50話
症状が安定し、性徴顕化が終わったツムギの視線は、微妙な表情で固まっているリュウトへ向けられていた。両親が買い物に出た時間、リビングで同じソファーに座る二人は、真っ暗なモニターを見るでもなく、ぼうっとしている。
どう声をかけるべきか、何から話せばいいのか、そもそも受け入れられるのか。リュウトの内心に渦巻くものは、ほとんどが不信と不安のかたまりである。そう長くない糸でも、手の中でぐりぐりと潰すように押せば、もう二度とほどけなくなる……そこまで多くもない悩みも、相互にねじれてからみ合った結果、ひとつさえ口に出すことができなくなってしまっている。
横に並んでいる、ほんの一メートルもない距離も、恐ろしく遠い。
「あ――」「あのさ」
「あ、っと……」
「先言っていい?」
「……ああ」
自分と同じ黒髪も、しっとりとした光沢を帯びて美しく、陽を浴びれば虹をまとうのではないかとさえ思えた。VRデバイスを介した仮想世界とはいえ、キャラクターを作る際にそう手間をかける必要もなかった顔は、女性のものとなってもなお麗しい。どこか枯れたようなリュウトとは違い、ツムギの容貌は、水より出でたかと錯覚するほど根源的なみずみずしさを描き出していた。
「実はね……こうなるの、分かってた」
「……え」
「だって、ネットあるもん」
「――、」
リュウトが何か言葉を紡ぐ前に、少女は嘆息するように言った。
古くから、誤りやあいまいな表現を正して検索できるシステムはあった。五十年間蓄積された性徴顕化の情報には、わずかな違和感やはっきりしない症状についてのノウハウもある。
自分は性潜性児かもしれない、周りと比べてうちの子はおかしいかもしれない、そういった個々の悩み……あるいは、実際の症例を記録した文書や写真、黎明期のドキュメンタリー映画も残されており、WHOによるガイドラインも発行されている。たくさんの情報をつなぎ合わせれば、ツムギ自身が結論を出すにはじゅうぶんだった。
「股間の写真とか、性別ごとに平均身長とか体重とか、どっちだとどんな傾向があるとか。結局どっちかは分かんなかったけど、二人の反応見てたら、だいたいね」
「……甘いとこと厳しいとこ、確かに女の子の教育っぽいか」
姿勢やマナーに対する教えは、リュウトよりもツムギの方に多く注がれていた。できるとそれだけで手に職あるのと同じだから、と料理など学ばせていたのも、教育のつもりだったのだろう。成果を見れば、親として不適格であるなどと言えるものでもない。
「いろんなゲームで男の娘やってみたり、それっぽい口調とかも勉強してみたりしたし。いろいろやって出た結論は、……“別にいいや”って」
「なんだよそれ。別に、今のままでもいいだろうけど……」
「偽物を完璧にこなすのだって、きっとできるよね。でも、どうやっても素に戻るときが来る。自然体がずっと変わらないかって言われたら、きっとそうじゃないから」
「そうなのか?」
体形が変わって、取りやすい体勢が変わるかもしれない。あるいは、自分の声に合わないと思ったしゃべり方をやめるかもしれない。体内のバランスが変わったことで食べ物の好みが変わったり、気分がいいタイミングが変わったりするかもしれない。
つらつらと述べた可能性たちが、リュウトの頭の中をぐるぐると回っていた。
「たぶんだけど、何もしなくてもそれらしくなるよ」
「それ最初に……言われても、納得しにくいか」
人は社会性動物である。行動のほとんどは他者の模倣で、意識に深くインプットされたものさえ、ただ学習で得たものであることも少なくない。であれば、それらしい服装を身に着けて、同年代の少女たちと過ごすという体験は、ツムギをより「それらしく」変えていくことだろう。
「私ね、お兄ちゃんの隣にいたい。私がいちばん楽しい時間って、二人でゲームやってるときだから。配信のコメント読んだりきょうだい対決したり、タッグマッチでボコしたりするのもさ」
「なんかのセリフか?」
誰かの真似をしているのかと言おうとした口が、手のひらで塞がれた。
「私は、お兄ちゃんの知ってる部分からできてるの。ふたりで読んだ本とかタッグで遊んだゲームで情緒ができたし、同じもの食べてこの体ができた……から。きっとずっと、知らないところなんてひとつもないんだよ」
「……そうかな」
弟だった妹の何が変わったのか、リュウトは真剣に考えてこなかった。見た目が大きく変わり、これから歩む人生もきっと大きく変わったはずだが……今このとき本人がどうなっているのか、見た以上のことは考えていない。
「十五年生きてきた人生だもん、三日で途切れるはずないでしょ! ここがターニングポイントだとしても、まだぜんぜん、歩き出せるほどじゃないんだよっ!」
「落ち着けよ、ツムギ……!」
すう、と大きく息を吸った少女は、そして小さく言う。
「ちょうちょはすぐ飛べるけど、人はきっと違うよね。それに、私が変わっても世界は変わらない。まだまだたくさん初めてなことがあるし……そんなとき隣にいてくれる人、今はお兄ちゃんだけだから」
「そう、――か」
信頼の条件はいくつかあるだろう。リュウトのそれと妹のそれは、きっと少しずつ違っているのだろうが……真実について口を閉ざすことは、彼女にとって信頼と真逆であったに違いない。
それにね、とツムギは兄に顔を寄せる。
「もう何日もゲームしてないし、私も『ナギノクイント』買ってるから! もともとやる予定だったんだし、配信しながらやろう? 私が男の娘か女の子かなんて、視聴者ニキたちは気にしてないと思うしさ」
きっと、それは彼女のもっとも大きな答えだった。
「ごめんな、ちょっとまだ人脈が……」
「珍しいね。荒れてたとか?」
「……そうなんだよな」
「じゃあ、二人でやんないとね」
ああ、と言ったリュウトは、ひとつ決断をしていた。
(謝りに行かないとな……)
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