44話

 米粉食パンに鰆の西京焼き、それにサラダの残りとヨーグルトという朝食だった。こういうときはご飯の方がいいような気もするけど、毎回のように買っている食パンを早めに消費するためだろう。ご飯を炊くのは基本的に夕食なので、残りご飯があんまり出ないのもあるかもしれない。


「ご飯ちょっとだけ残ってるけど、食べる?」

「あ、お父さん帰ってこなかったんだっけ」

「ええ。食べないならいいけど」

「入らなさそうかなあ……」


 元からそのつもりがなかったのか、母さんは大きめの器に入れたご飯を冷蔵庫にしまっていた。食べ始めてから聞いていたので、ちょっと迷っただけかもしれない。


「ねえカリナ、ゲームだと一人称ってどうしてるの?」

「ん? と、ふつうに「私」かなあ」

「そう。なんか言うの避けてるように思えたのよ」

「それは、……ちょっと、あるかも」


 かなり痛い指摘だった。


 自分がどこで、どうやって、いつ決まるのか――自分を規定する言葉を発してしまえば、そこからは引き返せない気がしている。ゲームは仮想空間だから、「オレ」だの「ぼく」だの、それこそ「妾」でも自分を決めたことにはならない、と思えても……現実で口にしてしまうと、そこが引き返せないスタートラインになる。移り変わりやふとした拍子に戻るなんてこともあるはずなのに、なぜかそう思えていた。


「なんでもいいじゃない、ボクッ娘とかいるんでしょう? すごく大きく変わった直後なんだし、引きずっててもおかしいことなんてないじゃない」

「ん、そうだよね……」


 まったくの正論で、反論のしようもない。


 今や人口の二割強が性潜性児かその遺伝形質を持つ人間で、中学生のときの写真とは似ても似つかない、という人も少なくない。俺もその一人になるだろうし、同級生にもそれなりに似たような境遇のやつはいるはずだ。だから、俺ひとりがどうだろうと疑問を持つ人なんていないし、「そういう人」になるだろう。


 自分が何を気にしているのかは、だいたい分かっていた。


「オトコオンナって言われたんだっけ」

「うん。時代遅れだなって思ったけど、……」


 姉は苦々しい顔をしていた。母さんも続いて、それからこの話を続けることをやめたようだった。


「できるだけ、なんとかする。なるべく早めに」

「決心してるのね。いいことだけど、変なことはしないようにしなさい」


 うなずきながら、俺は朝食を終えた。身支度も終えて、まるでどこかに出かけるように心構えまで済ませて、チョーカーを付けてバイザーを用意する。何百回も繰り返してきたことなのに、ここまで緊張するとは思ってもみなかった。


「大風呂敷広げちゃってよかったの?」

「正直、まずかったかもとは思ってるけど……」


 姉は、机に本を広げて苦笑していた。


「あたしも後押ししちゃったから、責められないけどさー。どうにかなりそう?」

「自分が何なのか知る、って。難しそうだよね」

「分かり切ってることでしょ」

「うん。だから難しいんだ」


 知っていることを知ることはできない。だから、より深く理解するか、かみ砕いて説明できる状態にするかをしなくてはいけない。


 天海カリナとは何者で、どんな人間なのか――最近顕性女性になったゲーマーだ、ということはすでに分かっているし、それ以上の情報なんてない。だから、俺が求めているのはもっと先にあるものだ。


「新しいものを見られるかどうか、分からないけど……。気分転換くらいにはなると思う。いい顔で制服着たいから」

「ふふっ、そうだねー。ちゃんと覚えててえらいぞ!」


 今日何が起こるかは、だいたい予測がついている。だからこそ、新しい何かを見つけられる見込みもあった。少なくとも、ただ装備を作るだけの一日にはならないはずだ。寝転んで、俺は仮想世界にダイブした。




 出力ポイントを更新していないので、また噴水横のベンチからスタートすることになった。わずかなざわめきが聞こえて、俺は足音の聞こえた方を向く。


「よう。待ったぜ」

「おはようございます」


 アーミールックの青年は、憤怒と喜悦の中間のような表情をしていた。


「新戦力の試し斬りは俺に、っつってたよなあ? 聞いた話じゃあ、レイドボスに使ったのが最初で、あのカスどもが二回目なんだってな」

「防御系じゃ勝てないかもって思って……今は、攻撃手段もできましたし」

「今ならフルパワーで戦えるんだな?」

「三十人でも相手取れるくらい、ですよ」

「はっ、あんな雑魚ども数に入らねぇよ。スナック菓子はメシじゃねえ」

「そういう感覚なんですね」


 笑みが抑えきれなくなっている狂気じみた表情は、見ていて恐怖よりも大きな期待を感じてしまった。まったく不可解な感情のはずなのに、その期待が何なのかがすぐにわかってしまうのが不思議だった。


「どこで戦いますか」

「やりやすい場所があんなら、そっちで決めてくれていいぜ。あのカスどもをずいぶんボコしたみてぇだが、そんだけ一方的にクソ有利なら、ぜひやってみてぇなあ」

「死滅スラムのビルでしたね、たしか」

「ああ、「虚ろの残り家」か。狭い場所がいいってんなら、合わせてやる」

「じゃあ、移動しましょう」


 周囲のざわめきをよそに、そう遠くもない場所に戦いに行くことになった。

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