずかしいから嫌だよ。前にも言っただろ」

 梶之助は当然のように困惑する。

「もう、情けない。小学校の頃までは喜んで付けてたくせに。そんじゃあ今回もトランクス一丁でいいよ。私はちゃんとマワシ付けてやるよ。ちょっと準備して来ます」

 白山はちょっぴり不満な面持ちで、彼女の自宅へ。

 それから五分ほど後、

「お待たせーっ!」

白山が鬼柳宅玄関先へ戻って来た。上半身は裸、ではもちろんなくレオタードを纏って、その上から女相撲用の簡易マワシを付けている。ちなみに鮮やかな栗色だ。白山はこの色が一番のお気に入りなのだ。

「あーら、いらっしゃい。お久し振りねぇ白山さん」

「こんばんはー。おじゃましてます、寿美おば様」

 ほどなくして、タイミングを合わせるかのように梶之助の母、寿美さんも帰って来た。御年五〇を越えているが、白髪や顔の小皺はほとんど目立っておらずまだ三〇代前半くらいの若々しさが感じられるお方である。背丈も一七〇センチ近くあり、すらりと高い。皮肉なことに、梶之助の四人いる姉は皆、彼女の遺伝子が受け継がれ一七〇センチを超えているのである。

「白山さんのマワシ姿はいつ見てもさまになってるわね」

「それほどでもないですよぅ、寿美おば様ったら、褒め上手」

 寿美さんに褒められ、頬をポッと桜色に染め微笑む白山。

「ふふふ、かわいい。その格好してるってことは、ひょっとして――」

「その通りです。私、今から梶之助くんとお相撲取るんです!」

「やっぱり。今回はどんな攻防が繰り広げられるのか楽しみね。それじゃあ、今回もわたくしが呼出さんやろうかしら」

「そんじゃ僕、行司さんやるねっ!」

「よろしくお願いします! 寿美おば様、五郎次お爺様」

 白山に頼まれると、五郎次爺ちゃんはすぐさま大喜びで行司装束に着替えて来た。右手には軍配団扇を装備。鬼柳宅にはこんなマニアックな相撲グッズまで保管されてあるのだ。

 このあと寿美さん、五郎次爺ちゃん、白山、梶之助の四人は鬼柳宅離れにある相撲道場を訪れる。梶之助は白山に腕を引っ張られ無理やり連れてこられたような形となった。

木造瓦葺平屋建ての小屋で、造られたのは一九〇七年(明治四〇年)。すでに創立百年以上が経過している。当然のようにこれまでに何度か改修工事がされてあるものの、外観は建立当時のままほとんど変わっていない。入口横にある『鬼柳相撲道場』と木版に縦書き行書体で肉合彫りにされた看板もかなり色あせていて、時代の流れを感じさせていた。

出入口を通ってすぐ目の前に直径十五尺(およそ四メートル五五センチ)の土俵、さらに奥側に見物用の座敷も設けられてある。

かつて、五〇年ほど前までは、この場所で毎日のように鬼柳家や近隣に住む力自慢の男共よる激しい稽古が流血も交えながら行われ、大勢の見物人で賑わっていたようだが、今ではそんな面影すら全く感じられない。

今回のように、梶之助と白山が時たま遊びのような相撲を取る時に使用されるくらいである。

 四人とも靴と、靴下も脱いで素足になり道場の中へ。土足厳禁なのだ。

「白山ちゃん、やっぱ勝負はやめない?」

 土俵を眺め、梶之助は怖気づいてしまった。

「もう、何言ってるのよ、梶之助くん。男の子でしょう?」

「そうじゃぞ梶之助。男たるもの度胸が必要なのじゃ。ご先祖様や、正代(まさよ)も草葉の陰で泣いておるぞ」

 白山と五郎次爺ちゃんが非難してくる。ちなみに正代とは、五郎次爺ちゃんの妻、ようするに梶之助の父方の祖母に当たるお方だ。二年ほど前に他界している。

「さあ梶之助くん、早く準備して」

「わっ、分かってるって」

 こうして梶之助はしぶしぶ長袖ワイシャツを脱いで上半身裸となり、ジーパンも脱いでトランクス一枚だけの姿になった。彼のあまり筋肉のない細身の体が露になる。

「梶之助、しっかり頑張りなさい。それじゃ、始めますか」

 寿美さんはこう告げたのち、息をスゥっと大きく吸い込んだ。

 そして、

「ひがあああああしいいいいい、もんぶらんふじいいい~、もんぶらんふじいいいいい~。にいいいいいしいいいいい、たにいいいかぜえええええ、たにいいいかあああぜえええええ」

 独特の節回しで四股名を呼び上げた。ソプラノ歌手のような透き通る美声であった。梶之助と白山はそれを合図に土俵へと足を踏み入れる。

梶之助の四股名は『谷風』。白山に名付けられた、というか四代横綱そのままだ。

 そして白山は『白山富士』。命名は五郎次爺ちゃん。白山と同じ名前のアルプス山脈最高峰と日本最高峰、富士山とを組み合わせ、女相撲界の頂点に立って欲しいという願いが込められているらしい。白山はとても気に入っていて、女相撲大会でも初出場の時からずっとこの四股名を使っている。

「梶之助くん、もしかして緊張しちゃってる?」

 白山は四股を踏みながら問い詰めてくる。

「しっ、してないよ」

 梶之助はこう答えるも、内心していた。仕切りのさい、彼は照れくさそうに四股踏みをする。その所作は、白山と比べるとかなりぎこちなかった。

 仕切りを四度繰り返したところで、寿美さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。

(なんでこんなことしなきゃいけないんだよ?)

 梶之助はかなり緊張の面持ちで、

(梶之助くん、あれから少しは強くなってるかな?)

白山は楽しげな気分で土俵中央に二本、縦に白く引かれた仕切り線の前へ。

両者、向かい合う。

「さあ、梶之助くん、思いっきりドンッってぶつかってきてね!」

 そう言って、こぶしで胸元を叩く白山。余裕の面持ちか、にっこり笑っていた。

「お互い待ったなしじゃ。手を下ろして」

 五郎次爺ちゃんから命令されると、両者ゆっくりと腰を下ろし蹲踞姿勢を取ったのち、仕切り線手前に両こぶしを付けた。

「見合って、見合って。はっきよーい、のこった!」

 いよいよ軍配返される。

梶之助は白山に言われた通り、渾身の力をこめて突進していった。すると白山のマワシをいとも簡単にがっちり捕まえることが出来たのだ。

「梶之助くん今回すごくいい当たり。その調子でもーっと私を強く押してみてね」

「うっ、動かねえ……」

 白山の体は、まるで巨大な岩のようだった。

「もう、私のペッタンコなおっぱいにこーんなにお顔埋めちゃって、エッチね」

「いや白山ちゃん、俺、決してそんなつもりは――」

 梶之助はびくっと反応し、白山のマワシから両手を離してしまった。

「せっかくわざとマワシ取らせて梶之助くん有利にしてあげたのにな。とりゃあっ!」

 白山の威勢のいい掛け声。

「うわぁっ」

その瞬間、梶之助は一瞬のうちに白山の肩に担ぎ上げられ空中一回転。先ほどの五郎次爺ちゃんと同じ技をかけられてしまったのだ。

「ただいまの決まり手は一本背負い、一本背負いで白山富士の勝ち! どうじゃ梶之助、地球にいながらにして無重力空間を漂っているような清清しい気分になれたじゃろ? 白山ちゃんの一本背負いは五つ星じゃよ。この技で僕もアストロナウト気分が味わえるんだもん」

「ならないよ、全然。というか俺、思いっきり地面に腰打ち付けた。めっちゃ痛え。後で青痣出来るぞ、こりゃ」

この取組、全く何も出来なかった梶之助の完敗であった。

「ちゃんと受け身取らないからだよ。えっへん。どうだ梶之助くん、参ったか?」

 無様にうつ伏せに転がっている梶之助を容赦なく上から見下ろす白山。しかもトランクスがずれて半ケツ状態になっている所を容赦なく踏みつけてくる。さらには勝利のポーズVサインまで取られてしまった。

「また負けちゃった。やっぱ白山ちゃんは強過ぎるよ。押しても全く動かないし」

 けれども梶之助はかなりの屈辱を味あわされながらも、悔しさはあまり感じなかった。なぜなら学力面では白山に遥かに勝っていることに誇りを持っているからだ。淳甲台高校入学式の翌日に行われた新入生テストの総合得点学年順位は全八クラス三一七名いる内、梶之助は五六位と大相撲の番付に例えるならば幕下上位レベル、白山は二六四位と序二段レベルだったのだ。ちなみに光洋は二六七位で白山とほぼ互角。秋穂は五四位で梶之助とほぼ互角である。利乃は五位で、大関レベルであった。

「私は日々足腰を鍛えてるからね。梶之助くんももう少し粘れるようになってね」

「うっ、うん」

 白山はそう言い放つと、こんなひ弱な梶之助に手を貸してくれ優しく起こしてくれた。彼の体にべっとり付いた土も手で払ってくれた。いつもこんな感じなのだ。

「予想通りの結果ね」

「梶之助よ、力の差がますます広がってもうたようじゃのう。男子たる者、力は女子より上であらんといかんのに。まあ僕も、白山ちゃんはもちろん寿美さんにも力負けするから人のことは言えんがのう」

 その様子を眺め、寿美さんと五郎次爺ちゃんはにっこり微笑む。

 幼稚園の頃から今までに百回以上はここで対戦しているが、今まで梶之助が白山に相撲に勝てたことはたった一回だけ。しかもそれも、白山の勇み足によるラッキーなものだった。

「梶之助くん、ご協力ありがとう。いい運動になったよ。なんかお腹空いてきちゃった」

 白山は満足げににこっと笑う。

「白山さん、良かったらお夕飯も食べてく? 今晩はスープカレーよ」

「スッ、スープカレーですとぉ! もっ、もちろんいただきます。私の大好物ですからぁっ」

 エサを目の前にして「待て!」の命令をかけられた犬のごとく涎をちょっぴり垂らしながら喜ぶ白山。

寿美さんは小学校の家庭科教師を勤めている。料理の腕前はプロ級なのだ。

「それじゃ、あとはお掃除よろしくね」

夕食準備のため、寿美さんは先に道場を後にし、鬼柳宅の台所へ。

残った三人は協力して土俵を竹箒で掃いて均してから、鬼柳宅の茶の間へと向かっていく。そこで待っている間、白山はお母さんに今夜は梶之助くんちで夕飯をいただくという連絡をスマホでしておいた。

「はーい、出来たわよ。白山ちゃんの分は横綱レベルの辛さの虚空にしたよ」

 しばらく待つと、寿美さんが四人分を卓袱台席へと運んで来てくれた。

「わぁーい。ありがとうございます、寿美おば様。スタミナが付きそう」

 マグマのように真っ赤なスープが白山の目の前にででーんとご登場。白山は幼い頃から筋金入りの辛党なのだ。

(俺はレンタルDVDで見た口だけど、一昔前のド○えもんの映画でパパの大好物として出された〝とかげのスープ〟よりも度肝を抜く強烈なインパクトだ)

 梶之助はこんな印象を抱きつつ、

「白山ちゃんの、すごいね。俺なんか覚醒でも水なしじゃ辛くて食えないのに」

 白山の方を向いて話しかけた。

「梶之助くんはまだまだお子様だもんね。辛いの無理だよね。あっかちゃーん」

 白山は指差してゲラゲラ笑ってくる。

「俺よりちっこい白山ちゃんには言われたくないよ。これくらい俺でも食える!」

さすがの性格穏やかな梶之助も、これにはちょっとだけカチンと来た。

「へえ、強気ね梶之助くん。じゃあさっそく食べてみてよ」

「……わっ、分かったよ」

「はいどうぞ、召し上がれ」

「……」

 こうなってしまったら後戻りは香車の駒のごとくもう出来ない、と後悔もした梶之助の前にススッと差し出されたその地獄皿。

(この赤いものは、例えるならえーと……そうだあれだ! ヨーグルトやアイスなんかに入ってる〝つぶつぶいちご〟だと思って食えばいいんだ。そう考えればこんなもの楽勝、楽勝)

 こう自己暗示した梶之助は、男らしく赤い部分が特に目立つ所を目掛けてレンゲを振り下ろす。掬い取ると休まず口の中へ一気に放り込んだ。

「……ん? あっ、あんまり、辛くないような……」

 ところが約二秒後、

「っ、ぅをわああああああっ!」

彼の口元は一瞬にしてバーナーの点火口へと姿を化した。

 すぐさま冷蔵庫へ光の速さで猛ダッシュ。五百ミリリットル入りアイスココアを取り出して一気にゴクゴク飲み干す。

 辛さは後になってじわりじわりと襲って来たのだ。

「アハハハ、やっぱり無理じゃない」

 白山は得意げになっているのかまたもや笑顔でVサイン。

「くそっ」

梶之助の舌はまだピリピリ痛みが走っていた。

「白山さん、梶之助ああなっちゃったけど、大丈夫かな? 少し薄めようか?」

 寿美さんは少し心配する。

「このままで大丈夫ですよ寿美おば様。そんじゃ、いただきまーす。あー美味しい♪」

 白山はそいつを平然と口の中へとベルトコンベアのように流れ作業的に運んでいく。とても幸せそうな表情を浮かべながら。これも梶之助の完敗だった。

「さすが白山ちゃんじゃ。タイ人もびっくりじゃな」

 五郎次爺ちゃんは褒めながら、自身は梶之助の分と同じ辛さのスープカレーに舌鼓を打っていた。

「満腹、満腹。ごっちゃんでしたぁーっ!」

 ちゃっかりお代わりまでいただいた白山に、

「白山さん、ついでにお風呂も入っていかない?」

 寿美さんはこう勧めてみた。

「そうですねー。さっきの相撲と、このカレーでかなり汗かいちゃったし。お湯もいただいちゃいます」

「白山ちゃん、僕といっしょに入らんかのう」

 五郎次爺ちゃんはにこにこ微笑みかけ誘ってみるが、

「五郎次さん、ダメよ。白山さんはもう年頃の女の子なんだから」

「アイタッ!」

 寿美さんにステンレス製のお玉杓子で後頭部をコチッと叩かれてしまった。

「私も、五郎次お爺様と入るのは、さすがに恥ずかしいです。でも、梶之助くんとなら全然気にならないですよ。梶之助くん、久し振りにいっしょに入ろう!」

「入るわけないだろっ!」

 梶之助は間、髪を容れず拒否。

「もう、梶之助くんったら大人びちゃって。下はまだまだお子様サイズのくせに」

白山はにっこり笑いながらそう言い放って、風呂場の方へとことこ走っていった。

「ああ、その通りだ……ていうか、なんで知ってる?」

 梶之助は困惑顔で突っ込む。

 週に一、二回、白山が夕方以降に鬼柳宅を訪れる時は、三〇パーセントくらいの確率で夕飯をいただき、二〇パーセントくらいの確率でお湯をいただいていく。鬼柳宅には、自慢ではないが大の男が十人以上は一度に入れるとても広い檜風呂が備え付けられてあるのだ。ちなみに風呂掃除や湯沸しは基本的に五郎次爺ちゃんが担当している。


「あー、汗も引いてさっぱりしましたぁ。それではそろそろお暇しますね」

 風呂から上がった後、白山は満足げな表情を浮かべながら茶の間に戻って来てこう告げる。

「白山ちゃん、今度は九〇年代末の大相撲ビデオを貸してやろう。九九年初場所の千代大海が若乃花に本割りと決定戦で連勝して逆転優勝をつかむ取組は特に見ものじゃぞ」

「ありがとうございます、五郎次お爺様。楽しみです」

白山は受け取った五本のVHSカセットを嬉しそうに両手に抱えると、玄関先へ。

「またね白山ちゃん」

「白山さん、またいつでもいらしてね」 

「オルヴォワール白山ちゃーん。また僕を投げ飛ばしに来てシルブプレ♪」

「ではさようなら、今日はたいへんお世話になりました」

 白山はぺこんと一礼して玄関から外へ出る。仄かにラベンダーセッケンの匂いを漂わせながら、徒歩数十秒の夜道を帰ってゆくそんな彼女の後姿を、三人は見えなくなるまでじっと眺めていたのであった。 

(おしまい)

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俺の幼馴染のモンブランちゃんはロリでフランス人形のようにかわいいけれど…… 明石竜  @Akashiryu

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